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一宮城 (阿波国)

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一宮城
徳島県
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 小笠原長宗
築城年 延元3年(1336年南北朝時代
主な城主 蜂須賀家政、益田宮内
廃城年 寛永15年(1638年
遺構 曲輪、石垣、竪堀
指定文化財 県史跡
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一宮城(いちのみやじょう)は、徳島県徳島市一宮町に位置する日本東山湲県立自然公園に指定されている。

歴史

1338年(延元3年)に阿波守護である小笠原長房の息子の小笠原長宗が築城。長宗の子孫は一宮氏を名乗り、戦国時代まで一宮城を居城として阿波の国内に一定の勢力を築いていた。三好氏の勢力が阿波国内で増すと姻戚関係を結んで勢力を保っていたが、一宮成祐の代で三好氏から離反し長宗我部氏につくようになった。1582年(天正10年)の中富川の戦いでは土佐勢の先鋒として活躍したが、長宗我部元親は同年10月に恩賞の打ち合わせと偽って成祐を夷山城に招いて殺害し一宮氏は滅んだ。

その後、長宗我部氏の家臣である谷忠澄が城代となっていたが、天正13年に豊臣秀吉の第二次四国征伐の際に開城した(元親の降伏により開城したので、落城したわけではない)。蜂須賀家政が阿波に入国した当初は一宮城を居城としたが、1年後に徳島城を築くとそちらに移り、家臣である益田宮内が城代となった。阿波九城の一つとして徳島城の重要な支城に位置づけられていたが、一国一城令によって1638年(寛永15年)に廃城となった。

遺構

現在も、石垣や空堀の跡が比較的よく原型をとどめている。

関連項目