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北条綱高

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北条綱高
時代 戦国時代
生誕 永承3年4月、伊豆国雲見上ノ山城にて誕生
死没 天正13年10月12日没、享年78歳
改名 三島丸、高橋将監太郎種政、北条常陸介綱種、北条治部少輔綱種
別名 高橋治部少輔綱高
諡号 龍雲斉
戒名 高栄院殿紗前礼治部浄德日真大居士
墓所 武州碑文谷法華寺
官位 常陸
主君 伊勢宗瑞北条氏綱氏康氏政
氏族 [[大蔵[劉]高橋氏]]→後北条氏
父母 父:高橋高種、母:伊勢宗瑞の養女
養父:北条氏綱
兄弟 綱高高橋氏種日栄聖人女子女子
高真院殿前南条大夫夫人妙德日善大法尼
高橋康種
特記
事項
「大蔵高橋系図」「大宅高橋系図」参照
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北条 綱高(ほうじょう つなたか)は、戦国時代伊豆国を本拠とした武将である。小田原北条氏家臣。父は大蔵系高橋氏の高橋高種とされ、母は伊勢宗瑞(北条早雲)の娘。武略に優れ、家中でも屈指の勇将であったという。初名は高橋綱種と名乗ったと言われている。

生涯

父の高橋高種伊勢宗瑞に仕えると、長男の綱種は宗瑞に養育され、後に北条五色備として黒備えを率いる多目元忠に師事し、伊豆国韮山に居住した。

大永4年(1524年)、江戸城を攻略の後、綱高の功績と母の縁もあり、伯父の北条氏綱の養子となって北条綱高を名乗り、相模国玉縄城代を務めた。氏綱に見込まれただけのことはあり、扇谷上杉氏との戦いで多大な戦功を挙げる。

天文6年(1537年)、扇谷上杉家臣の難波田善銀が守る深大寺城を攻略した。その後、弟の高橋氏高と共に、深大寺城奪回に押し寄せた難波田率いる扇谷上杉軍と対峙した。その間に北条氏綱が河越城へ進軍したため、難波田勢が撤退を始めると、それを追撃。多くの敵兵を討ち取り、大勝した。

永禄7年(1564年)には第二次国府台合戦にも参陣している。

北条五色備(ほうじょうごしきぞなえ)の赤備えを率いており、北条氏の武蔵制覇に非常に重要な役割を果たしていたであろうことが推測される。なお地黄八幡として有名な北条綱成は黄備えを率いており、その活躍に匹敵する武将であったと思われる。

没年不詳。

備考

高橋高種の子とされるが、資料が少なく確定的なことは不明。上記記述に関しても、現在時点での定説を記しているものであり、今後の資料の発見や解釈によって変化する可能性がある。

関連項目