コロラド・アバランチ
コロラド・アバランチ | |
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創設年 | {{{創設年度}}} |
歴代チーム名 | {{{チーム名の遍歴}}} |
ホームアリーナ | ペプシ・センター |
ホームタウン | コロラド州デンバー |
チームカラー | 臙脂、青 |
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オーナー | {{{オーナー}}} |
GM | {{{ゼネラルマネージャー}}} |
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キャプテン | {{{キャプテン}}} |
獲得タイトル(獲得年) | |
スタンレーカップ優勝 {{{SC}}} | |
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コロラド・アバランチ(Colorado Avalanche)はアメリカ合衆国コロラド州デンバーを本拠としている北米プロアイスホッケーリーグ (National Hockey League 略 NHL)チームである。
歴史
NHLの1994-1995 シーズンはストライキの影響により期間が短縮されて開催された。このためコロラド・アバランチの前身ケベック・ノルディクスはチームとしてはよい成績を収めていたものの、台所事情が苦しくオーナーの Marcel Aubut はケベック州政府に対し財政的支援を求めた。しかしこの支援は行われず、オーナーはチームをコロラド州デンバーの投資家グループに売却することを余儀なくされた。こうしてノルディクスはフランチャイズをデンバーに移転し、チーム名をコロラド・アバランチに変更する。
デンバー移転後の初シーズンにおいては、既にチームは キャプテンのジョー・サキック(Joe Sakic)、スウェーデン人のスターセンターのピーター・フォースバーグ (Peter Forsberg、以後フォースバーグ) 、強力ディフェンスのアダム・フット(Adam Foote、以後フット)らの有力選手を抱えていた。しかし、この後に起こるシーズン途中でのトレードは予想外の出来事で、これによりチームは真の有力チームとなるのである。
1995年12月2日、モントリオール・カナディアンズがチーム史上最悪の1対12でデトロイト・レッドウイングスに大敗した試合でパトリック・ロワ(Patrick Roy)はゴーリーを務めた。ロワは、以前からチームの不甲斐ない戦いぶりに不満を抱いていたが、この試合はそれを爆発させるのに十分であった。当時のカナディアンズのコーチであったマリオ・トレンブレイ(Mario Tremblay)は9失点するまでロワを出場させ続けた。ゲーム終了後、ロワはチーム会長 Ronald Corey に退団したい旨を伝えたのである。同年12月6日ロワは同僚のマイク・キーン(Mike Keane)とともにアンドレイ・コバレンコ(Andrei Kovalenko)、マーティン・ルシンスキー(Martin Rucinsky) 、ジョセリン・ティボー(Jocelyn Thibault)との交換トレードでコロラド・アバランチに加入する。只でさえ有力メンバーを備えたチームに殿堂入り級のゴーリーを加えて、1995-1996シーズンのスタンレー・カップ優勝への道程をもはや誰も止めることができなかった。
翌年も好調を維持したが、西カンファレンス決勝でデトロイト・レッドウイングス(1996-1997シーズンのスタンレー・カップ優勝)に4勝2敗と敗れ、スタンレーカップ連覇の夢は絶たれた。
この後もチームは好調を維持し続け、2000-2001のポストシーズンにその最盛期を迎える。この年、後に殿堂入りするディフェンスレイ・ボーク(Ray Bourque)を獲得する。ボークは20年余りに渡ってボストン・ブルーインズ一筋の選手であったが、スタンレー・カップを目指してもう一働きをしたいと、移籍を申し出ブルーインズもこれを受諾したのであった。2000年3月6日ボークは同僚デイブ・アンドレチャク(Dave Andreychuk)とともにコロラドに移籍した。トレードの見返りはブライアン・ロルストン(Brian Rolston)、 Martin Grenier 及び Samuel Pahlsson の3選手とドラフトの第1巡目の指名権であった。チーム補強はこれだけではなかった。2001年2月21日には、ロサンゼルス・キングスからディフェンスのロブ・ブレイク (Rob Blake、以後ブレイク) を加えチームの「ブルー・ライン」はさらに強固なものとなった。
こうして2000-2001 シーズン、アバランチは支配的なほど強力布陣を敷いた。チームはシーズン118ポイントを獲得し易々と会長賞を得て、ボークの20年来の宿願であったスタンレー・カップ優勝の用意が整った。もっとも、有力フォワードのピーター・フォースバーグは、第2ラウンドの対ロサンゼルス・キングス戦終了後、脾臓の緊急手術を行い、プレーオフ残り試合を欠場した。
スタンレー・カップ決勝の対ニュージャージー・デビルス戦は、肉体的にも非常に厳しい戦いとなったが、アバランチの第7試合での勝利に終わり、チームは2度目のカップを獲得する。
スタンレー・カップをNHLコミッショナーから授与された優勝チームのキャプテンは、カップをチームメートに手渡す前に先ず自分の頭上にそれを高く掲げること (hoist) が伝統とされていた。しかし、アバランチのキャプテン、ジョー・サキックは、2001年にこの伝統を破った。彼はカップを受け取ると、持ち上げずにレイ・ボークに手渡し、ボークに掲げるように促した。
その翌期以降のチームは2003-2004シーズンにおける初の地区予選敗退などを除けば、好調な成績を維持している。同シーズンでは、マイティーダックス・オブ・アナハイムからテーム・セラニ(Teemu Selänne)、ポール・カリヤ(Paul Kariya)のコンビを獲得したこともあり、3度目のカップ優勝を有力視する声もあったが、これはならなかった。
さらに、2004-2005のNHLロックアウト後、主軸として安定した活躍を見せていたフォースバーグとフットが移籍(それぞれフィラデルフィア・フライヤーズとコロンバス・ブルージャケッツへ移籍)して、大幅戦力ダウンといわれたが、辛うじてプレーオフは進出した。
また、2005-2006年オフにも、主軸となりつつあったアレックス・タンゲイ(Alex Tanguay、以後タンゲイ)を、カルガリー・フレームスへ、ブレイクも古巣のロサンゼルス・キングスへ抜けて、2006-2007シーズンを望むことになった。シーズンにおいては最後まで熱戦を見せたものの、最後はタンゲイのいるフレームスにプレーオフ進出を阻まれた。ただ、プレーオフに出られなかったチームの勝ち点95は、NHL記録となった。
2007-08年にプレーオフに復帰するも、2008-09年はリーグワースト3位となる成績で、若手主体へのチーム、再建へと方向転換した。これが早くも功を奏し、2009-10年には新生チームでプレーオフ進出(1回戦敗退)。
翌2010-11年も活躍が期待され、前半はプレーオフ圏内にいたが、中盤以降大失速し、プレーオフ進出を逃す。
年度別成績
ケベック・ノルディクス時代(WHA時代・1972年 - 1979年)
年 | GP | W | L | T | GF | GA | PTS | 最終順位 | プレイオフ |
1972-73 | 78 | 33 | 40 | 5 | 276 | 313 | 71 | イースト5位 | 不参加 |
1973-74 | 78 | 38 | 36 | 4 | 306 | 280 | 80 | イースト5位 | 不参加 |
1974-75 | 78 | 46 | 32 | 0 | 331 | 299 | 92 | セントラル1位 | 決勝敗退 (ヒューストン・アエロズ) |
1975-76 | 81 | 50 | 27 | 4 | 371 | 316 | 104 | セントラル2位 | 準々決勝敗退 (カルガリー・カウボーイズ) |
1976-77 | 81 | 47 | 31 | 3 | 353 | 295 | 97 | イースト1位 | 優勝 |
1977-78 | 80 | 40 | 37 | 3 | 349 | 347 | 83 | 4位 | 準決勝敗退 (ニューイングランド・ホエーラーズ) |
1978-79 | 80 | 41 | 34 | 2 | 288 | 271 | 87 | 2位 | 準決勝敗退 (WPG) |
ケベック・ノルディクス時代(NHL加入後・1979年 - 1995年)
年 | GP | W | L | T | OL | GF | GA | PTS | 最終順位 | プレイオフ |
1979-80 | 80 | 25 | 44 | 11 | - | 248 | 313 | 61 | アダムス5位 | 不参加 |
1980-81 | 80 | 30 | 32 | 18 | - | 314 | 318 | 78 | アダムス4位 | 初戦敗退 (PHI) |
1981-82 | 80 | 33 | 31 | 16 | - | 356 | 345 | 82 | アダムス4位 | カンファランス決勝敗退 (NYI) |
1982-83 | 80 | 34 | 34 | 12 | - | 343 | 336 | 80 | アダムス4位 | 初戦敗退 (BOS) |
1983-84 | 80 | 42 | 28 | 10 | - | 360 | 278 | 94 | アダムス3位 | 地区決勝敗退 (MON) |
1984-85 | 80 | 41 | 30 | 9 | - | 323 | 275 | 91 | アダムス2位 | カンファランス決勝敗退 (PHI) |
1985-86 | 80 | 43 | 31 | 6 | - | 330 | 289 | 92 | アダムス1位 | 初戦敗退 (HAR) |
1986-87 | 80 | 31 | 39 | 10 | - | 267 | 276 | 72 | アダムス4位 | 地区決勝敗退 (MON) |
1987-88 | 80 | 32 | 43 | 5 | - | 271 | 306 | 69 | アダムス5位 | 不参加 |
1988-89 | 80 | 27 | 46 | 7 | - | 269 | 342 | 61 | アダムス5位 | 不参加 |
1989-90 | 80 | 12 | 61 | 7 | - | 240 | 407 | 31 | アダムス5位 | 不参加 |
1990-91 | 80 | 16 | 50 | 14 | - | 236 | 354 | 46 | アダムス5位 | 不参加 |
1991-92 | 80 | 20 | 48 | 12 | - | 255 | 318 | 52 | アダムス5位 | 不参加 |
1992-93 | 84 | 47 | 27 | 10 | - | 351 | 300 | 104 | アダムス2位 | 初戦敗退 (MON) |
1993-94 | 84 | 34 | 42 | 8 | - | 277 | 292 | 76 | 北東5位 | 不参加 |
1994-95 | 48 | 30 | 13 | 5 | - | 185 | 134 | 65 | 北東1位 | 初戦敗退 (NYR) |
コロラド・アバランチ時代(1995年 - )
年 | GP | W | L | T | OL | GF | GA | PTS | 最終順位 | プレイオフ |
1995-1996 | 82 | 47 | 25 | 10 | 0 | 326 | 240 | 104 | 太平洋1位 | スタンレー・カップ優勝 |
1996-1997 | 82 | 49 | 24 | 9 | 0 | 277 | 205 | 107 | 太平洋1位 | カンファレンス決勝敗退 |
1997-1998 | 82 | 39 | 26 | 17 | 0 | 231 | 205 | 95 | 太平洋1位 | カンファレンス準々決勝敗退 |
1998-1999 | 82 | 44 | 28 | 10 | 0 | 239 | 205 | 98 | 北西1位 | カンファレンス決勝敗退 |
1999-2000 | 82 | 42 | 28 | 11 | 1 | 233 | 201 | 96 | 北西1位 | カンファレンス決勝敗退 |
2000-2001 | 82 | 52 | 16 | 10 | 4 | 270 | 192 | 118 | 北西1位 | スタンレー・カップ優勝 |
2001-2002 | 82 | 45 | 28 | 8 | 1 | 212 | 169 | 99 | 北西1位 | カンファレンス決勝敗退 |
2002-2003 | 82 | 42 | 19 | 13 | 8 | 251 | 194 | 105 | 北西1位 | カンファレンス準々決勝敗退 |
2003-2004 | 82 | 40 | 22 | 13 | 7 | 236 | 198 | 100 | 北西1位 | カンファレンス準決勝敗退 |
2005-2006 | 82 | 43 | 30 | - | 9 | 283 | 257 | 95 | 北西2位 | カンファレンス準決勝敗退 |
2006-2007 | 82 | 44 | 31 | - | 7 | 272 | 251 | 95 | 北西4位 | 不参加 |
2007-2008 | 82 | 44 | 31 | - | 7 | 231 | 219 | 95 | 北西2位 | カンファレンス準決勝敗退 |
2008-2009 | 82 | 32 | 45 | - | 5 | 199 | 257 | 69 | 北西5位 | 不参加 |
2009-2010 | 82 | 43 | 30 | - | 9 | 244 | 233 | 95 | 北西2位 | カンファレンス準々決勝敗退 |
スタンレーカップ戦績
優勝
1995-1996、2000-2001