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つげ義春

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つげ義春
本名 柘植 義春
(つげ よしはる)
生誕 (1937-10-30) 1937年10月30日(87歳)
日本の旗 日本東京府東京市葛飾区
(現:東京都葛飾区)
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
随筆家
活動期間 1955年 -
ジャンル 青年漫画
代表作李さん一家
紅い花
ねじ式
ゲンセンカン主人
無能の人
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つげ 義春(つげ よしはる、1937年10月31日(実際は4月の生まれ) - )は、漫画家随筆家。本名:柘植 義春(読み同じ)。『ガロ』を舞台に活躍した寡作な作家として知られる。

テーマを日常やに置き、をテーマにした作品もある。『ガロ』を通じて全共闘世代大学生を始めとする若い読者を獲得。1970年代前半には「ねじ式」「ゲンセンカン主人」などのシュールな作風の作品が高い評価を得て、熱狂的なファンを獲得した。

漫画家つげ忠男は実弟。妻藤原マキは、唐十郎主宰の劇団・状況劇場の元女優。一男あり。

生涯

つげが母と幼少期を過ごした大原の漁村(大原漁港
ファイル:千葉ねじ式 八幡岬153.jpg
『海辺の叙景』にも描かれた千葉県大原の八幡岬 つげはこの風景をこよなく愛した(「つげ義春とぼく」より)
八幡岬からの展望。つげ義春お勧めの場所。

出生

1937年、旅館に勤める板前の父・一郎と、同じ旅館のお座敷女中の母・ますの次男として、東京葛飾の母の実家で生まれる[1]。戸籍上は10月30日生まれであるが、実際は同年4月生まれ。一家は、福島県四倉から、伊豆大島へ引越しの途中であった。出産時、母が産婆の来る前につげを生み落としてしまったので、母の実父が泣き声もあげないつげに人工呼吸を施し、しまいには両足を持って振り回したという[要出典]。父・一郎は腕のいい板前職人でその後、伊豆大島の最も大きな旅館に勤めた。4歳頃までの伊豆大島での生活は、安定したものであった。

1941年、5歳、三男・忠男が生まれた年、母の郷里である千葉県大原漁村小浜へ転居。父は東京の旅館へ単身、板前として出稼ぎ。母は自宅で氷屋おでん屋で生計を立てる。経済的には山をもてるほどの余裕があった。大原町では幼稚園に入園したが、集団生活になじめず、3日で退園。すでに臆病で自閉的な性格があらわれていた。この年、父は東大病院へ入院。

1942年、5歳のとき、父が42歳で死去。死因はアジソン病。死の直前の父は錯乱状態であり、東京の出稼ぎ先の旅館の布団部屋に隔離され、布団の山の間に逃げ込み、そこで座ったまま絶命した[2]。母はつげとつげの兄を引きずるように父の前に立たせ「お前達の父ちゃんだよ、よく見ておくんだよ」と絶叫したという[2]1943年葛飾区立石に転居。母は軍需工場に就職。一家4人で社宅の4畳半で生活する。[1]。あまり外出せず兄・政治と弟を相手に遊ぶ。貧しい母子家庭で苦労して育つ。

小学校時代

1944年葛飾区立本田小学校に入学。この頃から、絵を描いて遊ぶようになる[1]空襲が激しく、ろくに通学もできなかった。学校嫌いであったつげは空襲で休校になるのがうれしく、毎日空襲があればよいと思っていた[2]。この頃、自宅付近の中川べりで不発弾処理を見学中に近くに被弾した爆弾のために土手から転落、軽症を負う。また、近くにあった高射砲B-29を撃墜し真っ二つにする光景を目撃する[2]1945年3月10日東京大空襲の後、空襲を避けて兄に続き新潟県赤倉温泉学童疎開するが、なれない集団生活からかこの頃より赤面恐怖症を発症する[1]。唯一の楽しみはいつでも温泉へ入れることであった。疎開地で終戦を迎え、10月に兄と共に東京に戻り、葛飾区内で転々と間借り生活を送るようになる。母は、海産物の行商、仕立物の仕事で生計を立てる。

1946年、母のモク拾いなどについて回る日々9歳。母が再婚するが、養父との折合いが悪く、乱暴な義父の仕打ちにおびえる日々が続く。この頃より漫画、書物に興味を覚える。1947年には、立石駅前の闇市で母が居酒屋を経営するが半年ほどで廃業。さらに、妹が生まれるなど生活は困窮。ベーゴマに熱中。義祖父には可愛がられ、しばしば手塚治虫のマンガ本を買ってもらう。横井福次郎沢井一三郎大野きよしのマンガや南洋一郎冒険小説を読む。1948年には葛飾区立石駅近くの廃墟のようなビルに無断入居。総勢8名の大家族であった。母は千葉から海鮮物を仕入れ行商する一方、泥棒の義祖父が収入を支え、つげも兄と共に闇市セルロイドおもちゃを売る商売を始め、安価であったためよく売れた[1]。また、義父の発案で立石駅でのアイスキャンデー売りなども経験する[1]。こうした生活で1年休学する[1]1949年、6年生で初めて船員になる夢を抱いている親友Oができ、つげ自身もが好きであったため、船員になるための勉強を一緒にしたりし将来を誓い合ったりした。Oの家に泊まりこみ帰らない日々が続く。Oの家は中華そば屋であったため、毎日ワンタン作りを手伝う。田端義夫美空ひばりターキーの娯楽映画などを好んでみる。また、手塚、東浦美津夫田中正雄のマンガを読む。一方、自閉・赤面癖・対人恐怖症が進行し、小学6年生の時には運動会で多くの観客の前で走るのを恐れ足の裏をカミソリで切る[1]

小学校卒業後

1950年、親友は中学校に進学し、つげは進学せず兄の勤め先のメッキ工場に見習い工として就職することになるが、残業、徹夜、給料遅配が続く。1951年、14才の頃のへの憧れは、せつなさを通りこえ夢中になるほどであった。海で暮らすためには船員になるしかないと思いつめ、海員養成講座を通信教育で受けたり、横浜へ出かけ停泊するを見学したりする。転々としたメッキ工場も労働条件が厳しく、母が製縫業をはじめ、手伝うが義父との生活が苦痛であり、また赤面恐怖症などから鬱屈した心情になり密航を企てる。船員になるつもりで横浜に向かったが、船員に見つかり警察署で一晩を明かす。翌1952年にも横浜港からニューヨーク行きの汽船日産汽船日啓丸10000t)に一日分のコッペパンラムネだけを持って潜入。しかし野島崎沖で発覚し、横須賀の田浦海上保安部に連行されるが、船内ではケーキ冷奴(船内には豆腐製造機もあった)の差し入れを受けたり風呂に入れてもらうなどの厚遇を受ける。日産汽船の重役を乗せた海上保安庁巡視艇へ移され、振り返ると日啓丸の甲板には乗務員がずらりと並び手を振っていた。その瞬間、汽笛が大きく鳴らされた[3]

密航に失敗した後は家にいるのが気まずく、先の親友Oの中華そば屋で出前持ちとして朝9時から夜2時まで働く[1]。時には赤線への出前もあり、赤線の女にからかわれたりする。この頃、同じそば屋に戦争で両親を失くした同い年の美しい少女が働いており、彼女に誘われ休日に一緒に映画館へ行く。映画館の中では、彼女に手を握られたがつげは決まりが悪くずっと俯いていたという[2]

漫画家デビュー

1953年、再びメッキ工に戻り兄と共にメッキ工場を経営する夢を抱いたが、赤面恐怖症はひどくなり、一人で部屋で空想したり好きな絵を書いていられる職業として漫画家になることを志す[1]。当時、豊島区トキワ荘に住んでいた手塚治虫を訪ね、原稿料の額などを聞き出し、プロになる決意を強める。その後、メッキ工場に勤めながらマンガを描く。1954年10月、雑誌『痛快ブック』(芳文社)の「犯人は誰だ!!」「きそうてんがい」で漫画家デビューを飾る。その後、一コマ、四コマなどの作品が少年誌に採用され始め[4]、母の反対を押し切ってメッキ工を辞める。自身の作品を持って1週間ほど多くの出版社を回り10軒目の若木書房でようやく採用され、1955年5月に『白面夜叉』で若木書房から正式にプロデビュー。18歳であった。

貸本漫画時代

当初は一冊分(128ページ)買取で3万円で貸本漫画に数多く執筆していた。この頃、永島慎二遠藤政治と親交を持つようになる。新漫画党の集まりにも度々参加するも人見知りが激しく、トキワ荘系の漫画家とは、それほど交流を持つことはなかったが、トキワ荘へ引っ越す前の赤塚不二夫とだけは、赤塚の部屋に出入りして、漫画論を交わしたり泊まったりしていた[5][6]。手塚治虫の影響を強く受けた『生きていた幽霊』(56)やトリック推理ものである『罪と罰』を契機として江戸川乱歩的なデカダンス風の推理ドラマをはじめ、『四つの犯罪』では初めて作者の温泉への憧憬もうかがわれる。探偵もの『七つの墓場』や『うぐいすの鳴く夜』、『おばけ煙突』、『ある一夜』なども描かれた。これらの作品は、ストーリーとしては完成度が高いもので、『ガロ』時代の旅ものを思わせるユーモアの片鱗をも随所にちりばめられていた。しかしながら『不思議な手紙』などの暗いタッチが主流を占め、当時の貸本マンガの主要読者層だった小学校高学年~中学生からは不評を買うこととなり、出版社からももっと明るい作風を要求された。翌1956年には早くも創作に行き詰まり、岡田晟の手伝いをするようになり、クラシック音楽コーヒーに傾倒するようになる[1]バッハ以前の音楽を愛好し、特にル宗教曲ルネッサンス音楽には造詣が深く、現在に至ってもモンテヴェルディドラランドシャンパルティエタヴァーナーなどをよく聴く。この当時は池袋の「小山」、高田馬場の「らんぶる」などの名曲喫茶へしばしば通っていた。一方で、作品に音楽が登場する場面は意外に少なく、その後の作品を含めても「四つの犯罪」、「やなぎや主人」、「散歩の日々」くらいである[7]


漫画家になって以降も赤面恐怖症はさらに悪化。家族とも顔を合わせるのが苦痛で部屋を仕切ったり、押入れにこもりじっとしたりしていた。通信療法も試すが効果はなかった[1]。「女を知れば度胸が出るかもしれない」と考え、自転車で赤線へ赴く。3つ年上の女に親切にされ外へ出ると急に勇気が出たように思え、嬉しさでを流しながら中川の土手を自転車を走らせたが、数日して彼女に会いに行くと別の客が付いており、胸が張り裂けそうな思いをする。その後、赤線へ行くことはなかった。やがて、家を出て高田馬場に下宿する[1]

1957年錦糸町の下宿に転居。女子美大生との交際や喫茶店「ブルボン」への出入りの中で仕事を怠けるようになり困窮。血液銀行へ通っての売血を経験する[1]。こうした中、大阪から上京した劇画家辰巳ヨシヒロと知り合う。1960年、「コケシ」という渾名の女性と知り合い、大塚で同棲を始める。精力的に作品を書くようになったが、貸本漫画で2人の生計を立てることは難しく、安保闘争も知らぬまま極貧の生活を送る[1]1961年、主に貸本漫画を描いていた三洋社が倒産し、女性とも別離。1962年には元の下宿に戻ったが、作品はなかなか売れず、下宿の支払いを2年分も溜めたため、自ら望んで食事を1回に減らしてもらい、便所を改造した一畳の部屋に移った(「義男の青春」には、この部屋に閉じ込められて8年間にわたり苦悶の日々を送ることとなった、とあるが、随筆と異なり作品である上に年数も合わない)。家主が経営する装飾店に勤めて、フスマ張り替えなどの仕事を手伝う[8]。同年、アパート睡眠薬ブロバリン」を大量に飲み自殺をはかるが、病院に担ぎ込まれ未遂に終わる[9]。家主の勧めで創価学会に入信させられたが、宗教に興味が無く、不真面目な信者であった[1]

1963年、装飾店が倒産し、再び漫画を描くようになったが、娯楽作品を書くことを苦痛に覚えるようになる。貸本漫画業界自体が衰退していくと辰巳ヨシヒロなどの勧めもあって、従来の時代劇や推理物に加えてSFや青春ものなど様々なジャンルに手を染めるようになり、一方、さいとう・たかを佐藤まさあき白土三平などこの頃の人気漫画家の絵柄を真似ることも要求される。仕事仲間であった深井国がしばらく同居する。1964年、のちに『池袋百点会』(1984年)に描かれる喫茶店「ブルボン」通いが続く。

『ガロ』時代

白土三平に誘われ宿泊し名作『』や『紅い花』を生むきっかけとなった旅館寿恵比楼
ねじ式』に描かれた太海の漁村

1965年、田端で行なわれた資本漫画家の集まりで白土三平水木しげると知り合う[1]。『ガロ』創刊当初、社長の長井勝一と三洋社時代に一緒に仕事をしたことのある白土がつげ義春の所在を誌上で尋ね、それに応える形でつげはガロに創作の場を得ることになった。1965年、「噂の武士」で『ガロ』8月号に登場。

10月、白土三平はつげを千葉県大多喜旅館寿恵比楼に招待し、また赤目プロのアシスタントであった岩崎稔から井伏鱒二を読むよう勧められる[1]。これらの経験からつげは旅に夢中になり、のちの一連の「旅もの」作品として結実している。やがて、生活のために水木のアシスタントを1年半ほど務め[10]調布に転居。ガロ誌上でつげを名指しで「連絡請う」と広告を載せる等、水木本人からの強い要請もあったという。

娯楽作品意識から脱却した[1]つげは、1966年2月号の「沼」以降、「チーコ」など作家性の強い短編群を続けざまに発表する。しかし当時の「カムイ伝」目当てでガロを買う読者層には主に「暗い」という理由(当時の読者欄より)であまり評価されなかった。だが、一部マニアックな読者からは高い評価を得、1967年3月創刊の日本初の漫画批評誌『漫画主義』(同人:石子順造山根貞男(当時は「菊池浅次郎」名義)、梶井純権藤晋)は、つげ義春の特集を組んだ。1967年には水木プロの仕事量が増え、右手の腱鞘炎を患う。また、この年には井伏文学からの影響で、4月に友人の立石と秩父房総を、8月には伊豆半島に、また秋には単独で東北湯治場蒸ノ湯温泉岩瀬湯元温泉二岐温泉)などを中心とした旅行をする。その際、旅に強烈な印象をもち、また湯治場に急速に魅かれるようになる。このときの旅の印象はこの年後半から翌年にかけての一連の「旅もの」作品として結実する。また、このころ旅関係の書物や柳田國男などを熱読する。この年にはユーモラスな世捨て人的生活の日常スケッチである『李さん一家』(6月)や、少女が大人になる一瞬を巧みな抒情詩に仕立て上げた『紅い花』(10月)、小さな村の騒動記『西部田村事件』(12月)、そして翌1968年には紀行文学のスタイルを借りた『二峡渓谷』(2月)、『長八の宿』(1月)、『オンドル小屋』(4月)などを立て続けに発表する。しかし、旅は必ずしもつげの心を解放するものとは言えず、群馬県湯宿温泉を訪ねた時には打ち捨てられたような旅館に強烈な孤独と世捨て人の境地を味わい、その経験は仙人のような犬と旅人の心境を綴った物語『峠の犬』や雪国の孤独な旅を描いた『ほんやら洞のべんさん』に結実し、1968年の『ねじ式』と『ゲンセンカン主人』に結実する[要出典]

『ねじ式』

『ねじ式』は養老渓谷に近い千葉県の太海を旅行した経験が元になっているが、作風は前衛的でシュールである。つげ本人はこれを「ラーメン屋の屋根の上で見た夢」と評していた。こうした作風は、漫画評論誌の『漫画主義』で評価されたが、漫画業界からは異端扱いされて屈辱を味わう。自分の存在意義に理解できず、精神衰弱に苛まれたつげは、九州への蒸発を決意したが、10日で帰京。翌、1969年には状況劇場の女優藤原マキと知り合う[1]

おりしも、時代は全共闘紛争のちょうど前夜。劇画ブームも手伝い、大学生や社会人も漫画を読むようになった時代であり、そうした世相を反映しアングラ芸術のタッチも取り入れた『ねじ式』は、漫画が初めて表現の領域を超越した作品として絶賛され社会現象となり、後続の作家たちにも絶大な影響を与えることになった。この作品に関しては多くの精神分析的解釈が試みられたが、つげはそのいずれをも「全然当たっていない」と一笑に付している[11]

1970年、調布市内に転居し、藤原と同居するようになる。ガロにおける最後の作品となった『やなぎ屋主人』では、劇画風のタッチを編み出し再度の変化を見せつけたが、予想外に巻き起こったつげブームにより印税収入が入ったせいもあって、1970年頃からだんだん寡作になっていく[1]

『ガロ』以降

同じ年に、『アサヒグラフ』の連載で紀行文を描き、夫婦で旅行をした。これをきっかけに、翌1971年には東北・瀬戸内・奈良・長野・会津へ、1972年には北部九州、1973年には長野の秋葉街道、福島の湯岐二岐温泉を巡る旅行を行なう。この頃から、都会を離れて暮らしたいと思うようになり、千葉の大原付近の土地を物色したり、喫茶店経営を思って荻窪駅前に転居したりする。しかし開業しないまま2ヶ月で再び調布に転居。1974年には寡作はさらに進行し、生活が困窮。1975年には妻が京王閣競輪でアルバイトをするほどになる。折りしも、11月19日には長男が誕生し、その約1ヵ月後の12月25日に正式に入籍[1]。しかし、長男の誕生は、つげにとってむしろ精神的不安定をもたらす。1976年1月24日NHKでドラマ『紅い花』の試写会とその後の『ガロ』に掲載するための鈴木志郎康らを交えた座談会に出席するが、その帰路の電車内で初めてパニック障害様の不安発作に襲われる。3日後の27日にはNHKの佐々木昭一郎より原作料を受け取るが12万円であった。うち5万円は佐々木個人からの謝礼で、NHKの原作料は7万円であった。NHKの謝礼は学歴で決まると聞いていたつげは、自分は小学校卒だからこんなに安いのかと暗澹たる気分になる[12]

『ねじ式』によって、つげは芸術漫画家という烙印を押しつけ、それによって発表の場が限られるようになってしまい、だんだん描きたいものが描けないというジレンマに陥るようになった。当時、徐々に進行しつつあったノイローゼの治療の意もあって、つげは見たをノートに綴っていく『夢日記』に夢中になり、『夢の散歩』(1972年)という見た夢をそのまま漫画化するような実験を試みる。そして、1976年の『夜が掴む』以降、夢日記の漫画化を本格化。夢のシュールで漠然とした風景を描くために、つげはパースをわざと狂わせた絵を意図的に描くようになる。『アルバイト』(1977年)、『コマツ岬の生活』(1978年)、『必殺するめ固め』、『ヨシボーの犯罪』、『外のふくらみ』(1979年)、『雨の中の慾情』(1981年)などが描かれた。この当時より、女性の肉体をリアルに豊満に描く傾向が強まり、作品に独特のエロティシズムをもたらすようになる。かつてのおかっぱの少女は、若夫婦ものの妻に受け継がれるが、すでにかつてのような神秘性は失われている。これはつげ自身の述懐によれば、女性にかつてのような憧憬をもはや抱かなくなったからである。

1977年、妻がガンにかかり、手術を行なう。結果は良好だったが、心身に不調をきたし、忠男がいる千葉県柏市に転居したが、神経衰弱を患い、翌年には調布に住宅を購入。しかしノイローゼが進行し、1980年には不安神経症と診断される。森田療法を受けるが、病気の深刻さに自殺を決意。しかし、妻子がいることを思い耐える[1]

またも漫画家以外の職に

漫画を描くことを苦痛に感じて他に職を求め、1981年古物商の免許を取得。「ピント商会」を設立し、古本屋の経営を目指して古本漫画を収集する[1]。また、中古カメラを質屋で安く仕入れて自分で修理し、マニア向けに販売したところ、思わぬ収入になった。成功の秘訣は、相場よりもかなり安く売ったことである。これは闇市でオモチャやアイスクリームを安く売り成功した体験が元になっており、つげのしたたかな一面をあらわしている。そこで「中古カメラ屋」に転業を試みたが、翌1982年には安い中古カメラが入手できなくなり、この「商売」は断念した[1]。また、『無能の人』に描かれた「売石業」も、実際に試してみたが、うまくいかなかった。作家として1983年3月から「小説現代」に「つげ義春日記」を発表するが、読み物として若干私事を書きすぎたため妻に怒られ、11月で中断。妻との悶着が続いたことで、ノイローゼは悪化の一途を辿ることになる[1]1984年、季刊漫画雑誌『COMICばく』が創刊され、毎号漫画を描くようになったが[13]、「マイナー意識の強い自分」の作品が主体となったことに困惑する。

これら「駄目人間」としての体験を描いた『無能の人』(1985年)を刊行。つげ独自の暗さやユーモアは健在であり人気を博した。この間も仏教書や水泳での治療を試みたノイローゼだったが、発作性から慢性に移行。1987年春先から強度の発作に悩むようになり、『別離』をラストに仕事が一切できなくなる[1]。同年、実売5千部だった『COMICばく』は第15号をもって休刊し、事実上の休筆状態に追い込まれる。気晴らしに子供と一緒にファミコンで遊ぶようになり、超高難易度で知られた「スーパーマリオブラザーズ2」をクリアしたことが桜玉吉らゲーム業界の人間の中で話題となる。1988年には自己否定の深化から1人山奥で住んだり、乞食になることを夢想するようになり、山梨県秋山村を訪れて場所探しをする[1]

休筆から現在

絶筆後の1988年、つげが家族とともに養老渓谷温泉を訪問した際に養老渓谷沿いに見つけ、隠棲を考えた廃屋

1990年代に入ると、精神衰弱に加え盲腸網膜炎不整脈耳鳴りなどに次々と罹り、特に目は左目は不治、右目は視力が悪化する[1]。一方、つげファンである竹中直人石井輝男により、『無能の人』『ゲンセンカン主人』『ねじ式』と、代表作が続けて映画化がされ、それに併せて『ガロ』などの誌上インタビューやコメントなどを積極的に寄稿した。そして作者の若い頃や家族との旅行を綴ったエッセイ集『貧困旅行記』を発表したほか、権藤晋との対談集である『つげ義春漫画術』を刊行。自身の原作を用いた映画に家族全員でゲスト出演するなど、公の場での活動も目立っていた。1994年、調布市内に転居し永年の夢であった田舎暮らしを断念。耳鳴り不整脈腰痛に加え、リウマチを発症し、再び休養することを宣言[1]1999年に妻・藤原マキが死去。2003年にマキの作品『私の絵日記』が文庫化された際に、巻末にロング・インタビュー「妻、藤原マキのこと」が収録され、夫婦の間の葛藤などを赤裸々に語っている。

2000年代に入っても作品の映画化は続いたが、つげは、年齢的、身体的な要因からか、沈黙を守る。一定の期間をおいて書籍の再刊、文庫化、全集の刊行などが続き、印税収入によって生活は支えられている。現在も、スーパーを順ぐりに自転車で回って、おかずを買う「主夫」生活は変わらず。「一カ月の電話料が100~200円しかかからない」という。

家族とともに宿泊した養老渓谷温泉「川の家」

つげはを好み、旅を題材とした作品も多く描いている。鄙びた山村、漁村湯治場宿場町、歴史ある古い町などを好むが、これはつげに隠棲への断ちがたい思いがあるためである。海外へは行っていないと思われるが、国内でも北海道和歌山県島根県山口県宮崎県鹿児島県は訪問していない。北海道を訪問していない理由は『ガロ』1993年8月号収録の『つげ義春旅を語る』で述べられており、「北海道はやっぱり歴史が浅いっていうイメージがあってね。あと何となく遠いっていう感じがするんですよね。」という理由である。寒さは苦手らしく「日本列島が沖縄のあたりに位置していたらよかったと、よく思いますよ」と答えた「ひだまりインタヴュウ」(『点燈舎通信3』)。[14]

旅の履歴

主な作品

漫画

発表順

1954年

1955年

1956年

1957年

1958年

1959年

1960年

1961年

1963年

1964年

1965年

1966年

1967年

ねじ式」の舞台となった太海漁港仁右衛門島より)

1968年

1970年

1972年

1973年

『リアリズムの宿』の舞台となった鰺ヶ沢の町 1980年撮影
「鰺ヶ沢は漁港の町で床屋がやたら多い・・・」(『リアリズムの宿』より)1980年撮影

1974年

1975年

1976年

1977年

1978年

1979年

1980年

1981年

1984年

1985年

1986年

1987年

随筆

映像化作品

ゲーム

詳細はねじ式 (ゲーム)参照のこと。

関連書籍

関連人物

関連項目

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 「つげ義春自分史」『つげ義春全集・別巻 苦節十年記/旅籠の思い出』筑摩書房 1994年 ISBN 4-480-70169-9
  2. ^ a b c d e つげ義春とぼく」(1977年6月 晶文社
  3. ^ つげ義春「密航」『ガロ臨時増刊号・つげ義春特集』 青林堂 1968年
  4. ^ 本間正幸『少年画報大全 20世紀冒険活劇の少年世界』少年画報社、2001年、p.51
  5. ^ 石森章太郎『章説トキワ荘・春』風塵社、1996年、p.36
  6. ^ 武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ』文藝春秋、2005年、p.89
  7. ^ a b c 月刊『ガロ』(青林堂)1993年8月号(「つげ義春」する!)
  8. ^ 桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった』上巻p.146(東考社1985年
  9. ^ つげ義春「自殺未遂」『夜行』No.10 北冬書房 1981年
  10. ^ 水木しげる『妖怪になりたい』河出文庫、2003年、pp.40、76-77
  11. ^ つげ義春漫画術(下巻)」(1995年10月 ワイズ出版
  12. ^ つげ義春日記』(1983年 講談社
  13. ^ 夜久弘『「COMICばく」とつげ義春 もうひとつのマンガ史』福武書店、1989年、p.11
  14. ^ 「つげ義春を旅マップする」【未訪問県】(高田馬場旅行主義社)
  15. ^ リアリズムの宿(つげ義春「旅」)作品集1983年7月双葉社
  16. ^ 『つげ義春の温泉』(カタログハウス)2003年2月

外部リンク