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無条件降伏

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無条件降伏(むじょうけんこうふく, Unconditional surrender)とは、普通には軍事的意味で使用され、軍隊または艦隊が兵員・武器一切を挙げて条件を付することなく敵の権力にゆだねることを言う。従来、国際法上は降服の語が用いられていたが、第二次大戦における国家の無条件降伏については降伏の語が用いられた[1]

概要

降伏の条件があらかじめ取り決められていない場合は無条件降伏であるが、“戦勝国が提示した条件に何ら条件をつけずして降伏した”場合も、一般には「無条件降伏」と言う[2][3]。無条件降伏の宣明は、原則として戦争終結にさいし一切の和平交渉を拒否するものである[4]

古代から近代に到るまでの無条件降伏は、元首すなわち部族長、盟主、王などの身柄や生殺与奪の引渡しと武装解除に象徴されているが、統帥権の分立している近現代国家においては無条件降伏の判断要件は容易ではない。また戦時国際法の元では近代以前の意味での無条件降伏や投降は成立しない。米国の、国際慣行法をまとめた戦時法の手引き(野戦マニュアルFM27-10『陸戦法』)では無条件降伏について「無条件降伏は、軍隊組織を無条件に敵軍の管轄下に置く。両当事国による署名された文書を交わす必要はない。戦時国際法による制限に従い、敵軍の管轄下に置かれた軍隊は、占領国の指示に服する」(478条)と定義している[5][6]。この場合無条件降伏による戦闘終結は国際法の制限を受けるため、交戦の帰結による戦闘終結より厳重であることはない[7]

一般に継戦中の部隊に対し降伏条件として無条件降伏を突きつけることは極めて稀である。この条件下では敵部隊に自暴自棄な戦闘継続の意志を焚き付けるだけであり、戦争終結がむしろ遠のくからである。

無条件降伏の事例としては、北米での南北戦争南軍が、また国土を敵軍に蹂躙され政府が消滅し征服された第二次世界大戦時のナチス・ドイツ(デベラチオ:戦亡)、イラク戦争で転覆され消滅したフセイン政権が有名。

国家が無条件降伏をしている場合、講和条約を締結するさいに戦勝国にこの条件で条約を受諾せよと提示された場合、法理論的には受諾しなければならない[8][9]

グローティウスは『戦争と平和の法』においてローマ法における信義(フィデス)の重要性を強調し「戦争においては常に講和を目標とすべき」であり「講和が締結された時は、"その条件の如何を問わず"、信義の真性のため、絶対にこれ(和平)を遵守すべきであって、すべての道は最大の良心と信義とを以って守るべきのみならず、敵対関係から善意(グラチア)に回復されたものをも特に守るべきである、とする[10]

また、- 勝利者が国際法に定められたこと以外に何の約束もしないときやも一般的に無条件降伏と呼ばれる。(第13回参議院外務委員会昭和27年5月29日)

ディアドコイ戦争

古代マケドニア時代、アレクサンドロス3世急逝後その配下の将軍たちが大王の後継者(ディアドコイ)の座を巡って繰り広げた戦争の末期、講和を申し出たカッサンドロスに対しアンティゴノスが降伏を要求。これが戦争継続と帝国分裂の最終的な要因となった。(ディアドコイ戦争参照)

カレー包囲戦

英仏百年戦争の初期、イングランド王エドワード3世がフランスの港湾都市カレーを包囲し開城させた戦い。11ヶ月の包囲の後、飢餓により市民が開城を申し出た時、エドワード3世は「全市民を処刑するも身代金を取るもエドワード3世の自由」とする無条件降伏を要求した。(カレー包囲戦参照)

南北戦争

「無条件降伏」という用語は、1862年のドネルソン要塞の戦いの際、南軍からの降伏の申し出に対して、包囲軍の司令官グラントが発した「『無条件』のみを降伏の条件として認める」という回答が初出であったとされる。この戦いは北軍にとって最初の勝利の一つであった。このとき新聞がグラントのイニシャルである U.S. と Unconditional Surrender とをかけて報道したために用語が広まった。

その後、1865年に南軍全体が降伏したが、この降伏は必ずしも「無条件」であったわけではない。リーの降伏の際は、北軍は将兵の復員のために個人用武器と馬の携行を認めている。

オーストリア・ハンガリー帝国

第一次世界大戦の末期、フランスとの単独講和画策に失敗し同盟国ドイツの信頼を失ったカール1世は、連合国に対し1918年11月3日無条件降伏。11月11日に退位した。

ユーゴスラヴィア王国

1941年4月6日、ドイツ軍の航空部隊がユーゴスラヴィアに侵入し空爆をおこない、次いで多方面から国境を越えたドイツ軍がユーゴスラヴィア王国軍の守備隊を次々と打ち破った。ユーゴスラヴィア王国軍は総崩れとなり開戦からわずか11日後の4月17日に無条件降伏に追い込まれた[11]

イタリア王国

1943年ムッソリーニの失脚にともないパドリオ政権は国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世とともに南部イタリアのブリンディシに脱出して連合軍の一員となりドイツとの戦いをはじめる。その際9月に無条件降伏調印、10月にドイツに宣戦布告している。イタリアおよび日独・枢軸加盟国(衛星諸国)に対する無条件降伏の適用について、カサブランカでの英米首脳会談でルーズベルトから打診されたチャーチルは、イタリアについては枢軸国側からの離脱をさそうため当初は否定的であったが戦時内閣(英)はイタリアの除去に否定的であり、結局1943年1月24日の共同記者会見でイタリアおよび衛星諸国を含めた宣明として公表された[12]

ナチス・ドイツ

ドイツについては第一次世界大戦の敗因が戦場での敗北ではなかったとするドイツの主張が再びなされることがないように、今度は完全に敗北したことを強制的に認識させる趣旨があり、また対独戦で孤立感を深めていたソビエトを激励するという目的もあったとされる[13]

ドイツの場合はイタリアや日本、衛星諸国の降伏とはことなり完全な戦亡(デベラチオ)であった。ドイツ軍は、5月7日 (発効は翌日) にフランスのランスで連合国と、5月9日に首都ベルリンでソ連軍に対し降伏文書に署名をしている[14] 。調印式が2回行われたわけだが、降伏文書には軍の代表者の署名がされている。しかしドイツ国家としての降伏文書(休戦協定)の署名はない。

ベトナム戦争

1975年4月30日北ベトナム軍の完全包囲の元で、ベトナム共和国(南ベトナム)政府が戦闘の終結と無条件降伏を宣言した。ズオン・バン・ミン大統領は前日に就任したばかりであった。(ベトナム戦争参照)

大日本帝国

日本国軍隊

終戦に伴う、日本国軍隊の降伏は、無条件降伏である。日本国が受諾したポツダム宣言第13条には、日本国軍隊の無条件降伏(と拒否を言明した場合、全滅に至るまでの攻撃を受けるであろう事)が定められている。同第9条には、「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」と、日本国軍隊に関する規定が定められているので、日本国軍隊はこれに従い無条件降伏した。

日本国政府

政府の場合は、降伏が無条件の降伏ではなかったとする説と、無条件の降伏であったとする説とがある。

なお、どちらの説の立場をとるにせよ、大日本帝国政府と大本営は、降伏文書を通じて、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項を実施する為適当と認むる処置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かれること、ポツダム宣言とカイロ宣言の条項などを受け容れている。このため占領中は、この限りに於いて連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の命令と指示にしたがう必要があった。

無条件降伏論争

1978年、文芸評論家の江藤淳本多秋五の間で「無条件降伏論争」が行なわれた(江藤『全文芸時評』『もう一つの戦後史』、『本多秋五全集』第13巻)。論争は文学者間で行われたもので、日本の降伏の本質の捉え方と野間宏ほかに代表される戦後文学をどう評価するかの二点が問題となった。降伏について、江藤はポツダム宣言にある条件を受諾した降伏であるから無条件降伏ではなく、宣言中にある無条件降伏は日本国軍隊についてのみであるから、無条件降伏したのは日本国ではなかったと主張した。本多はカイロ宣言にあった日本国の無条件降伏の思想はポツダム宣言にも通底していたとし、「大括弧でくくられる『無条件降伏』の思想と小括弧でくくられる『有条件降伏』の方式とが同時に存在する」と主張した[15]。論争の後に国際法を専門とする高野雄一は朝日新聞紙上で解説を行ない、ドイツと異なり政府の存続を認められたのが日本の降伏であるとした上で、無条件降伏ではないという点では江藤が正しいとした。ただし、江藤が従属制限の法的条項には論争で全然触れておらず、「日本は明示された諸条件の下に主権を維持しつついわば約束ずくの降伏」をしたとして、占領管理下の日本をもそう理解しているようであるならば、それは誤りだと指摘する[16]。江藤は後の講演で、“その後学術的に高野らに明確に反論した者はなく、ポツダム宣言受諾は条件つき降伏であるとの論が有力である”と語っている[17]

無条件降伏ではないという説

ドイツ政府は征服によって消滅し聯合国の完全なる支配の下に置かれることとなったが、日本政府と聯合国との法的関係はドイツのそれとは異なる基礎の上に立つものである。これは休戦に至った経緯の差異に基づく。日本は聯合国のポツダム宣言を受諾することとなり、そこに条件が示されている。そして降伏文書自体もその宣言即ち「下名はここにポツダム宣言の条項を誠実に履行すること並に右宣言を実施する為聯合国最高司令官の要求することあるべき一切の命令を発し且かかる一切の処置を執ることを天皇、日本政府及その後継者の為に約す。」又「天皇及日本国政府の国家統治の権限は本降服条項を実施する為適当と認むる処置を執る聯合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす。」と援用されている。この文書は「降伏文書」という形式をとってはいるが、締約国を拘束する国際協定の性質を持つものであり、相互的な義務及び権利が存することとなったものである。[18]

ポツダム宣言自体一つの条件であり、第5條には「吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。」と明言されている。「無条件降伏(降服・降譲)」という文字はポツダム宣言第十三條及び降伏文書第二項にも使用されているがこれは何れも日本の軍隊に関することであって、これが為にポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を喪うものであると解すべきではない。[18]

日本は国体護持という条件を突付け戦闘行為を終えたものであり、無条件降伏ではなく条件付降伏であった。[19]

高橋正俊はポツダム宣言は条件付休戦条約であると考えられているとする[20]。 政府見解では「我が国と米国はサンフランシスコ平和条約を発効するまでの間、それまでの間、国際法上のいわば戦争状態にあり、戦時国際法である陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約が当時の両国間の関係について適用されていた」[21]としており、ポツダム宣言受諾調印をもって国家間の戦争状態の終結とはしていない。

また大西洋憲章をすでに宣言した米国による日本への「憲法の押し付け」は民族自決権を表明した同憲章の理念に反しているとの意見がある[22]極東委員会やマッカーサー総司令部が行った憲法制定や検閲、言論や教育の統制などの占領政策は大西洋憲章の趣旨が反映されたポツダム宣言や降伏文書、降伏の条件として国体護持を出したときに日本国の最終の政治形態は日本国民が自由に表明する意志で決めるとの回答に違反する行為であった[19]

ポツダム宣言13条では「日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し且右行動に於ける同政府の誠意に付適当且充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す」とあり(原文カナ文字)、日本国政府の日本国軍隊に対する姿勢は「軍隊の無条件降伏を宣言する主体」として別個の扱いであり、日本国政府が自らの無条件降伏を宣言する体裁を採用していない。

一方で、カイロ宣言が発表された1943年11月のカイロ会談では、無条件降伏を行うのが軍隊なのか国家なのかが議論され、この時は、無条件降伏を行うのは国家とされた。カイロ宣言では、単に最後の項で「右の目的を以て、右三同盟国は、同盟諸国中日本国と交戦中なる諸国と協調し、日本国の無条件降伏をもたらすに必要なる重大且長期の行動を続行すべし。」(原文は片仮名体)とある。

降伏文書の調印に先立ち、アメリカ主導で組織された連合国軍は、同年8月28日からイギリスオーストラリアニュージーランドなどによるイギリス連邦による協力を受け、日本への進駐を開始した。連合国は日本本土に対して軍政を実施するとの情報があり、重光外務大臣は9月3日にマッカーサーに面会し、直接具申しこれを撤回させた。永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、日本の無条件降伏が軍に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする[23][24]

無条件降伏であったという説

日本政府は、国会答弁で「日本国は無条件降伏をした」と説明したことがある[25]。2007年(平成19年)、安倍内閣は衆議院質問答弁書で、無条件降伏の定義について一概に述べることが困難であるということもあり、(日本国が無条件降伏したか否かについては)様々な見解があると承知している、と答弁した[26]

無条件降伏を最初に持ち出したフランクリン・ルーズベルトは当初から一貫して「無条件降伏」の具体的要件について明確化させない方針を採用した。ルーズベルトは、枢軸国が一切の条件をつけずに文字通りに無条件降伏を宣明することが重要で、その後に、交渉によっては寛大な処置もありうるということを重視した。またその処置についても枢軸諸国の国民に対してのものであり、枢軸諸国の国家の思想およびその指導者は別のことであったとされる。ドイツの降伏はルーズベルトが意図した一切の事前の条件提示のない完全な無条件降伏であった。その後、トルーマンは、多くの側近の助言を受け日本に対する降伏要求については、無条件降伏の原則に一部修正を加え、ルーズベルトが否定した条件付無条件降伏論の立場に立って対日降伏勧告のポツダム宣言を発した[27]降伏文書署名後の1945年(昭和20年)9月6日には、米国大統領トルーマンから「連合国最高司令官の権限に関するマックアーサー元帥への通達」(JCS1380/6 =SWNCC181/2)(原文どおり)があり、その第1項で「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する。貴官は、貴官の使命を実行するため貴官が適当と認めるところに従って貴官の権限を行使する。われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない。」と記載されている。

この通達はトルーマン大統領からマッカーサー連合国最高司令官へのTOP SECRETの文章であり直接日本政府に通告されたものではないが、降伏文書(契約的性質を持つ文書)を交わしたアメリカが実質的にその契約性を否認していた証拠と解する立場がある[28][29]

判例

判例は日本政府がGHQの指示に従う必要性について一環して認定する立場である。ただ、認定についてはばらつきがあり、ポツダム宣言受諾と降伏文書調印という事実により、特に理由を付さずに無条件降伏を認定する立場[30]、理由を付して無条件降伏を認定した判例[31]、無条件降伏の主体を「日本」とする立場[32]、また事案上の被告(日本国政府)が国家の無条件降伏と答弁したもの[33]などがある。ただしこれらはあくまで個別の案件について判示されたもの、あるいは裁判を有利にする答弁であり、この認定が個別の案件にもたらす効果についてはさまざまである[34]