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立憲主義

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立憲主義(りっけんしゅぎ、: Constitutionalism)は、多義的な概念であるが、国家の統治を、憲法に基づき行う原理、ないし、憲法によって権力の行使を拘束・制限し、統治機構の構成と権限を定めて、権利自由の保障を図る原理をいう。

歴史

古典的立憲主義

「憲法」には、広義では、国家の組織・構造に関する定めや政治権力の在り方などを定めた法規範という意味もある。これを「固有の意味の憲法」という。この「広義の憲法」に対応して、国家の統治を憲法に基づき規正しようとする原理を古典的立憲主義という。

古典的立憲主義は、ヴェネツィア共和国や英国にみることができる。英国法では、中世における、多様な民族による分権的多層的な身分社会を前提に、身分的社会の代表である議会と、特権的身分の最たるものである国王との緊張関係を背景として、王権を制限し、中世的権利の保障を目的とした古典的な立憲主義が成立した。そこでは、立憲主義は、コモン・ローと呼ばれる不文の慣習に基づき権力の行使を行なわせる原理として理解され、「国王といえども神と法の下にある」というヘンリー・ブラクトンの法諺が引用されるのである。もっとも、そこでは、そもそも君主といえども主権と呼べるほどの権力を有していなかったという特殊な事情は看過されてはならない[1]

近代的立憲主義

17世紀になるとフランスにおいて、王権への権力の集中が始まり、国王に対抗する中世的な身分的団体である各種ギルドが君主によって解体されていく中で、君主は法の拘束から解放されているとされて絶対君主制が確立し、ローマ教皇の権利からの対外的な独立性と同時に、国内における最高性を示すものとして君主主権の概念が登場する。主権自体多義的な概念なので注意が必要であるが、上記の意味での主権概念の成立と同時に、巨大な権力である国家と向き合い対峙する、社会の最小単位としての個人という概念が成立したのである[2]

近代的立憲主義は、このような絶対君主の有する主権を制限し、個人の権利・自由を保護しようとする動きの中で生まれたのである。そこでは、憲法は、権力を制限し、国民の権利・自由を擁護することを目的とするものとされ、このような内容を持つ憲法を、特に立憲的意味の憲法(近代的意味の憲法)という。フランス人権宣言16条には「権利の保障が確保されることなく、権力分立が定められていないすべての社会は、憲法をもつものではない」とあるが、ここにいう「憲法」や、19世紀に各国で定められた自由主義的憲法こそ、立憲的意味の憲法である。個人の人権の保障と権力分立は、その重要な要素である。

フランスでは、1789年フランス革命が起こり、その後成立した1791年憲法は、国民主権の原理を宣明するとともに、国王を国家第一の公務員にすぎないと定めた。ここでの国民は、抽象的な全体を示すナシオンであるとされ、個々の市民の総体であるプープルと厳密に区別されていた。しかし、1792年立憲君主派の擁護もむなしく、時の国王ルイ16世がその浅はかな行動によりギロチンにかけられることになり、このことが英国を始め諸外国の反発を招き、フランス包囲網へと発展する。このような国際状況下、フランスは、帝政を経験し、政治的な混乱を極める中で、共和制へ移行していく。その過程で、ナシオン主権論をとるか、それともプープル主権論をとるかが、統治構造のあり方を変えるものととして議論されるようになったのである[3]

他方、英国では、16世紀から王権神授説に基づく国王主権が主張されるようになっていったが、マグナ・カルタ以来の中世的伝統を受けて、これに対抗するかのように法の支配の概念が16世紀から17世紀にかけて確立されていった。その影響の下、1688年名誉革命を経て、1714年ジョージ1世の治世に立憲君主制が確立する。そこでは、フランスとは対極的に長い歴史を経て穏健な形で君主の権力を制限することができたことから、国民主権の概念をとる必要もなく、むしろ貴族院と庶民院という国会内部での権力の抑制が重視されることになって、国会主権の原則が確立されたのである[4]

もっとも、ここで看過してはならないのは、英国での近代的立憲主義の確立がマグナ・カルタやアーブロース宣言にみられるような一見中世的な古典的立憲主義の復活という形をとりながらも、実際にはロック社会契約説抵抗権に支えられた信託に基づく人民主権論という近代的な思想に支えられていたことである[5]

その後、1776年バージニアでは、ロックの人民主権論を背景に、憎むべき耐え難い専政を布いた、時のイギリス王ジョージ3世を告発し、このような契約違反を理由に信託に基づく国王の主権を人民の元へ取り戻すという形で、人民主権論をとるバージニア憲法が成立し、これを受けて、アメリカ合衆国では、「法の支配」を実際の明文憲法の起草にあたって根幹に据えたアメリカ合衆国憲法1788年に成立するのである。

もっとも、アメリカ法では、法の支配の伝統に基づき、フランスにおける主権者の一般意志の表明による法律の至高性といったルソー的な人民主権論は忌避されており、かかるフランス流のルソー・ジャコバン型国家観と対極的な、多数の私的な団体が混在する多層的な多元的社会を背景とした市民社会主導型のトクヴィル・アメリカ型国家観が存在するとの指摘がある[6]

外見的立憲主義

フランス革命、名誉革命という立憲主義の波の中、フランスと英国から国際的圧力を受けていた資本主義後進国のプロイセンドイツでも、人権・自由の保障を求める三月革命が起るが、前期的資本を上からの革命によって産業資本へ転化させようとする流れによって、三月革命は頓挫を余儀なくされ、1871年ビスマルク憲法(ドイツ帝国憲法)によって立憲君主国としてドイツの統一が実現する。日本でも、ドイツと同じ流れの中で、明治維新が起こり、1889年大日本帝国憲法が成立するが、ドイツ帝国憲法と大日本帝国憲法は、いずれも旧体制の機構の温存こそが目的であって、人権や自由の保障を目的とするものではなく、そこでの権利は恩典的な性質のものとされたことから、外見的立憲主義による憲法と呼ばれることになる[7]

近代的立憲主義の現代的変容

以上のように、近代的立憲主義は、法による権力の拘束を内容とする消極国家観を基に、フランス、イギリス、合衆国において成立し、19世紀に至って確立された原理である。ところが、2度の世界大戦と世界恐慌を経た現在、各種財政出動等国家権力による介入の要請が強まり、「消極国家から積極国家へ」との標語の下に、近代的立憲主義は現代的な変容を余儀なくされている。もっとも、近代的立憲主義が確立した各国では、あくまで近代の理念を生かす限りでの現代的理念が追求される傾向が強いのに対し、外見的立憲主義が成立したにすぎないドイツ、特に日本では、近代の超克ないし否定といった形で現代的理念が唱道され、個人という概念のアナクロニズム性や古来の慣習や道徳の復権が強調される傾向があるとの指摘がなされている[8]

参考文献

  • 樋口陽一『比較憲法』(第3版)、青林書院、1992年
  • 野中俊彦ほか『憲法 I』(第4版)、有斐閣、2006年
  • 高橋和之『立憲主義と日本国憲法』、有斐閣、2005年

脚注

  1. ^ 上掲樋口420頁
  2. ^ 上掲樋口421頁
  3. ^ 上掲樋口65頁
  4. ^ 上掲樋口65頁
  5. ^ 上掲樋口93頁
  6. ^ 上掲樋口273頁
  7. ^ 上掲樋口83頁
  8. ^ 上掲樋口430頁

関連項目

外部リンク