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ジャーディン・マセソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ジャーディン・マセソン・ホールディングス
Jardine Matheson Holdings Limited
種類 株式会社持株会社
市場情報
略称 JM
本社所在地 イギリスの旗 イギリス
※登記簿上はバミューダ諸島ハミルトン
※ヘッドオフィスは香港ジャーディン・ハウス
設立 1832年7月1日
業種 サービス
事業内容 国際コングロマリット(国際複合企業)として、投資業、金融業、不動産業、建設業、貿易業、物流業、小売業、ホテル業、飲食業
代表者 ヘンリー・ケズィック
売上高 US$27.1 billion(2006年)
従業員数 連結:234,000人
主要子会社

ジャーディン・パシフィック
ジャーディン・モーターズ・グループ
ジャーディン・ロイド・トンプソン
ジャーディン・ストラテジック
ホンコン・ランド
ディリー・ファーム
マンダリン・オリエンタルホテルグループ
ロスチャイルド・コンティニュエーション

ジャーディン・サイクル・アンド・キャリッジ
関係する人物 ウィリアム・ジャーディン
ジェームス・マセソン
ケズィック・ファミリー
外部リンク http://www.jardines.com/
テンプレートを表示
社屋(ジャーディン・ハウス
ウィリアム・ジャーディン - 創業者
ジェームス・マセソン - 創業者

ジャーディン・マセソンJardine Matheson Holdings Limited, 怡和控股有限公司)は、香港にヘッドオフィスを置くイギリス系企業グループの持株会社ロスチャイルド系であり、米誌フォーチュン誌の世界企業番付上位500社の企業ランキング「フォーチュン・グローバル500」では世界437位。

概要

前身は東インド会社で、元は貿易商社。1832年イギリス出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンジェームス・マセソンにより、中国広州沙面島)に設立された。中国語名は「怡和洋行」。

中国での拠点は1844年上海の共同租界外灘(バンド)の中山東一路27号に移し怡和洋行大楼と呼ばれた。この場所の当時の地番は1号であり、ジャーディン・マセソンが最初に外灘(バンド)にて土地を獲得した。(現在は外貿大楼と呼ばれ上海市対外貿易公司や上海市外貿局等が入るが、間もなくサックス・フィフス・アベニューの中国1号店となる予定。)

1841年大英帝国の植民地の香港に本社を移転(現在登記上の本社はバミューダ諸島ハミルトン))。170年たった今でも、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(国際複合企業)として影響力を持っている。

設立当初の主な業務は、アヘン密輸のイギリスへの輸出。同じロスチャイルド系の香港上海銀行HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。

イギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。アヘンの輸入を規制しようとする朝政府とイギリスの争いが起こった際に、当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は9 票という僅差で軍の派遣を決定した。陳舜臣の『阿片戦争』にも、ウィリアム・ジャーディンジェームス・マセソンが登場人物として登場する。

香港中国に返還されるまでは、イギリス植民地資本であるジャーディン・マセソンの役員や幹部らがイギリス植民地下の香港行政局(現在の行政会議 )の非官守(官職)議員として参加し、香港政庁の政策に影響力を行使していた。

日本での歴史

日本では、幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーが長崎代理店として「グラバー商会」を設立。現在はグラバー園として公開されている。

幕末・明治の日本において、五代友厚薩摩)、伊藤博文長州)、坂本竜馬海援隊)、岩崎弥太郎三菱財閥)等を支援し、フランスに支援された徳川幕府打倒にも密接に絡んだたことで倒幕運動明治維新)の黒幕としても知られる。

横浜(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)にも、1859年(安政6年)に上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィックウィリアム・ジャーディンの姉の子)が支店である「ジャーディン・マセソン商会」を設立。日本に進出した外資第1号としても知られる。 麻生太郎前首相の祖父である吉田茂の養父・吉田健三が一時期、同社横浜支店長を勤めていた。

鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれた。跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。

近年ではマンダリン・オリエンタルホテル等の経営で知られる。

現在の影響力

ジャーディン・マセソン・グループは、ウィリアム・ジャーディンの死後、甥であるウィリアム・ケズィックの子孫によって運営され、その影響力は今なお健在である。現在でも国際コングロマリットとして香港を中心に中国・シンガポール・アメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア・中東・アフリカの一部で活発に展開しており、香港では香港政庁に次ぐ就業者数を誇っている。

銅鑼湾など香港の主要な土地の多くは19世紀前半に英国植民地政府によってジャーディン・マセソンへと払い下げられたために、香港のランドマークには「渣甸橋(Jardine's Bridge)」、「勿地臣街(Matheson Street)」、「渣甸街(Jardine's Bazaar)」、「渣甸坊(Jardine's Crescent)」、「渣甸山(Jardine's Lookout)」や「怡和街(Yee Wo Street)」といった社名(中国語表記は怡和洋行)や創業者(人物名のジャーディンに対する中国語表記は渣甸)にちなむ名前が付いたものが多い。

19世紀から20世紀にかけて幾度もの内部改革を実施したが、1947年に秘密トラスト (企業形態)によって一族経営が強力になった。長くイギリス系による経営が続いてきたが、1980年長江実業を率いる李嘉誠が敵対的買収を仕掛け、持ち株比率が約30%に達し筆頭株主になったこともある。その後、李嘉誠はジャーディン・マセソン社の関連会社であるホンコン・ランドに売却している。

1984年、登記簿上の本社をタックス・ヘイヴンとして有名なバミューダ諸島ハミルトンに移転。(ヘッドオフィスは香港ジャーディン・ハウス。)

1988年、持ち株会社制度を導入し、関連会社を含め大幅な改組を実施。ケズィック・ファミリーがロンドンの持ち株会社を支配し、ロンドン証券取引所シンガポール証券取引所で上場。現在の持ち株会社の会長(別称:大班)は、ケズィック・ファミリー6代目当主のヘンリー・ケズィック。兄弟のサイモン・ケズィックKwik Save社元代表)が7代目になる予定。同社の組織構造はほぼ完全に変わったが、ウィリアム・ジャーディンの一族が秘密トラストと共同株主による複雑な株式持合いにより企業支配を続けている。

主なジャーディン系企業

ジャーディンにちなんだ地名

参照

外部リンク

ギャラリー