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金瓜石鉱山

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金瓜石鉱山(きんかせき こうざん)は台湾北部、旧台北州基隆郡にあった金鉱山。かつては東北アジア第一の金山と呼ばれ栄えた。現在は廃鉱し、観光地となっている。

歴史概略

清朝統治下

金瓜とは台湾の言葉で南瓜(かぼちゃ)を意味し、山の形が南瓜に似ているところからその名が付いたと言われている。

1890年基隆川に架ける鉄道橋工事の最中、作業員によって渓流から砂金が発見された。以後猴硐溯から小粗坑溪、大粗坑溪に沿って上流への鉱脈探索が進められ、1893年には九份(きゅうふん)にて金鉱を発見、一躍ゴールドラッシュの様相を呈した。翌1894年には金瓜石でも金鉱が発見される。

日本統治下

1896年、基隆山山頂を境として一帯が東西に分けられ、西の瑞芳は藤田伝三郎の藤田組に、東の金瓜石は田中長兵衛の田中組にそれぞれ採掘権が与えられた。田中長兵衛は現場の責任者に小松仁三郎[1]を任命。

1913年には台湾三金山の1つとして金瓜石と並びされる牡丹坑鉱山を買収してこれを金瓜石鉱山と合併させている。 この頃の金瓜石鉱山の産金高は当時の日本第一位であった。

1922年には翌年台湾に行幸する皇太子を迎える為、二代目田中長兵衛により檜造りの日本家屋、太子賓館が建てられる。皇太子が金瓜石に訪れることは無かったが、後に太子賓館には他の皇族が宿泊したと言われる。

1925年秋には鉱山の経営権が後宮信太郎の金瓜石鉱山株式会社に移る。

1933年にはこの年より経営権を手にした日本鉱業株式会社によって黄金神社が建立された。

金瓜石は最盛期の1930年代半ばには住民15,000人を数えるまでなり、1936年の採掘量は金5t、銀15t、銅11,000tに上った。

中華民国統治下

第二次世界大戦後、中華民国政府は金瓜石を没収し、金銅鉱務局設立準備処を設立、10年後の1955年には金瓜石鉱山を再度組織し直し台湾金属鉱業股份有限公司が設立された。金瓜石は一時的に活気を取り戻したが鉱脈は次第に尽き、錬銅工場を造るなど多角経営に乗り出したものの、1985年に廃業を決めた。およそ90年間に亘って掘られた坑道の総延長は約600kmに及ぶ。

沿革

清朝統治下
  • 1890年 - 鉄道橋工事中に基隆川で砂金が発見される。
  • 1892年 - 清朝が基隆金釐砂局を設置、砂金収集に訪れる人々に許可を与え税を徴収する。
  • 1893年 - 隣の九份で金鉱脈が見つかりゴールドラッシュが始まる。
  • 1894年 - 続いて金瓜石でも金鉱を発見。
日本統治下
  • 1895年 - 下関条約により、台湾が大日本帝国の統治下に編入される。
  • 1896年 - 金瓜石鉱山が東京の田中長兵衛の所有となり、田中組が組織され採掘に当たる。
  • 1905年 - 金銀、豊富な硫砒銅鉱を含む第一長仁鉱床が発見され、次第に銅の採掘が増える。
  • 1913年 - 金瓜石と並び台湾三金山の1つと称された牡丹坑鉱山を田中家が買取り、金瓜石鉱山に合併させる。
  • 1918年 - 田中鉱山株式会社に経営権を委譲。
  • 1922年 - 翌年の皇太子(後の昭和天皇)行幸を控えて太子賓館が建てられる。
  • 1925年 - 11月、経営権が後宮信太郎の金瓜石鉱山株式会社に継承される。
  • 1933年 - 日本鉱業株式会社の経営となり、この年黄金神社が建立される。
中華民国統治下
  • 1945年 - ポツダム宣言により、台湾が中華民国の統治下に編入。中華民国政府は金瓜石を没収、金銅鉱務局設立準備処が設立される。
  • 1955年 - 金瓜石鉱山が再編成され台湾金属鉱業股份有限公司(台金)が設立される。
  • 1973年 - 台金公司が多角化経営に乗り出し禮樂錬銅工場を設立。
  • 1985年 - 台金公司が廃業を決定。
  • 1987年 - 金瓜石鉱山閉山。
閉山後
  • 2004年 - 金瓜石鉱山の記念館、金瓜石黄金博物園区がオープン。

脚注

  1. ^ 生年1848(嘉永元年),東京都港区芝新堀町

参考文献

  • 台湾日日新報』1935年10月7日。
  • 富士製鉄釜石製鉄所『釜石製鉄所七十年史』1955年。