コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

モデスト・ムソルグスキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Sakanadaisuki (会話 | 投稿記録) による 2009年8月9日 (日) 04:26個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (生涯: ...余剰人員の宣告され...→...余剰人員と宣告され)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

モデスト・ムソルグスキー

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーModest Petrovich Mussorgsky, Моде́ст Петро́вич Му́соргский, 1839年3月21日 - 1881年3月28日 サンクトペテルブルク)はロシア5人組の一人である国民楽派作曲家である。「ロシア五人組」の中では、そのプロパガンダ民謡の伝統に忠実な姿勢をとり、ロシアの史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲によって作品を書いた。歌劇ボリス・ゴドゥノフ 』や管弦楽曲『禿山の一夜』、ピアノ組曲展覧会の絵』が有名。

生涯

プスコフ州地主階級に生まれ、6歳から母の手ほどきでピアノを始める。10歳のときサンクトペテルブルクのエリート養成機関ペーターシューレに入学。

ムソルグスキーは武官になることを夢見ており、13歳で士官候補生になるが、音楽は大切な存在であり続けた。1852年には父が出費して、ピアノ曲『騎手のポルカPorte-enseigne Polka』が出版された。

2年間のうちに、ロシアの文化人との出会いを果たし、ダルゴムイシスキースターソフバラキレフキュイとの出会いは重要であった。バラキレフの指導のもとに、歌曲とピアノ曲などの習作を手がけるが、1858年に軍務を退役する。リャードフ少年に出会い、モスクワ詣でにも出向き、同胞愛や郷土愛に目覚める。

ムソルグスキーは、バラキレフに師事して、ベートーヴェンなどのドイツ音楽を学んでおり、バラキレフの監督下に作曲された『4手のためのピアノ・ソナタ』は、ムソルグスキー唯一のソナタ形式を含む作品である。作曲を続け、未完成のまま放棄した歌劇『アテネのオイディプス』も、またピアノ曲『古風な間奏曲 Intermezzo in modo classico 』(1867年に改訂し、管弦楽化)も、やはり民族主義的でない。だが後者は重要な作品である。ムソルグスキー家は荘園の半分を収奪され、ムソルグスキー自身は、非常に多くの時間をカレヴォに過ごして、一家の突然の零落を何とか食い止めようとしたものの失敗した。

この頃ムソルグスキーはバラキレフの影響力から自由になり、ほとんど独学するようになった。1863年から1866年まで、歌劇『サランボー Salammbô 』に取り組む。ペテルブルクに戻り、下級官吏として生計を立てる。ペテルブルクで、近代芸術や近代科学について読書し、議論を戦わせた。そのような影響のもとにムソルグスキーは、段々と「リアリズム」という理念を抱くようになり、社会の低層に関心を寄せた。再現やシンメトリーのある楽式を拒否し、「現実生活」の繰り返しのない、予測のつかない流れに十分に忠実であろうとした。

「現実生活」の衝撃は、1865年に母親が没すると、ムソルグスキーにはとりわけ苦痛に思われた。この頃から深刻なアルコール依存症の兆しが見え始める。しかしながら26歳のムソルグスキーは、写実的な歌曲の作曲を始め、1866年に作曲された歌曲『ホパーク 'Hopak' 』と『いとしやサヴィーシナ 'Darling Savishna' 』は翌1867年に、初めて自力で出版された作品となった。1867年は、『禿山の一夜』の初稿が完成された年でもあったが、バラキレフはこれを批判し、指揮することを拒んだため、存命中には上演されなかった。

文官としての職務は安定していなかった。1867年に余剰人員と宣告され、出勤しても無報酬であった。とはいえ芸術生活においては、決定的な展開が生じようとしていた。バラキレフを中心とした作曲家集団についてスターソフが「五人組」と名付けたのは1867年のことであったが、それまでにムソルグスキーはダルゴムイシスキーに接近した。

1866年よりプーシキンの原作歌劇『石の客』を作曲中であったダルゴムイシスキーは、テクストは「その内的な真実が捻じ曲げられないように、あるがままに」曲付けされるべきであると力説して、アリアレチタティーヴォをやめデクラメーションをよしとした。

『石の客』に影響されて、1868年に作曲された、ゴーゴリ原作の『結婚』の最初の11場では、戯曲の日常的な対話の抑揚を、旋律線によって自然に再現することが優先されている。『結婚』は、ムソルグスキーの自然主義的な曲付けにおいて極端な位置を占めている。この作品は第1幕の終結まで作曲されながらも、管弦楽法を施されぬままに放棄されたが、その典型的なムソルグスキー流デクラメーションは、その後のあらゆる声楽曲において聞き取ることが可能である。自然主義的な声楽書法が、数ある表現原理の中で、しだいに唯一のものとなったのである。

『結婚』を放棄した後、ムソルグスキーはボリス・ゴドゥノフの物語でオペラを作曲するよう励まされる。このためプーシキンの戯曲や歴史物語を集め、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ 』を書き上げた。1871年に提出されるが、歌劇場から上演拒否にあった。初稿では、明らかにプリマドンナ役がなかったからだった。ムソルグスキーは改訂に取り掛かり、より大掛かりな第2稿を完成させ1872年(おそらく5月)に受理され、1873年にはマリインスキー劇場で抜粋上演が行われた。

1874年2月の『ボリス・ゴドゥノフ』の初演まで、ムソルグスキーは、不運に終わった「五人組」の合作オペラ『ムラーダ』にかかわって、このために『禿山の一夜』合唱版を作成し、歌劇『ホヴァーンシチナ』にも着手した。『ボリス・ゴドゥノフ』は批評家筋の受けが悪く、上演回数は十回程度でしかなかったが、聴衆には好評で、これによってムソルグスキーの活動は頂点をきわめた。

この頂点からの転落のきざしが次第に明らかとなり、ムソルグスキーは友人のもとから押し流され、アルコール依存症が関係する狂気も見受けられる。さらに友人ヴィクトル・ガルトマンが死に、肉親やルームメートのゴレニシェフ=クトゥーゾフ伯爵(『陽の光もなく』『死の歌と踊り』の作詞家)も結婚して去って行った。1874年以降は、『陽の光もなく』、『モスクワ河の夜明け』(『ホヴァーンシチナ』前奏曲)、『展覧会の絵』が作曲されている。歌劇『ソロチンスクの市』にも着手し、さらに『禿山の一夜』の、別の合唱版も作成した。

やがて著名人のサークルと交際を始めたが、酒量が抑えられず、身近な人の相次ぐ死は心痛をもたらしたが、ムソルグスキーの最も力強い作品『死の歌と踊り』が作曲された。文官としての仕事は、たびたびの「病気」や欠席のためにいっそう不安定になり、内務省に転職することができたことは幸運であった。しかも転職先では、ムソルグスキーの音楽熱が寛大に扱われたのである。1879年には、伴奏者として3ヶ月間に12都市で演奏活動を行なうことさえ許されていた。

イリヤ・レーピンによるムソルグスキーの肖像

しかし、1880年公務員の地位を追われる。ムソルグスキーの窮乏を知って友人たちは、『ホヴァーンシチナ』『ソロチンスクの市』を完成できるように寄付を集めようとした。『ホヴァーンシチナ』のピアノ・スコアは、2曲を除いて完成しており、仕上げまでもう少しというところまで達した。だが完成には至らなかった。

1881年初頭に4度の心臓発作に見舞われた。ムソルグスキーは入院させられ状況は絶望的であった。イリヤ・レーピンによって有名な肖像画が描かれたが、これは最期を伝えるものとなった。

作品

増四度を積み重ねる技法や、原色的な和声感覚、作曲素材の大胆な対比などは、さしずめ印象主義音楽表現主義音楽の前触れとなっている。

ムソルグスキー作品の目覚しい斬新さは、20世紀半ばにショスタコーヴィチによって、作曲者の手法にあたうる限り忠実に、2つの歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』と『ホヴァーンシチナ』の管弦楽法がやり直されるまで、永らく見過ごされてきた。また『禿山の一夜』は、ディズニー映画『ファンタジア』に利用されて、いっそう有名になった。

想像力に富み最も演奏される作品は、ピアノのための連作組曲展覧会の絵』である。この作品は友人であった建築家ヴィクトル・ガルトマンの遺功をしのんで作曲された。19世紀のうちから管弦楽への編曲が試みられていたが、今日のほとんどの演奏はラヴェルの編曲である。

ムソルグスキーは歌劇『ソロチンスクの市』を未完成のまま没したが、有名な舞曲『ゴパック』は、しばしば単独で演奏され、またラフマニノフのピアノ用への編曲で有名になった。

また、歌曲「蚤の歌」はゲーテメフィストフェレス』をストルゴフシチコフがロシア語訳した詞に曲をつけたバス独唱曲。その他の作品では、3大歌曲集(『子供部屋』(1872年)、『日の光もなく』(1874年)、『死の歌と踊り』(1877年))が有名である。

舞台作品

管弦楽曲

ピアノ曲

  • 騎士のポルカ
  • 組曲「展覧会の絵」
  • 古典様式による間奏曲
  • 子供の頃の思い出
  • クリミア南岸にて
  • 気まぐれな女
  • 村にて
  • 紡ぎ女
  • アレグロとスケルツォ ハ長調

合唱曲

  • セレナヘリブの陥落
  • イエス・ナヴィヌス

歌曲

  • 小さな星よ、お前はどこに
  • 楽しい時
  • サウル王
  • カリストラート(カリストラ-トゥシュカの改訂版)
  • 眠れ農民の子よ
  • ゴパーク
  • 愛しいサビシナ
  • 神学生
  • きのこ狩り(他者による編曲版あり)
  • 集い
  • いたずらっ子
  • 雄山羊
  • 古典主義者
  • イェリョームシカの子守歌
  • 歌曲集「子供部屋」
  • 忘れられた者
  • ラヨーク(のぞきからくり)
  • 歌曲集「日の光もなく」
  • 歌曲集「死の歌と踊り」
  • 不幸は落雷のようにではなく襲った
  • 傲慢
  • 蚤の歌
  • ドニエプルにて

映画やポップ・カルチャーにおけるムソルグスキー

ムソルグスキーの独特な荘厳な表現や高ぶった調子は、はなはだ直接的で覚えやすいため、映画テレビに転用されていっそう有名になった。またプログレッシブ・ロッククロスオーバーフュージョンなどの分野にも影響を与え、アレンジが試みられた。

関連項目

外部リンク

');