小松原一男
小松原 一男(こまつばら かずお、1943年12月24日 - 2000年3月24日)は、神奈川県横浜市出身の日本の男性アニメーター、キャラクターデザイナー。
1970年代から1980年代の東映動画作品を代表するキャラクターデザイナーとして活躍。東映動画の社員ではなく、テレビアニメ時代を迎えた東映動画を支えた、外注プロダクションの生え抜き第1世代にあたる。作画スタジオ「OH!プロダクション」取締役。
生い立ち
中学卒業後定時制高校に通いながら、電気器具の塗装の仕事に就く。松竹映画スター肖像画コンクールに応募して入選するなど、かねてから絵で身を立てたいと祈願し、横山隆一のアニメ制作スタジオ「おとぎプロ」を見学したり、手塚治虫の虫プロダクションの入社試験を受けたりした末に、1964年に東映動画のアニメーター養成機関だった大森分室へ入所する。
1期生は研修を終えると東映動画へ入社したが、小松原ら2期生の4人は大森分室に残り、大森分室はそのまま作画スタジオ「チルドレンズ・コーナー」として独立。スタジオを主宰する山本善次郎は東映動画の創立メンバーで、「チルドレンズ・コーナー」は自然と東映動画系の外注スタジオという位置付けになった。東映動画初のテレビアニメ『狼少年ケン』の動画で小松原はデビュー。このとき仕事をともにした月岡貞夫らから触発されたと、後に語る。
仕事歴
虫プロダクションやTCJなど他社の作品もこなしながら、『魔法使いサリー』で原画に昇格。1968年に朝日フィルムへ、1969年にハテナプロへとスタジオを移り、同年の『タイガーマスク』で初の作画監督を経験。『タイガーマスク』は小松原にとって初の劇画調の作品であり、初期の代表的な仕事と評価されている。ハテナプロは分裂する形で解散し、1970年に小松原は、村田耕一、米川功真、才田俊次らと作画スタジオOH!プロダクションを設立。OH!プロダクションは、東映動画や東京ムービー、日本アニメーションの作品を手がけたが、小松原はもっぱら東映動画作品に参加した。
1972年の『デビルマン』を始めとして、『ゲッターロボ』(1974年)、『ゲッターロボG』(1975年)、『UFOロボ グレンダイザー』(1975年)、『マグネロボ ガ・キーン』(1976年)と東映動画で永井豪原作のテレビアニメのキャラクターデザインを次々と任された。1987年からのマンガ版を元にした『デビルマン』をリメイクしたオリジナルビデオアニメでは、再びキャラクターデザインと作画監督を務めている。
小松原がアニメファンの間で強い支持を集めたのは、『宇宙戦艦ヤマト』でブームを巻き起こしていた松本零士作品のキャラクターデザインだった。1978年のテレビアニメ『宇宙海賊キャプテンハーロック』、1979年のアニメ映画『銀河鉄道999』を担当。松本キャラクターに挑んだアニメーターの中では小松原が一番の人気を得て、アニメ雑誌の表紙やページを小松原のイラストがしばしば飾った。同時期の東映動画作品のキャラクターデザイナーでは荒木伸吾も人気を博していたが、東京ムービー作品も手がけた荒木に対して、小松原は東映動画を仕事の中心としていた。松本作品でコンビを組んだりんたろう監督とは、その後も『がんばれ元気』(1980年)で仕事をし、アニメ映画『メトロポリス』もりんたろう監督作品だった。
永井豪や松本零士といった男性向けの作品ばかりでなく、『ミラクル少女リミットちゃん』(1973年)、『はーいステップジュン』(1985年)といった少女向け作品のキャラクターデザインも担当している。宮崎駿に請われて参加し、作画監督としてクレジットされた1984年のアニメ映画『風の谷のナウシカ』は、監督の宮崎駿が総作画監督的な役割を兼ねており、作画面では補佐的な立場だったが、東映動画の長編時代全盛期を知らない小松原にとって、宮崎から学ぶことは多かったという。
小松原のオリジナルキャラクターでは、J9シリーズと呼ばれた国際映画社の一連の作品も好評を博した。
OH!プロダクションは下請けにとどまらず、高畑勲を監督に迎え、宮沢賢治原作の『セロ弾きのゴーシュ』を7年かけて自主製作して1982年に公開する気概を見せた。小松原はこの作品で企画を担当している。
晩年
1990年代後半に胃潰瘍で倒れてからは、テレビアニメから退いて、劇場アニメやオリジナルビデオアニメの仕事に比重を移した。『メトロポリス』では、病の痛みのために立ったまま原画を描いたが、完成を見ることなく2000年3月24日に頚部悪性腫瘍で死去した。