在日韓国・朝鮮人
在日韓国・朝鮮人(ざいにちかんこく・ちょうせんじん)は、日本に在留する韓国・朝鮮籍外国人のこと。場合によってそのうちの特別永住者を指すなど範囲が変わることがあり[1][2][3]、しばしば「在日」と短縮して用いられる。
재일 한국・조선인 | |
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総人口 | |
565,989人(2010年12月末)[4] (うち特別永住者395,234人)[4] | |
居住地域 | |
東京・大阪・神奈川・愛知・兵庫・京都など | |
言語 | |
朝鮮語・日本語・在日朝鮮語 | |
宗教 | |
仏教・キリスト教 |
概要
本籍 | 人数 | % |
ソウル市 | 63,797 | 11.3 |
釜山市 | 26,571 | 4.7 |
光州市 | 2,499 | 0.4 |
大田広域市 | 2,466 | 0.4 |
京畿道 | 34,427 | 6.1 |
忠清南道 | 10.660 | 1.9 |
忠清北道 | 8,841 | 1.6 |
全羅南道 | 36,447 | 6.4 |
全羅北道 | 9,993 | 1.8 |
慶尚南道 | 152,984 | 27.0 |
慶尚北道 | 112,908 | 20.0 |
江原道 | 4,615 | 0.8 |
済州特別自治道 | 88,510 | 15.6 |
北朝鮮地域 | 2,589 | 0.5 |
その他 | 7,385 | 1.3 |
不詳 | 1,291 | 0.2 |
総数 | 565,989 | 100 |
在日韓国・朝鮮人は、日本に在留する韓国・朝鮮籍(日本と国交の無い朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)籍ではないことに注意)外国人のことであり、日本国独立行政法人統計センター発表の統計によれば2010年12月末現在、日本に定住(連続90日以上滞在)し韓国・朝鮮籍外国人として外国人登録している者は565,989人、そのうちしばしば「在日」と略称される韓国・朝鮮籍特別永住者は395,234人となっている[4]。また、韓国に本籍地があっても朝鮮籍のままの者もいるため、北朝鮮地域を本籍地にしている者は2010年末時点で2,589人に過ぎないが、朝鮮籍保持者は3-4万人程度いるとみられている[7]。
長年に渡り日本定住外国人の最大勢力であったが、帰化と死去による特別永住者の減少が続き、2007年度、急増する在日中国人を下回った[8]。
併合時代に朝鮮から内地に渡航し、そのまま日本に定住した者、およびその子孫と、戦後、朝鮮戦争などの戦火から逃れるために、荒廃した朝鮮半島より日本に密航し20万から40万と推定される密航者[9][10][11]およびその子孫の多くはその後特別永住資格を付与され、旧日本国籍保持者としての背景から日本の外国人の中で特殊な地位を占めている。
「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府がおこなった強制連行の結果」とする主張があるが、1959年に日本政府が発表し、2010年にも再確認された資料によれば、当時の在日朝鮮人総数61万人のうち徴用労務者は245人で、日本に居住している者は「犯罪者を除き、自由意思によって残留したものである」としている[12][13]。また、2005年の日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府に対する補償申請者は、2006年3月の時点で総受理数21万件のうち在日韓国人からは39人に留まっている[14](詳細は#徴用・強制連行と渡航、#戦後の在日韓国・朝鮮人各節参照)。
呼称
韓国併合後、韓国、北朝鮮建国前後までは在日朝鮮人と呼ばれ、サンフランシスコ条約発効後は外国人登録の国籍欄に朝鮮と記入されていたが、その後日韓基本条約の締結に伴い韓国籍に切り替えたものが現れ、1970年代後半から1980年代にかけて「在日韓国・朝鮮人」がより広く普及・浸透するようになった[15]。国籍によって在日朝鮮人または在日韓国人と区別されることもあり、また、韓国・北朝鮮それぞれの正統国家としての立場と深く関係して、在日韓国・朝鮮人全体を在日朝鮮人または在日韓国人と呼称することもある。韓国は1970年代から「朝鮮」の排除を進め、これを支持する在日本大韓民国民団(通称:韓国民団ないし民団)は「在日韓国人」(재일 한국인)であるべきだと主張し、これに対して北朝鮮とこれを支持する在日朝鮮人組織・在日本朝鮮人総聯合会(通称:朝鮮総連ないし総連)では、引きつづき日本人は「在日朝鮮人」(재일 조선인)と呼ぶべきだと主張している。民団も総連も共に、日本に在住する朝鮮民族は全て自分達の団体および自分達が支持する国家に属するべきであり、呼称に関しても自分達が使用しているものを使用すべきであると主張しつづけている。一方、日本国としては韓国籍、朝鮮籍どちらであっても、すべて韓国籍と判断し韓国人として扱うということとなっている[16]。これとは別に、国籍ではなく民族としてのアイデンティティから在日朝鮮人と呼ぶ場合もある。民族名(朝鮮民族)については、韓国では「韓民族」などと呼ばれる。
これら呼称に関する南北の争いを避け、国籍を問わない呼称として在日韓国・朝鮮人の他に在日コリアンという呼称がしばしば使われる。また、池東旭などによって、在日韓国・朝鮮人としてのアイデンティティを獲得しようとの呼掛け・主張の中で、日本に住む朝鮮半島由来の住民(日本国籍を持たない者も含む)の民族としての総称として、「コリアンジャパニーズ」などが提唱されて、在日韓国人である金城一紀や新井英一などが自称として用いている。「在日」とだけ表現する場合は在日外国人一般ではなく、在日韓国・朝鮮人(それもニューカマーを含まない特別永住者)を指すことが大半である。
韓国、北朝鮮においては、帰化者も含めて在日僑胞(チェイルキョッポ、재일 교포)または在日同胞(チェイルドンポ、재일 동포)と呼ばれるが、韓国人には在日韓国・朝鮮人に対して偏見を持っている者が多数おり、「半チョッパリ」(パンチョッパリ、ko:반쪽바리)と蔑称されることもある[17]。韓国政府は1999年に「在外同胞法」を制定し兵役の義務を果たしていない韓国籍特別永住者などの在外永住者や韓国系アメリカ人などの外国籍の元韓国人にも「在外同胞」(재외동포、F-4査証)の法的地位を与え韓国人と同程度の内国人待遇を認めるようになった[18](ただし、朝鮮籍在日韓国・朝鮮人は対象外。また中国政府の反対もあり、中国朝鮮族、旧ソ連の高麗人も在外同胞法の対象となっていない[19][20]。母国滞在中の在日韓国人永住者の投票権は韓国における外国人投票権(2005年から)に遅れ2010年から認められるようになった[21])。韓国外交通商部の2009年在外同胞現況によると在日僑胞は91万2655人となっている[3]。国籍上は日本人である場合や片親が日本人のハーフ(あるいはクォーター等)の日本国籍保持者であっても、一部の民族的なアイデンティティから在日韓国・朝鮮人を呼称することがある。
在日韓国・朝鮮人の性格には、来日・定住を始めた時期、出身地、定住する地域、本国での国籍によって大きな違いがあるといわれている。韓国により留学が自由化された1980年代以降に来日した韓国人を「ニューカマー」[22][23][24]、それ以前から在留している在日韓国・朝鮮人やその子孫を「オールドカマー」と呼び、区別することもある。韓国では在日2世からは国籍が韓国のままであっても中身がほとんど日本人なうえ、徴兵制の義務がないという理由で同じ韓国人として見る者は少ない。在日韓国・朝鮮人も自らの事を韓国人ではなく”在日人”として見ている者がほとんどである。
韓国・朝鮮系日本人
民団統計によると、日本国籍を取得した韓国・朝鮮人の2009年3月末までの累計は296,168人となっている[5]
上述のように、在日韓国・朝鮮人は、日本政府の統計などでは、「日本に定住(連続90日以上滞在)し韓国・朝鮮籍外国人として外国人登録している人々の総称」をさす。 これに対して、帰化して日本国籍を取得した者は「韓国・朝鮮系日本人(コリアン・ジャパニーズ)」と呼ばれるのが自然だが、現実にはそのような用例は少ない。コリアン・ジャパニーズは1977年、坂中英徳によって在日の帰化を奨励する流れの中で用いられた[15]。当初は「単一民族国家日本への同化を促すもの」として在日知識人から異論が唱えられたが、上記のように2000年ごろから「コリアン・ジャパニーズ」と自称したり、これらの自称を用いて日本へ帰化し日本の多民族国家化を奨励する池東旭、河炳旭、鄭大均などの(元)在日韓国・朝鮮人も出現している[15][25]。2003年には、高槻むくげの会の李敬宰を会長とした「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会[3]」が発足、2005年には坂中を顧問に迎え特別永住者の帰化を押し進めている[15]。総務省も2005年「多文化共生社会の推進に関する研究会」を発足、「多文化共生の推進に関する意見交換会」を設置しこの流れを推進している[26]。
これら、「韓国・朝鮮系日本人」は在日韓国・朝鮮人とは区別されるのみならず、単に「日本人」であるとみなされる場合がほとんどであった。これは、日本に帰化した者にも朝鮮系という出自を言明する者が少なく、帰化した韓国・朝鮮人も日本人と自認する場合がほとんどだったこと。また、そう自認する者しか帰化しない時期が長くつづいたことがある。また、日本在住が数世代を経ていっそう日本人からは区別がつかなくなっていること、帰化がかつて手続き的な国籍取得ではなく民族的同化を求めるものであったこと、日本国籍を取得しながら韓国・朝鮮人を自認し表明する者がほとんど見られなかったことなどが関係している。しかし、1980年代末以降、日本国籍を取得しながら民族的出自を明らかにする者も増えつつあり[27]、韓昌祐(はん・ちゃんう)のように民族名の朝鮮語読みを日本語転記した名前で帰化した例もある[28]。また、韓国・朝鮮系日本人を同胞視する在日韓国・朝鮮人も増えている[29]。
歴史
韓国併合以前の在日韓国・朝鮮人
西暦 | 明治 | 人数 | 西暦 | 明治 | 人数 | 西暦 | 明治 | 人数 |
1883 | 16 | 16 | 1893 | 26 | 7 | 1903 | 36 | 224 |
1884 | 17 | 1 | 1894 | 27 | 7 | 1904 | 37 | 233 |
1885 | 18 | 1 | 1895 | 28 | 12 | 1905 | 38 | 303 |
1886 | 19 | 0 | 1896 | 29 | 19 | 1906 | 39 | 254 |
1887 | 20 | 6 | 1897 | 30 | 155 | 1907 | 40 | 459 |
1888 | 21 | 7 | 1898 | 31 | 71 | 1908 | 41 | 459 |
1889 | 22 | 8 | 1899 | 32 | 188 | 1909 | 42 | 790 |
1890 | 23 | 9 | 1900 | 33 | 196 | 1910 | 43 | 不明 |
1891 | 24 | 6 | 1901 | 34 | 355 | 1911 | 44 | 2527 |
1892 | 25 | 5 | 1902 | 35 | 236 | 1912 | 大正1 | 3171 |
1876年(明治9年、高宗 (朝鮮王)13年)、日朝修好条規が結ばれ、「隠者の国」と呼ばれた朝鮮が開港・開国、1880年、金弘集らが第二次朝鮮通信使として来日[31]、東京に朝鮮公使館が設置される。その後、留学生や亡命者などが少しずつ入国し始める。この時期来日した著名人は、1884年(明治17年)(甲申政変)、1895年(明治28年)と二度に渡って日本に亡命し、併合後は朝鮮貴族となり、朝鮮総督府中枢院顧問、貴族院議員などを勤めた朴泳孝、1882年、慶應義塾などで学び、甲午改革失敗後1894年上海で閔妃の刺客に斃れた金玉均、金玉均を暗殺するために来日した宋秉畯、閔妃暗殺に係わったを禹範善を日本で暗殺した高永根、独立協会を結成した尹致昊、徐載弼、1905年、1915年と2度に渡って留学し、1919年の「二・八独立宣言」の起草に加わった李光洙、日本への留学、亡命後、三・一独立運動の「独立宣言書」の起草に係わった崔南善、崔麟、孫秉煕、呉世昌、権東鎮などがいる。
戦前の在日韓国・朝鮮人移入の背景
注:ここで述べる背景・経緯は、朝鮮の植民地時代・日本の敗戦以前から日本に居住する在日韓国・朝鮮人に関するものである。
韓国併合(日韓併合)以前から南部に住む朝鮮人は日本に流入しはじめており、留学生や季節労働者として働く朝鮮人が日本に在留していた[32]。韓国併合以降はその数が急増した。内務省警保局統計は、1920年に約3万人、1930年には約30万人の朝鮮人が在留していたとしている[32]。日本政府は日本人が兵役についたために労働力が不足した戦時の数年間を除き、戦前戦後を通じて日本内地への渡航制限などにより朝鮮人の移入抑制策を取ったが、移入を止めることは出来なかった[33][34][35][12]。
朝鮮人が日本に移入した要因として、以下の社会的変化が挙げられる。
- 朝鮮南部は人口密度が高い上に李氏朝鮮時代から生活水準が低かったため、生活水準の高い日本内地を目指した[33]。
- 朝鮮における農業生産体制の再編
- 併合後の朝鮮では農村を含めた経済システムが再編され、特に1910年から1918年にかけて行われた土地調査事業によって植民地地主制が確立し、日本人地主と親日派朝鮮人地主へと土地所有権が移動したといわれ[36]、その結果、土地を喪失した多くの農民が困窮し、離農・離村したことが日本への移住につながったとしている[37]。また、産米増殖計画による米の増産と日本への過剰輸出が、朝鮮半島で1人当たりの米の供給量激減と米価の高騰を招き、小作農などの人々を困窮させ[38][39]土地の収奪・農民の没落が進行し[40]、日本への移住に拍車をかけたとする論もある。なお、民団の子団体、在日本大韓民国青年会による在日1世1106名への聞き取り調査の「日帝が行なった土地調査事業をご存知ですか」と言う設問では「知っている」「聞いたことがある」は4分の1(25.1%)であり、「知らない」は4分の3であった[41]。その為、「土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきた」という主張は、当人たちが存在を知らない土地調査事業を渡日理由にしたというのは後知恵ではないかという指摘もある。1985年に土地事業当時の公文書が大量に発見されてからは実証研究がなされるようになり[42]、2004年には「日本による土地収奪論は神話である」と李栄薫が主張している[43]。
- 山本有造によると、土地調査事業によって所有者が判明せず、日本に収められた朝鮮の農地は全体の3%前後(多くても10%)であるとしている[44]。
- 李栄薫によると、朝鮮全土484万町歩の土地の大部分が民有地、残りの12.7万町歩が国有地とされ、国有地も1924年までは日本人ではなく朝鮮人の小作人に有利な条件で払い下げられたもので[45]、土地収奪論は1955年に東京大学留学中の李在茂による創作としている[42]。
- 日本における資本主義の発展によって労働力需要が高まったこと、国際競争力の源泉である低賃金労働力として朝鮮人労働力を必要としたことが挙げられる。これが朝鮮人の日本への移住を促進した[46]。
- 1910年-1940年にかけて朝鮮では年平均1.3%の人口増加率を記録し、世界的に見て高い人口増加率が記録されている[47]。
- 1910年-1940年にかけて朝鮮では年平均3.7%の経済成長率を記録し、世界恐慌下にあった海外とは異なり高度成長を遂げている[47]。
日本政府は朝鮮人の流入による日本内地の犯罪増加や失業率上昇に悩まされ続けており、朝鮮人の日本内地への流入を抑制する目的で満洲や朝鮮半島の開発に力を入れた[33][34]。
朝鮮人労働者の日本への移入は日中戦争および太平洋戦争の勃発により増加の一途をたどった。併合当初に移入した朝鮮人は土建現場・鉱山・工場などで働く単身者が多くを占めていたが、次第に家族を呼び寄せたり家庭を持つなどして、日本に生活の拠点を置く人々が増えた[32]。
1945年8月終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人ほどとする報告もある[48]。その9割以上が朝鮮半島南部出身者であった[32]。このうちの多くが第二次世界大戦終戦前の10年間に渡航したと考えられている。
- 1934年10月 岡田内閣は「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定し、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発と密航の取り締まりを強化[33][34]。
- 1939年9月 朝鮮総督府の事実上の公認のもと、民間業者による集団的な募集の開始
- 1942年3月 朝鮮総督府朝鮮労務協会による官主導の労務者斡旋募集の開始(細かな地域ごとに人数を割り当て)
- 1944年9月 日本政府が国民徴用令による徴用
1959年に外務省は、朝鮮への国民徴用令適用による朝鮮人徴用は1944年9月から下関-釜山間の運行が止まる1945年3月までの7ヶ月間であり、また、戦時中に徴用労務者として来た朝鮮人の内、そのまま日本に留まった者は1959年時点で245人に過ぎず、日本に在住している朝鮮人は、「大半が自由意志で来日・在留した者」とする調査結果を発表している[49]。
この時期は兵役により減少した日本での労働力を補うため、朝鮮半島からの民間雇用の自由化(1939年)、官斡旋による労務募集(1942年)により在日朝鮮人が急増したが、1944年9月から始まった朝鮮からの徴用による増加は第二次世界大戦の戦況の悪化もあってそれほど多くは無かった。1974年の法務省・編「在留外国人統計」では、朝鮮人の日本上陸は1941年 - 1944年の間で1万4514人とされ、同統計上同時期までの朝鮮人63万8806人のうち来日時期不明が54万3174人であった。官斡旋等による朝鮮半島での労務募集の実態や日本国内での朝鮮人労働者の待遇・生活については、その人数や規模などを含めて、現在も議論が続いている[50][51][52]。また、日本国内での労働に従事した朝鮮人の中には、「タコ部屋労働」のような、自由を奪われた状況に置かれた者も多数あった[52]。
なお、2005年の日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府に対する補償申請者は、2006年3月の時点で総受理数21万件のうち在日韓国人からは39人に留まっており、これは樺太(サハリン)からの5996件に比べても極端に低い数となっている[14]。
1945年以降は、日本は戦災によって国土が荒廃し、食料不足になり占領国からの食糧援助に頼らざるを得なくなったが、戦災に遭わなかった朝鮮は日本統治時代には食料を輸出できるほどの生産性を備えるに至ったことなどから、1946年3月までに在日朝鮮人のうち140万人の帰還希望者が日本政府の手配などにより朝鮮に帰還しているが[12]、戦後も朝鮮からの密航者が絶えず日本の治安上の問題となった[35]。また、1945年に朝鮮半島に帰還したものの、その後に動乱を避けて再び日本に移入した者も多かった。彼らとその子孫も、オールドカマーのうちに入れられて考えられることが多い[53]。
戦前の在日韓国・朝鮮人
韓国併合(日韓併合)により、日本による朝鮮半島の合邦化が進行していくのと並行して、朝鮮人の素養が疑問視され、日本人による差別・蔑視の対象とされるようになった。要因は様々であるが、例えば、朝鮮人の順法意識や衛生知識の乏しさに起因する生活上のトラブルや、朝鮮語訛りの日本語を使う相手に対する偏見、皇室・李王家(李王世子暗殺未遂事件)を対象とした多数の暗殺未遂事件を引き起されたこと、内地人(日本人)に比べて犯罪率が高い事などが原因とされる。朝鮮総督府は「『内地人(日本人)』による朝鮮人への差別的態度が朝鮮人の民族主義を育てている」と警告を発した。
関東大震災の際には、朝鮮人暴徒が多数の放火、殺人、婦女暴行、騒乱を起こしたため[54]、警察は朝鮮人暴徒の検挙を行っていたが、自警団によって不逞鮮人とみなされた朝鮮人が殺害される事件が起きた。このため、戒厳司令部は全ての朝鮮人が悪いわけではないとし、自警団の武装を禁止し、警察と軍を信頼するよう声明を出した。朝鮮人によって多くの事件が引き起こされたため、流言も生み出された[54][55][56][57]。なお、在日本大韓民国民団は官憲が意図的に民衆に朝鮮人を襲撃させたと主張している[58]。
一方で横浜市の鶴見警察署長・大川常吉は、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干したとされる[59]。また、軍も多くの朝鮮人を保護した[60]。
日中戦争による戦時動員体制の強化にともない朝鮮人の動員を進める必要に迫られたころ、日本政府は内鮮一体のもと、日本人と朝鮮人を同じく扱う政策に傾いた。朝鮮人は旧来の日本国民(内地人)とは別個の法的身分に編入されたが、日本国民としては不完全ながら公民権(選挙権、被選挙権、公務就任権など)を与えられた。「民族的出自によって差別的な不利益処分を受けることは原則としてありえない」という方針に、朝鮮の知識人が賛同した(李光洙など)。朝鮮出身者の中にも、日本国民として官公庁に勤務した者がいた。高等文官試験の受験資格も与えられており、キャリア官僚や裁判官になった例もある(民団団長の権逸は元裁判官)。朝鮮人にも陸軍幼年学校や陸軍士官学校への入学資格が与えられ、日本陸軍の将軍・将校として日本兵を指揮した朝鮮人も多くいた。日本軍の将軍となった朝鮮人は洪思翊中将や李垠中将のように朝鮮名のままで日本軍に在職していた。
第二次世界大戦の終戦以前に行われた選挙では朝鮮名のままで立候補した者も存在し、実際に衆議院議員に当選した者(朴春琴)もいる。また、多くの朝鮮人も華族(朝鮮貴族)として貴族院議員に議席を持っていた。
日本内地への移入
朝鮮人の移入は戦前から行われるとともに、多くの密航が行われており、密航者や密航組織の摘発が頻繁に行われていた[61]。1934年10月に岡田内閣は、朝鮮人の移入によって治安や失業率が悪化したため、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発を行うとともに密航の取り締まりを強化するための「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定した[33][34]。
1938年12月26日には摘発された密航朝鮮人180人が強制送還されている[62]。1939年1月には300人の密航朝鮮人が強制送還された[63]。2月2日には密航朝鮮人128人が一網打尽に逮捕されている[64]。3月1日から3月17日にかけて250余名の朝鮮人を強制送還している[65]。このように余りに密航が多いため1939年春から日本内地への渡航の取り締まりを緩和するようになったが、6月22日までに日本内地への渡航証明下付出願者は40,485人に上り、漫然渡航者として19,110人が論旨され、2,000人の密航者が摘発されている[66]。また、朝鮮人のなかには渡航証明書を偽造して売りさばき巨利を貪るものもいた[67]。1940年以降も内地渡航緩和が行われ、炭鉱だけでなく、工場、会社などへも道が開かれた[68]。その一方で、第二次世界大戦中にも密航者は増加し、警察による摘発も行われていた[69]。
福岡県の日産鉱業所では、400人の朝鮮人が採用されて、新築の住居が与えられ、一人当たり月々20円以上朝鮮に送金していた[70][71]。
戦後の在日韓国・朝鮮人
帰国と滞在
終戦直後の1945年8月24日、朝鮮人帰還者を乗せ釜山港へと向かった浮島丸が、連合国軍司令部の航行禁止命令により、舞鶴港への入港中、触雷・沈没して乗員約5000名のうち約550人が死亡する浮島丸事件等の事故もあったが[72]、その後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により送還事業が開始され、翌1946年までに徴用者を中心に140万名が朝鮮半島に帰還する一方、1939年9月の「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」通達により朝鮮における雇用制限撤廃(自由募集)以前から滞在していた者を中心に約60万名が日本に残った。
朝鮮人の引揚に関しては、GHQと日本政府は引揚希望者を全員帰国させる方針であり、船便による具体的な送出人数に関してもGHQが指示を出している[73] 。また、日本国内(内地)の輸送に関しても具体的な指示が出ている[74]。
その後、在日韓国・朝鮮人は戦勝国民でも敗戦国民でもない「第三国人」としてみなされるようになった[75]。戦前・戦中から、在日韓国・朝鮮人の多くは日本の一般社会との交流に乏しく、港湾や鉱山、工場などでの労働によって生活していたため、日本語を巧く話すことはできず、生活基盤は脆弱であった。GHQの計画に従い、大部分の人々が終戦後故郷へ帰る選択肢はあったものの、約4分の1が戦後も日本に定住するに至ったことは、後に日本人と在日韓国・朝鮮人双方から「棄民政策」として批判された[76][77]。
1945年9月、在日本朝鮮留学生同盟が設立される[78]。1945年10月15日に在日本朝鮮人連盟が設立され、1946年10月3日には在日本朝鮮居留民団(現在日本大韓民国民団)が設立される。1946年9月29日には坂町事件を報道した新潟日報が朝鮮人に襲撃される新潟日報社襲撃事件が起きた。1946年11月末までに占領軍は連合国や朝鮮人・中国人についての批判を禁ずるとした検閲の指針を定めた[79]。1946年11月10日、在日朝鮮人生活権擁護委員会を結成すると、朝鮮人に対する生活物資の優先配給を要求し、12月20日に皇居前広場で朝鮮人生活権擁護全国大会を開くと首相官邸を襲撃した(首相官邸デモ事件)。また、行政への脅迫によって米の二重三重配給を受けて密造酒を醸造するものが多く[80]、神奈川税務署員殉職事件、高田ドブロク事件など税務署との衝突が多発し、職員に死傷者が出ることもあった[81][75]。このため、1947年に国会に上程された「財務局及び税務署に在勤する政府職員に対する税務特別手当の支給に関する法律案」の趣旨説明で、法案に記載されている政府職員が事務の執行にあたり生命又は身体に著しい危険を及ぼす恐れがある場合とは、特殊な第三国人等に対する検査調査が該当するとしている[75]。ソフトバンクグループ会長孫正義の父は密造酒で稼いだ資金を元にパチンコ店数十店舗を開くなどして財を成している[82]。また、覚醒剤密造の72%が在日韓国人によって行われた[83]。1948年の浜松事件ではヤクザ、警官隊、占領軍との抗争が行われた。1949年4月8日、GHQの意向で在日本朝鮮人連盟が解散させられる。1950年5月、在日本朝鮮留学生同盟では、北朝鮮派と韓国派との内部抗争によって死傷者がでる事件が起きた[84]。1950年1月、祖国防衛隊が結成される。1951年1月、在日朝鮮統一民主戦線が結成される。1955年、在日本朝鮮人総聯合会が設立される。
戦後、「朝鮮人には民族教育が必要である」との主張に基づいて、日本各地に朝鮮人学級が設けられ、続いて朝鮮人学校が設置された。これに対して1948年に、GHQの意向により朝鮮学校閉鎖令が出され、阪神教育事件に発展した。朝鮮人が兵庫県庁に突入して閉鎖令を撤回させるなどしたため、アメリカ軍は非常事態宣言を出して朝鮮人1,700人を逮捕した[85]。王子朝鮮人学校事件など朝鮮人学校をめぐる事件も続発した。
1947年5月の外国人登録令で、朝鮮人や台湾人ら在日外国人は外国人とみなされるようになる。その後1952年のサンフランシスコ講和条約発効と併せ、外国人登録法が施行される。これにより日本籍を持っていた在日外国人らは日本国籍から外れることとなる。
その後も朝鮮人の引き揚げは継続され、1959年の時点で日本に残留していた朝鮮人(戦時の徴用令によって日本に渡航して登録された者限定)は、約61万人中245人だった[86]。
戦後の密入国
戦後の大きな朝鮮人の日本移入の起因となった最初のものとして、1948年の済州島四・三事件がある。韓国政府による済州島民への虐殺は日本への難民/密航者を大量に生んだ[87]。済州島四・三事件の鎮圧を命じられた韓国軍が韓国本土で反乱を起こした麗水・順天事件の際にも日本への密航者が生み出された[88]。1950年に始まった朝鮮戦争時にも韓国政府による拷問や独裁から逃れるために密航者が生み出された[89]。また、経済的理由から密航して来るものも多くいた。例えば、1947年に孫正義の祖父・父ら孫一族は日本に密航船で入国しており[90]、マルハン韓昌祐会長は「韓国にいても稼げないので密航して来た」と2005年のテレビ番組で発言した[91]。作家のキム・ギルホは「1973年、食べていくために日本行の密航船に乗った」と証言した[92]。
戦後にまもなくして来日した彼らは戦後の混乱に紛れ、本来は対象者ではなかったが特別永住資格を得た[91]。日本政府は密入国者の摘発を行ったが、韓国政府は強制送還を拒否するとともに韓国が抑留した日本人の返還条件として密入国者を日本国内に解放するよう要求した[35]。
『朝日新聞』1955年8月18日「65万人(警視庁公安三課調べ)の在日朝鮮人のうち密入国者が10万人を超えているといわれ、東京入国管理局管内(1都8県)では、この昨年中のべ1000人が密入出国で捕まった。全国ではこのざっと10倍になり、捕まらないのはそのまた数倍に上るだろうという」また、『朝日新聞』1959年6月16日「密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人ともいわれ、実際どのくらいいるかの見方はマチマチだ」また、『朝日新聞』1959年12月15日天声人語「韓国から日本に逃亡してくる者は月平均五、六百人もある。昭和二十一年から昨年末までに密入国でつかまった者が五万二千人、未逮捕一万五千人で、密入国の実数はその数倍とみられる」また、『産経新聞』1950年6月28日には、「終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているとさえいわれる」という記事が掲載されている。
元秀一は、外国人登録証を所持して日本に合法的に居住できる朝鮮人と密航船に乗って不法入国した朝鮮人で在日朝鮮人が形成されており、後者は主に済州島出身であり、これは済州島出自の在日朝鮮人が大阪市生野区を中心に9万人にのぼることと無関係ではなく、また、大阪市生野区を中心に偏在する在日朝鮮人の縁故を頼っての密入国も多く、大規模な密航は、日本統治時代、戦後の済州島四・三事件、ベトナム戦争時の徴兵逃れの三度にわたり、ほか離散家族の再会・同居、思想的に拘束を受けない日本の大学への留学、病気治療なども移住の理由にあるとしている[93]。1984年には朝日新聞が「法務省の推定では、数万人の密航者が、息をひそめるように生活しているといわれる」と報じた[94]。
佐藤勝巳は外国人登録証を所持している在日コリアンといえども不正な手段で入手した密入国者が存在し、ある時期、対馬に登録証の製造工場があったといわれ、敗戦直後日本から帰国した在日コリアンが再度日本に手続きなしで入国する場合は、それらの人に登録証が売買され、その為ゆうれい登録証が大量に存在することを指摘している[95]。
また、朝鮮総連系雑誌において弁護士洪正秀は、「本名、本籍や本当の生年月日が外国人登録と異なることが在日同胞の場合、多々あります」「実は私も朝鮮学校に通っていた時代には「尹(ユン)」という氏を使用していました。戦後、父が密航で日本にやってきて、他人の外国人登録を買ったためでした。そのため、親族と会うときは「洪(ホン)」の氏を使用し、学校では「尹」の氏を使用しました」と記している[96]。
吉田首相の占領軍への朝鮮人送還嘆願書
年次 | 事件数 | 朝鮮人関係者数 |
1945(8月15日以降) | 5,334 | 8,355 |
1946 | 15,579 | 22,969 |
1947 | 32,178 | 37,778 |
1948(5月末現在) | 17,968 | 22,133 |
合計 | 71,059 | 91,235 |
1949年に吉田茂首相は連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥に送還費用は日本政府が負担するとした上で「在日朝鮮人の全員送還を望む」と題する朝鮮人送還を求める嘆願書を提出している[97]。嘆願書では台湾人はあまり問題を起こしていないとして朝鮮人のみの送還を要望し、また朝鮮人の半数が不法入国者であることを明らかにした上で、以下の問題点を指摘した[97]。
- 日本の食糧事情がひっ迫しており朝鮮人の分まで輸入するのは将来の世代への負債となり公正ではないこと。
- 朝鮮人の大多数は日本経済の再建に貢献していないこと。
- 朝鮮人は犯罪を犯す割合が高く、日本国の経済法規を破る常習犯であること。かなりの数が共産主義者とその同調者であること。投獄者が常に7,000人を越えること。
朝鮮戦争
朝鮮戦争勃発後、在日朝鮮人は韓国側と北朝鮮側に分かれて反目し、下関事件、万来町事件、浅草米兵暴行事件、吹田事件など数々の大規模な騒乱事件や、枚方事件や親子爆弾事件などの工場襲撃事件を引き起こした。また、30万人の朝鮮人が日本共産党とともに武装蜂起し、「火炎瓶闘争」と呼ばれる暴力革命闘争を行い多数の警察官が死傷した[98]。警察による朝鮮人部落への強制捜査には硫酸瓶や火炎瓶で対抗した[98]。このため、1952年に破壊活動防止法が制定され朝鮮総連は日本共産党とともに調査指定団体となっている[99]。
第二次世界大戦終結後、在日朝鮮人は日本共産党とともにデモ活動などを積極的に行っていたため、1950年6月25日に朝鮮戦争が始まると共産主義者の処刑(保導連盟事件)を実行している韓国への帰国を躊躇するようになった。また、共産主義者ではなくとも韓国に帰国すれば韓国民として従軍しなければならなかった。6月29日、在日本大韓民国居留民団は義勇兵を募り6万名の志願者から選抜した2万名を韓国に送りだすことを発表した[100][101][102]。韓国人647名、日本人150名の志願者が集まったものの[103]、当初は韓国政府が受け入れを拒否するなどの事態があったが[104]、後に占領軍が必要としたため、韓国人志願者644名を派遣した(その後、義勇兵の一部には韓国政府による工作訓練が施され工作船で日本に潜入し、新潟日赤センター爆破未遂事件を引き起こした[105])[106][107]。
日本の全権回復
1952年4月28日、連合軍の占領下にあった日本はサンフランシスコ講和条約の発行により主権を回復する。在日韓国・朝鮮人は朝鮮半島に帰属する民族である事となり、結果的にこの時点で彼らは日本国籍を喪失した。ここで国籍を喪失した者の範囲は、日本国との平和条約発効時(1952年4月28日午後10時30分)において、朝鮮戸籍令の適用を受けていた者である。したがって、現国籍法施行(1950年7月1日)より前に、朝鮮に地域籍をもつ者と婚姻した内地籍を有した妻や朝鮮籍を有した父に認知されるまで内地籍を有していた子も日本国籍をその時点で喪失したことになる。以降、韓国政府は日本国と韓国の間で政府間協定が結ばれていないとして在日朝鮮人の引き取りを拒否することになる[108]。
帰国運動
戦後、在日韓国・朝鮮人の帰国運動が盛り上がったのは、1958年の日本・北朝鮮赤十字会談の開催からである。「千里馬運動」を掲げて、多数の労働者を必要とした北朝鮮政府と、当時、生活保護受給者の半数を占めていた在日問題の解決を目指す日本政府、さらには在日韓国・朝鮮人にとって、それぞれの思惑が一致した結果とされる。また、共産主義者を弾圧している韓国に帰還することが困難な者にとっても北朝鮮は希望の地であった。このとき、帰国運動に参加した在日韓国・朝鮮人のほとんどは朝鮮半島南部、すなわち韓国政府が支配する地域の出身者であった。このこともまた、韓国政府による「棄民政策」として、後に様々な方面から批判されている。
日本における在日韓国・朝鮮人団体である在日本朝鮮人総連合会は、北朝鮮政府の指示のもとで在日韓国・朝鮮人の『地上の楽園』北朝鮮への帰国を、強力に勧誘・説得する活動を展開した。当時の韓国は朝鮮戦争による荒廃のため世界最貧国であったが[109]、北朝鮮は国際協調によって共産諸国の支援を受けて発展を遂げ、在日朝鮮人へも支援金を送るほどであった[110]。日本の新聞各社、また民間の研究機関「現代コリア研究所」(旧・日本朝鮮研究所、代表・佐藤勝巳)も、これに同調した。在日韓国人の犯罪発生率が日本人の十数倍に上ること[35]、犯罪者や密入国した韓国人の送還を韓国政府が受け入れないこと[35]、摘発された密入国者を日本国内へ解放するよう韓国政府から要求されるなどの治安上の問題[35]や、在日韓国・朝鮮人をとりまく生活保護費の予算捻出に苦慮していた日本政府は、このキャンペーンに応じた。当時の内閣総理大臣・岸信介は国会答弁で帰国運動の「人道性」を主張し、北朝鮮への帰国事業を受け入れた。韓国はこれを「北送」と呼んで非難し、韓国居留民団は「北送事業」への反対運動を展開した。韓国政府は日本に工作員を送り込み、テロ活動によって帰還事業の阻止を図った(新潟日赤センター爆破未遂事件)。また、「在日韓国・朝鮮人は強制連行された人々である」と主張するようになった[12]。
大多数にとって出身地(故郷)ではない北朝鮮へ「帰国」した在日韓国・朝鮮人の生活は過酷なものであった。帰国者は北朝鮮においても出身成分による差別にさらされ、一部は強制労働に追いやられた。行方不明者が多く、処刑されたと言われている者も多い。在日韓国・朝鮮人の子弟であるほど、突然にスパイ容疑で強制収容所に送られるケースが多かったとの証言もある[111]。一方、金日成国家主席の後継者となる金正日の妻となった高英姫のように栄達した例もあった。北朝鮮における待遇の実態が次第に在日韓国・朝鮮人社会へ伝わるにしたがって帰国者は激減し、1983年に帰国者が0人となったことで「帰国運動」は事実上終結した。
現在では、帰国運動の際に在日韓国・朝鮮人と結婚して帰国運動の際に北朝鮮へ渡った「日本人妻」(一部「日本人夫」)の日本帰国も、日朝間で解決が必要な課題のひとつとなっている。ただし詳細は不明ながら、一時日本へ帰国したものの、再び北朝鮮へ渡る例もある。
テッサ・モリス=スズキはジュネーブの赤十字社資料から北朝鮮帰国運動の背景を明らかにしており、日本による追放政策としての側面を強調している[112]。
帰国者は北朝鮮における身分制度である出身成分の最下層に分類されている[113]。
冷戦と日韓基本条約
60年安保闘争を経て、1964年の新幹線開業、東京オリンピックも成功させるなど高度経済成長は軌道に乗り、日本社会は落ち着きを取り戻していた。アメリカは1961年からベトナム戦争への介入を開始、冷戦は1962年のキューバ危機で最高潮に達し、その後米ソは対話路線に移行する。一方、東アジアでは中ソ対立が鮮明になり東京オリンピック開催中の1964年10月16日に核実験を成功させた中華人民共和国は文化大革命に突入、北朝鮮は中ソ間を行き来するも援助額は減少し先細りになっていく。1961年、韓国では5・16軍事クーデターにより朴正煕が権力を掌握し民団も支持を表明[114]、しかし第一次経済開発五カ年計画を推進するも1964年には行き詰っており、その打破を目指して1965年2月からベトナム戦争に参戦する。
1965年6月、日本が韓国を朝鮮半島唯一の国家として承認する「日韓基本条約」および在日韓国人の法的地位について定めた「日韓法的地位協定」などの付随協約が結ばれ、韓国籍申請者には一般永住よりも優遇された「協定永住」資格が与えられた。条約批准書交換に際し朴正煕韓国大統領は談話を発表し[115]、この中で在日同胞の苦労の原因を韓国政府の責任とし、それまで在日同胞の一部が共産主義に駆り立てられ加担するようになったことも大部分韓国政府が十分保護できなかった責任であるとした。さらに、朝鮮総連系に加担した者たちの過去の行為を不問に付すとともに、韓国政府による在日同胞の安全と自由についてより積極的に努力し可能な最大限の保護を行うことを約束、また、これまで分別なく故国を捨て日本に密入国を試み抑留され祖国のあるべき国民になれなかった者に対しても、新しい韓国民として前非を問わない姿勢を示し、再びこうした分別のない同胞がいなくなることを希望した。韓国は民団を通じ朝鮮籍から有利な「協定永住」資格が得られる韓国籍への書き換えを強力に推進、1971年1月の申請締め切りまでに35万922人が永住資格を取得するなど民団は大きく勢力を伸ばし、1966年には日本全国への韓国領事館の設立支援を決議した[114]。この国籍書き換えをめぐって、推進する民団とこれを阻止しようとする朝鮮総連の幹部が、大阪市生野区役所などで激突する事態も発生した[116]。
朝鮮半島では1968年1月の青瓦台襲撃未遂事件、プエブロ号事件など南北対立が続き、日本が舞台になった1973年の金大中事件や在日韓国人が行った1974年の文世光事件は日韓関係に大きな影響をもたらした。日本ではべ平連や70年安保闘争、「戦争を知らない子供たち」の流行など反戦運動の盛り上がりや金大中事件などを通じて反米、反韓機運が高まっていった。日本も経済的にはベトナム戦争の恩恵を受けており[117]、また国際勝共連合など反共主義運動も自民党を巻き込んで展開されていたが、「進歩的文化人」や教育現場を中心に共産主義に共感する風潮が高まり革新自治体が続出、公害病や同和問題などの社会問題の解決を求める声も大きくなっていく。1967年の在日朝鮮人の脱税容疑に関連する強制捜査に端を発し、在日民族団体を通じた所得税や事業税、住民税などの減免が行われ始めたとされる(詳細は「在日特権#減免税特権」、「#民族団体を通じた在日韓国・朝鮮人への住民税減額措置」)。朝銀信用組合(朝銀)や商銀信用組合(商銀)といった民族系信用組合が日本全国に次々設立され、在日朝鮮人による商工会、朝銀、朝鮮総連を通じた「祖国への貢献」も始まった[118]。1968年からの北朝鮮への帰還事業の一時中断、1968年の金嬉老事件、1970年の日立就職差別事件などを経て、日本社会も在日社会も「併合時代の遺物」から日本の定住者への脱却の道を模索し始める。
難民条約批准と社会保障
1981年、日本の難民条約批准を受けて1982年「出入国管理令」が「出入国管理及び難民認定法」と改められ、韓国籍以外の朝鮮籍・台湾籍平和条約国籍離脱者には「特例永住」制度により特例として永住許可が与えられた[119]。また、難民条約に定められた難民に対する各種の保護措置を確保するため、国民年金法、児童扶養手当法等の社会保障関係法令から国籍要件を撤廃するなどの法整備が行われ、初等教育、国民年金、児童扶養手当、健康保険などについて日本国民と同一待遇を受けられるようになった[120]。さらに、国民年金を受給するには60歳までに最低25年間の加入期間が必要であったが、1986年の制度改正により平和条約国籍離脱者は20歳以上60歳未満のうち1961年4月から1981年12月まで在日していた期間も遡って老齢基礎年金の加入期間(通称「カラ期間」)として追加されることになった[121][122][123]。ただし、この措置によっても1986年に60歳を超えていた人(1926年(大正15年)以前に出生した者)は加入資格を満たすことができず、また告知も不十分であったとして、一部の在日韓国・朝鮮人により訴訟がおこされたが、2010年現在、在日側の敗訴が続いている(「在日無年金訴訟」)[123][124]。
日韓外相覚書、入管特例法と定住化
日韓法的地位協定第二条で協定永住者の日本での居住については、大韓民国政府の要請があれば効力発生の日から25年を経過するまでは協議を行なうことになっていたことを受けて[125]1988年からいわゆる「在日三世問題」[126]について協議が続けられ、1991年1月10日海部俊樹総理大臣訪韓時に「日韓法的地位協定に基づく協議の結果に関する覚書」(日韓外相覚書)が交わされた。この中で、在日韓国人が日本でより安定した生活を営むことができるようにすることが重要であるという認識に立ち、永住手続きの簡素化と指紋押捺の廃止、退去強制事由の限定(内乱・外患罪、国交・外交上の利益に係る罪及びこれに準ずる重大犯罪に限定し麻薬取締法違反は除外)、再入国許可の出国期間を最大限5年に延長、外国人登録証の携帯制度の運用の弾力化、民族教育への配慮、公立学校教員としての採用と地方公務員への採用機会の拡大などが日本政府の対処方針として表明され、さらに、大韓民国政府より地方自治体選挙権についても要望が表明された。
これを踏まえ、1991年11月1日に「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」が施行され、「協定永住」と「特例永住」は「特別永住」として永住資格が一本化された。また、これと同時に中国残留孤児やフィリピンの日系人家族等を想定した「定住者」という法的地位も新設された[127]。一方、この入管特例法施行後も外国人登録証の国籍欄には韓国籍、朝鮮籍双方が用いられているが、日本国としてはどちらであっても、すべて韓国籍と判断し韓国人として扱うということとなっている[16]。
同年3月22日には文部省が都道府県教育委員会などに、在日韓国人などの教員採用試験の受験を認めるとともに、選考合格者には任用の期限を附さない「常勤講師」として採用するよう通知した[128]。1993年には外国人登録法が改正され特別永住者の指紋押捺制度が廃止された。
これらの措置を勝ち取った1994年以降、在日本大韓民国居留民団は、団体名から仮住まいの意味としての「居留」という文字を名称から外して在日本大韓民国民団に改め、日本国での居留ではなく定住を標榜する団体であることを明らかにするとともに、外国人地方参政権の獲得、国籍条項撤廃、在日無年金問題などの運動を強化するようになった[107]。一方、朝鮮総連は外国人参政権獲得運動は韓国政府の棄民政策や、日本政府による同化政策に追随するものだとしてこれら民団の動きに反対した[129]。
韓国の留学・旅行自由化
韓国では留学自由化が1980年の初めに実施され[130]、それ以降に来日した韓国人はニューカマーと呼ばれるようになる[24]。1987年には45歳以上の海外旅行を自由化、1988年のソウルオリンピックを経て1989年には完全自由化された[131]。「漢江の奇跡」と呼ばれる韓国経済の発展に伴い人々の往来も活発化、さらに2005年、愛知万博を期に日本政府は観光や商用目的など90日以内の短期滞在について査証を時限付きで免除、その後恒久化した[132]。2008年の統計では韓国からの新規入国者数は2,248,645人でその内のほとんどが短期滞在(2,218,602人)である[133]。これに伴い短期滞在者の不法滞在も問題化してきている(#在日韓国・朝鮮人の強制退去、不法滞在参照)。不法滞在者はフィリピン同様女性が多く、2004年に韓国で性売買特別法が施行されたこともあり国外で性売買を行う「遠征売春」が急増、日本国内の韓国人不法滞留者6万-8万人のうち性売買や風俗店で働く韓国人女性は5万人余りに達すると見られている[134]。
また、ニューカマー在日韓国人が増え続けているのに対し、オールドカマーである特別永住者は死去と帰化で減少傾向にあるが、元々オールドカマーにはニューカマーを民団などの在日組織から排斥する傾向も見られ、そのためニューカマーが「在日本韓国人連合会」を組織するなど新・旧在日韓国人間で確執も散見される。特に民団は韓国政府の補助金を受けているのにニューカマー受け入れに消極的だとの批判が強く[24]、また、民団の政府補助金をめぐる虚偽報告問題に際しても、民団の問題点として組織運営の閉鎖性、本国への依存深化、過度な政治志向、葛藤の調整力の乏しさ、文化的貧困などが指摘された[135]。そのような新旧間の確執の一つは2007年の東京韓国学校のカリキュラムをめぐる内紛となって表面化した[136]。また、韓国の在外選挙権獲得運動において、欧米の在外韓国人の一部は、日本での外国人参政権獲得運動に比べ本国参政権獲得議論に消極的な在日社会を指して「在日韓国人はどうしてアクションを起こさないのか。民団の消極的姿勢は、参政権付与反対と言っているに等しい」と非難する声も見られた[137]。2010年6月2日の第5回韓国全国同時地方選挙に際しては、祖国での初めての投票を行った在日韓国人に対し「母国に住む在日韓国人」という表現も使われるなど[21]、日本語を母語とし文化的にも日本人的であるオールドカマー集団は韓国本国から見ても、日本以外の在外同胞社会から見ても特異な集団であるとみなされることがある。
北朝鮮の拉致問題と核開発
1987年11月29日、大韓航空機爆破事件が引き起こされる。当初、拘束された被疑者は日本旅券を保有していたが、その後の調査でこれは偽造旅券であり、日本から拉致された日本人により教育されたとされる北朝鮮工作員であることが判明した。ソウルオリンピック開催の妨害を目的としていたとされるが、北朝鮮によるテロであることが明らかになるにつれ東側諸国はソウルオリンピックへの参加を決めるなど、北朝鮮の思惑とは裏腹の結果となった。その後も北朝鮮の反対を押し切って1990年にソ連が、1992年には中国が韓国と国交を樹立、北朝鮮は孤立を深め核兵器開発へと傾倒していく[138][139][140]。また、1990年代に入り日本のバブル景気が崩壊、「学習組」の指揮下北朝鮮への不法送金を行っていた朝銀信用組合も、不動産投資にのめりこんでいた商銀信用組合や多くの日本の金融機関とともに1990年代後半から次々と破綻、朝銀救済のために投入された公的資金は最終的に約1兆4千億円に上り批判が集まった[141][142][143]。その後の破たん処理の過程で担保とされていた朝鮮総連本部ビルや朝鮮学校などが差し押さえられている[144]。
1994年の金日成の死去に伴う金正日体制移行への世襲批判、北朝鮮が「苦難の行軍」と呼ぶ1990年代半ばの飢饉[145]を経て弱体化していたところに在日社会という重要な資金源の一つを失った北朝鮮は「太陽政策」を掲げていた韓国や民団、日本との関係改善にも意欲を見せた。しかし2002年平壌で行われた日朝首脳会談で北朝鮮による日本人拉致問題を認めたことで日本の対北感情は極度に悪化、それまで拉致問題は捏造であるとしてきた朝鮮総連や北朝鮮支持者などに厳しい目が向けられ、日本国籍を取得したり朝鮮籍から韓国籍に書き換えるものが続出し、1990年代末には10万人を超えていた朝鮮籍保持者は、2010年時点では3-4万人になっているとみられている[7]。また、朝鮮半島非核化を目指した米朝枠組み合意や朝鮮半島エネルギー開発機構 (KEDO) の失敗、度重なる北朝鮮によるミサイル発射実験の影響により、2006年、国際連合安全保障理事会では決議1695が採択され、2006年の民団と朝鮮総連の「5.17共同声明」も民団側が白紙撤回[146]、さらに同年の北朝鮮の核実験を受け国際連合安全保障理事会決議1718が採択された。2009年には北朝鮮の再度の核実験を受け国際連合安全保障理事会決議1874に基づく制裁が決定され、日本でも万景峰号の入港禁止や北朝鮮への輸出・送金禁止、送金制限に違反した在日外国人の再入国禁止措置などが採られた[147]。2010年5月28日には日本で「国際連合安全保障理事会決議第千八百七十四号等を踏まえ我が国が実施する貨物検査等に関する特別措置法」(臨検特措法)も可決されるなど[148]、北朝鮮との交流はさらに細ってきている。
現在
今日、在日韓国・朝鮮人は、日本に民族的アイデンティティーを重視した独自のコミュニティーを形成する者、新たに形成することを志す者、帰化する者、日本人配偶者を得て同化する者、それらの中間的立場や混合的立場をとる者、と多様な生き方を見出している。
在日韓国・朝鮮人の諸組織・知識人・朝鮮学校からは、民族教育の必要性が主張されてきた。日本側の受け入れ態勢も進み、実際に本名を名乗り自らのアイデンティティーを明確にすることで、在日韓国・朝鮮人が社会の中で認められるようになっている。これに呼応して、行政側の対応にも変化が起こりつつある。朝鮮学校の卒業生は、各種学校卒のため、日本の学制から除外されているが、近年では国公立大学でも2004年前後から朝鮮学校の卒業を大学入学資格として認定する動きが生じている。
近年では在日韓国・朝鮮人であることを最初から・あるいは途中から明らかにして、本名で活動する著名人もいる。芸能人・スポーツ選手など日本人に触れやすい分野でも、在日韓国・朝鮮人の本名を見かけるケースが増えている。また、東京大学教授に就任した姜尚中や日本映画監督協会理事長に就任した崔洋一のように学問・文化両面においても日本社会で高い知名度を得るにいたっている。日本側では韓国・朝鮮社会には比較的無関心・不可触であったが、2002年FIFAワールドカップ日韓共催、2005年の日韓友情年に続く韓流ブームによって両国間の友好を図ろうとする動きがメディアや在日社会を中心に大きく展開される一方、「知れば知るほど度合いが増す」と言われる嫌韓感情[149][150]や在日特権を許さない市民の会や主権回復を目指す会などの「行動する保守」を標榜する団体が結成され、一部で在日韓国・朝鮮人側との対立が発生している[151][152]。
帰化と日本国籍取得
長年、在日韓国・朝鮮人を日本社会の構成員として取り扱おうという主張があった。この場合「日本社会の構成員」という語は、立場によって様々に意味を変える。「社会の構成員」と言うかぎりならば、これには単なる実態の反映でしかないという見方もある。しかしこれが、地方参政権の付与に至ると、議論が分かれる(外国人参政権を参照)。
2007年時点で民族名による帰化は保障されておらず、届出による日本国籍取得と民族名使用の保障などを盛り込んだ国籍取得特例法を求める運動が続いていた[153]。自民党法務部会の「国籍問題に関するプロジェクトチーム」は2008年1月24日の会合で、在日韓国・朝鮮人などの特別永住者が日本国籍を簡単に得られるようにする特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律案(特別永住者国籍取得特例法案)を議員立法で2008年の第169回通常国会に提出する方針を決めた[154]。
在日韓国・朝鮮人から日本に帰化する者の数は、95年に一万人を超えたのを皮切りに年間で毎年9000 - 11000人に上っている。帰化を許可された者は国籍法第10条に基づき、『官報』に帰化前の名前・住所・生年月日が公示される。
また1990年代までに比べれば、「日本籍コリアン」にも朝鮮系であることを周囲に言明する者が増えるなどし、帰化した後の生活スタイルも多様化しつつある。
日本人との婚姻
2006年、韓国・朝鮮籍所有者と日本国籍者の婚姻件数は8376件で、1961年の1971に比べおよそ4倍、日本国内全体の婚姻件数73万971件のうち、約1%を占めている[155]。在日韓国・朝鮮人女性と日本人男性間の婚姻件数は1990年の8490件を最高に2006年には6041件、一方、韓国・朝鮮人男性と日本人女性間の婚姻件数は2006年末現在で2335件で1984年に2000件を超えて以来、ほぼ横ばいとなっている。
在日民族団体
この節の加筆が望まれています。 |
オールドカマー在日韓国人とその子孫中心の全国的民族団体として、韓国を支持する在日本大韓民国民団(韓国民団ないし民団)と北朝鮮を支持する在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連ないし総連)がある。この他にも新宿区のコリアンタウンを中心とする東京都内在住のニューカマーが中心となった在日本韓国人連合会(韓人会)[23]、2001年に日本の保守派の国会議員らによって新しい日本国籍取得法案が検討され始めたことを契機に結成された在日コリアン弁護士協会[156]などがある。
在日民族産業
職業 | 年 | |||
1969 | 1974 | 1987 | 1997 | |
技術者 | 246 | 631 | 811 | 1953 |
教員 | 1008 | 1039 | 1611 | 2267 |
医療保健技術者 | 543 | 867 | 2648 | 4224 |
宗教家 | 255 | 274 | 375 | 871 |
その他の専門的職業従事者 | 1447 | 667 | 統計なし | 1813 |
管理的職業従事者 | 4732 | 4797 | 14608 | 18282 |
専務従事者 | 14530 | 20769 | 40179 | 52748 |
貿易従事者 | 207 | 185 | 253 | 410 |
古鉄・屑物売買従事者 | 7802 | 7494 | 統計なし | 統計なし |
その他販売従事者 | 23437 | 23099 | 36256 | 35264 |
農林従事者 | 5333 | 3699 | 1588 | 960 |
漁業従事者 | 477 | 373 | 211 | 121 |
採鉱・採石従事者 | 673 | 484 | 181 | 132 |
運輸・通信従事者 | 1200 | 826 | 12733 | 9976 |
建設従事者 | 8701 | 10815 | 統計なし | 統計なし |
その他技能工・生産工程従事者 | 33700 | 34909 | 40722 | 34220 |
単純労働者 | 25864 | 16921 | 5918 | 3350 |
その他サービス従事者 | 3638 | 3025 | 10399 | 11708 |
芸術家・芸能家 | 524 | 703 | 902 | 1203 |
文芸家・芸術家 | 99 | 116 | 143 | 190 |
記者 | 151 | 183 | 130 | 207 |
科学研究家 | 78 | 401 | 139 | 280 |
無職 | 319517 | 374640 | 506266 | 476144 |
分類不能 | 685 | 701 | 693 | 836 |
記入なし | 123964 | 109697 | 統計なし | 統計なし |
総数 | 603712 | 638806 | 677959 | 657159 |
在日韓国・朝鮮人自営業者が多いパチンコや不動産、焼肉、韓国料理店などの飲食などは民族産業や在日産業と呼ばれることがある[158]。これら自営業者に対して昭和四十年代に民族団体を通じた減税の動きが全国的にあったとされる[159][160]。
パチンコ業界は2007年7月からパチスロが射幸性の高い「4号機」から低く抑えられた「5号機」に移行し、ファン離れが起きたことに加え、貸金業の法律改正により消費者金融を利用してパチンコをしていた客の足が遠のいた[158]。大型チェーン店は「1円パチンコ」を導入して新規の顧客を開拓している。
焼肉業界は在日同胞が生み、育てたとも言われ[161]、全国焼肉協会会長は朴(新井)泰道叙々苑社長が[162]、キムチ・焼肉・韓国料理店・居酒屋を支援する韓食ネット協議会(旧キムチネット協議会)会長は朴健市焼肉文化社代表が勤める[163]。焼肉業界は2003年の米国産牛肉の輸入停止問題では大きな影響を受けた[164][165]。民団の機関紙民団新聞によると、2001年時点で焼肉店は2万店舗、年間販売は7000億円、焼肉業界の6割を在日系が占めていたという[166]。
レジャーホテル業界は2010年7月9日に公布され、2011年1月から施行される改正風営法[167]に関連して開発・経営・運営に関する勉強会を開き対応を急いでいる[168]。
1970年代後半、韓国から日本に技術者が進出するようになった貴金属業界もニューカマー在日韓国人が多く、御徒町駅周辺の「ジュエリータウンおかちまち」の形成にも係わっており、日本国内で制作される貴金属製品の約7割、特に高級宝飾品の大部分が韓国人技能士(貴金属装身具製作技能士)の手によるものとされる[169]。東京都内には在日韓国人らでつくる在日韓国人貴金属協会、山梨にも韓人山梨貴金属協会がある[170][171]。
民族系金融機関
韓国・在日韓国人信用組合協会(韓信協)・民団系の商銀信用組合(商銀)系と北朝鮮・在日本朝鮮信用組合協会(朝信協、現在は解散)・朝鮮総連系の朝銀信用組合(朝銀)系の金融機関があるが、バブル崩壊以降破綻が相次いでいる。以前に比べて在日韓国朝鮮人も日本の金融機関からの融資が受けやすくなったため、民族系金融機関の存在理由が薄れてきていることに加え、破たん処理の過程で日本人理事長を受け入れるなど、民族色も薄まってきている。
破綻した朝銀の債権を受け継いだ整理回収機構は朝鮮総連中央本部や大阪など主要都市の朝鮮総連地方本部と学校などを差し押える等[172]、債権回収手続きを進めている[173][174]。また、朝銀の破綻に関連して2004年3月までに朝鮮総連中央の元財政局長を含む25人以上の朝銀役職員が逮捕され、150人以上が取調べを受けている[175]。2010年、韓信協も韓国政府に100億円の出資を要請するなど[176]、合併や管理体制、資本の増強が急務となっている[177]。商銀系信用組合の一つで、2009年4月24日と2010年8月26日、暴力団に関係する企業に融資をしていたなどとして金融庁関東財務局から業務改善命令を受けた中央商銀信用組合では[178][179][180]、取引先で一番多いのは遊技業、貸金業、ホテル業、飲食業の業種で、総代の8~9割がこれらの業種となっている[181]。 また2010年6月25日、商銀系の近畿産業信用組合は内部規定を改定し、民主党に政治献金100万円等を支出したと明らかにした[182]。信組を規制する中小企業等協同組合法は「政治的中立の原則」を定めていが、中小企業庁は「一般論として政治献金は好ましいことではない」が、事業運営に支障をきたさず組合員の総意を反映しているなら抵触しないと回答した。
商銀破綻を期に韓国政府が出資する在日韓国人系普通銀行のドラゴン銀行を設立しようという動きも見られたが、2002年、優先交渉権を得ることができず失敗した[183]。変わりに優先交渉権を受けた近畿産業信用組合(青木定雄会長、元エムケイ (タクシー会社)会長)は2007年から普通銀行への転換を目指していることを明らかにしている[184]。
1982年に韓信協の当時会員であった信用組合が母体となり在日韓国人が本国韓国に設立した韓国初の純民間資本銀行である新韓銀行は[185][186]、新韓銀行東京・大阪・福岡支店を譲り受けて2009年、日本法人SBJ銀行の営業を開始した[187]。貸出金の大半は娯楽業や不動産賃貸業を中心とした中小企業向けであり、預金、貸出ともに商銀系信用組合が圧倒的シェアを持つ在日韓国人・企業マーケットで競合している[185]。保有有価証券は調達・運用ともドル建てで行われており、為替リスクは回避されている。
在日韓国・朝鮮商工人に関する調査
1982年に行われた東京在住の在日韓国青年商工人を対象に経営している業種、従業員の数、企業規模、企業承継の問題、企業の継続性、韓国への投資に関する意見および今後の計画などに対する質問調査では、在京企業家は30代以上が多く、飲食、パチンコ、金融・不動産等主にサービス業に従事するというケースが多かった。また、他業種と兼業する場合は少なく、年間売上額が1億円未満の零細自営業を運営する企業家が多かった。また自身で起業した例は65.5%、両親からの承継が27.6%であった[188]。また、1982年に在日韓国商工人1,103人を対象に行われた同様な調査でも全般的な調査結果は同じであったが、経営上の問題として、人材不足、利益減少、税金問題等が指摘された[189]。
1,059社の企業家を対象として2004年11月から2005年2月まで行った調査では、郵送調査により62人(回収率5.9%)、面接調査は72人の企業家から回答があり合計128人の在日韓国朝鮮人企業家を対象に量的・質的分析が行われた[190][191]。この中で、在日韓国朝鮮人企業は小・中規模零細企業が多いと考えられるが、従業員が1,000人以上の企業も存在していること、企業家の最終学歴は、中学・高校(25.8%)、専門大学(6.2%)、大学・大学院(64.9%)、その他無学(3.1%)であり、教育水準は低いという既存の研究結果と異なり、高学歴化が進みつつあることがわかり、業種別分布では、パチンコ産業(23.4%)、不動産・金融業(21.9%)、飲食・宿泊業(16.4%)が上位3業種となったが、3世の場合、知識産業職種が多く見られる。経営活動上の問題点としては、過当競争が最も大きな問題であるとされた。金融機関の利用状況は、民団と総連系の銀行が倒産したため、日本の銀行の利用率が9割以上に上った。また、韓国への投資については、14.8%だけが投資経験があると答え、投資の成果については63.1%が満足しており、韓国への将来的な投資の可能性に関しては21.1%だけが関心があるとした。一方、失敗の原因や関心の低い理由として、家族や親戚への頼りすぎ、詐欺、あるいは同業者からの裏切り、約束に対する概念や信頼関係をとても大事する日本人との差、情報不足を挙げた。また、世界韓商大会[192]のような世界韓商ネットワークの構築は、積極的に、あるいは状況を見て参加したい、が86.3%だが、日本だけに限定されたビジネスであるパチンコ業者の中には、必要性を感じないと指摘する者もいた。全体的に在日韓国朝鮮人企業家の意識が日本人化してきており、世界韓商ネットワークを祖国への投資機会としてではなく世界進出への足がかりにしたいとの期待が読み取れる。
朝鮮新報は2001年から商工連合会経済研究室編集による「同胞経済研究」を発行している(同サイトからは2002年冬・第7号までの発行が確認できる)[193]。
在日韓国・朝鮮人の文化
在日朝鮮人文学
在日朝鮮人文学は日本へ渡った朝鮮人によって書かれた文学作品の総称であり、主に明治以降の文学に対して用いられる。
在日朝鮮語
現時点で在日韓国・朝鮮人永住者によって話される言語は主に日本語であり、朝鮮語を話すものは少数派である。母語が日本語である日本で生まれ育った世代は、朝鮮語を学ぶにしても第二言語として学ぶことになり、彼らの使う朝鮮語は日本語の影響を受け、朝鮮半島のそれとは大きな差異を有する独特の在日朝鮮語が生まれた。
葬儀
1970年代までは遺体を飛行機で韓国に運び土葬するケースも多かったが、最近は、日本式に葬儀を行い日本で火葬し日本での埋葬がほとんどである[194][195][196]。一方、世代を重ねるにつれ自分の本貫を知らない若者が増え、故人の本貫を書いて柩にかける赤色の布(幟)、亡くなった方が着る寿衣、遺族の着用する伝統的衣裳や、出棺時の料理を乗せたサンという供養膳、故人の仮の住まいとして部屋の一角に設けられた殯所などに対する葬儀文化の継承が危ぶまれている。また、経済的理由、親や祖父母の時代に逆のぼってまでの付き合いをしたくないというしがらみへの忌避などから家族葬が増えている。このような在日社会の流れの中で民団神奈川県本部は1998年から冠婚葬祭事業「無窮花サービス」を立ち上げ、民族的要素を取り入れながら時代に沿った葬儀サポートを行っており[197][198]、「団費を取られるだけで、なにもしてくれないと思っていた」と言われる民団活動の見直しにつながっている[199]。朝鮮総連でも同様のサービス「同胞生活相談綜合センター」を本部、支部ごとに設けている[200]。また、日本国内には曹溪宗などの韓国仏教寺院も建立されている[201]。
ホルモン焼き、焼肉
ホルモン焼き、焼肉を始めたのは朝鮮人という説がある[161][202]。
- 戦前に捨てるか肥料にするかしていた臓物肉を朝鮮人女工がもらってきて焼いて食べたのがホルモン焼きの始まりで、ホルモンを焼いて食べる習慣は朝鮮にはなく、ホルモン焼きは日本で始まった。戦後、ホルモン焼きの屋台が「ホルモン屋」や「朝鮮料理屋」という名称になって行く中、臓物だけでなく精肉を用いる店ができ、在日朝鮮人女性が経営する明月館が焼肉の祖とする。
- 「焼肉」という呼称は、1965年の日韓基本条約以降、韓国籍を取得する者が増え、在日朝鮮人の主張した朝鮮料理屋と在日韓国人の主張した韓国料理屋との呼称論争を収拾する案としてプルコギを直訳した「焼肉」が用いられたとする。この他に、焼肉のたれもヤンニョム(薬念)の影響が見られる(1968年エバラ食品から発売された商品名は「焼肉のたれ・朝鮮風」[203])。焼肉業界は長らく在日韓国朝鮮人の民族産業であると認識されてきた。
各地のコミュニティー・コリアンタウン
この節の加筆が望まれています。 |
人口分布は、首都圏・中京圏・京阪神圏の3大都市圏に集中するが、特に多いのは大阪府と東京都である。また、日本各地にコリアンタウンが形成されている。一般的に関西に集中しているというイメージが先行しているものの、関西2府5県の在日韓国・朝鮮人人口と関東1都6県ではその差はそれほど大きくない。
都道府県別在日韓国・朝鮮人人口
都道府県 | 2010年末 |
---|---|
大阪府 | 126,511 |
東京都 | 112,881 |
兵庫県 | 51,991 |
愛知県 | 39,502 |
神奈川県 | 33,541 |
京都府 | 31,550 |
埼玉県 | 19,473 |
福岡県 | 18,755 |
千葉県 | 18,395 |
広島県 | 10,532 |
山口県 | 7,577 |
岡山県 | 6,565 |
静岡県 | 6,335 |
三重県 | 5,948 |
滋賀県 | 5,821 |
茨城県 | 5,780 |
岐阜県 | 5,411 |
北海道 | 5,359 |
奈良県 | 4,587 |
長野県 | 4,577 |
宮城県 | 4,407 |
福井県 | 3,248 |
栃木県 | 3,100 |
群馬県 | 3,006 |
和歌山県 | 2,768 |
大分県 | 2,678 |
山梨県 | 2,428 |
新潟県 | 2,212 |
山形県 | 2,048 |
福島県 | 1,994 |
石川県 | 1,962 |
愛媛県 | 1,505 |
富山県 | 1,314 |
長崎県 | 1,291 |
鳥取県 | 1,277 |
熊本県 | 1,136 |
岩手県 | 1,105 |
青森県 | 1,039 |
香川県 | 1,008 |
佐賀県 | 870 |
島根県 | 842 |
秋田県 | 772 |
沖縄県 | 714 |
高知県 | 654 |
宮崎県 | 645 |
鹿児島県 | 559 |
徳島県 | 381 |
合計 | 565,989 |
- 出典・・・[6]
著名な在日韓国・朝鮮人
在日韓国・朝鮮人を取り巻く諸論点
国政への関与
日本国では外国人による日本国政治家への献金は公職選挙法第二十二条の五によって禁じているが、菅直人内閣総理大臣[204][205]や前原誠司外務大臣などに対して在日韓国人から長年にわたって献金が行われていることが明るみとなり問題が顕在化している。
徴用・強制連行と渡航
在日韓国・朝鮮人が日本に移入してきたのは、「戦前または戦時下の日本政府による徴用/強制連行」によると語るものがいるが、同認識は漠然としたイメージによる流布が蔓延ったもので、現在における日韓関係の外交において歪曲された歴史認識の上での発言がなされるものとなり、在日朝鮮人に関する政策に大きな弊害を生じさせている。朝鮮人徴用者の日本移入は1944年9月から1945年3月までの期間実施された[12]。1946年3月までに在日朝鮮人のうち140万人の帰還希望者が日本政府の手配などにより朝鮮に帰還している[12]。日本政府は朝鮮人の帰還を訴えていたが[97]、占領下では占領軍が送還を徹底しなかったこと、主権回復後は韓国政府が朝鮮人の送還を拒んでいる[206]。
1959年に発表された日本政府による調査では、245人の徴用労務者を除く在日朝鮮人は犯罪者を除き自由意思で残留した者とその子孫であることを明らかにしている[12]。1990年代に入って朝鮮人被害者への戦後補償問題が日本国内で国民的論争課題になると、「徴用/強制連行」に関してもさまざまな角度から議論がなされた。このことは、在日韓国・朝鮮人団体である在日本大韓民国民団の子団体、在日本大韓民国青年会の中央本部が、在日1世世代に対する聞き取り調査の結果をまとめ1988年に刊行した『アボジ聞かせて あの日のことを -- 我々の歴史を取り戻す運動報告書 -- 』にも、渡日理由のアンケート結果として、「徴兵・徴用13.3%」と明記されており、「その他20.2%」、「不明0.2%」を除いたとしても「経済的理由39.6%」「結婚・親族との同居17.3%」「留学9.5%」と65%以上が自らの意思で渡航してきたことがわかる[207]。尚、このアンケートは渡航時12歳未満だったものは含まれておらず、これを含めるとさらに徴兵・徴用による渡航者の割合は減ることになる。なお、2005年の日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府に対する補償申請者は、2006年3月の時点で在日韓国人からは39人に留まっている[14]。
自民党の高市早苗衆議院議員は2010年3月10日に行われた第174回国会衆議院外務委員会で、同議員からの資料請求に応じて外務省が提示した昭和三十五年(1960年)二月発行の『外務省発表集第十号』中の昭和34年(1959年)7月11日付の資料の中の以下の部分を当時の日本政府の見解として紹介した[13][208][209][210]。
「第二次大戦中内地に渡来した朝鮮人、したがつてまた、現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるというような誤解や中傷が世間の一部に行われているが、右は事実に反する。実情は次のとおりである。一九三九年末現在日本内地に居住していた朝鮮人の総数は約一〇〇万人であつたが、一九四五年終戦直前にはその数は約二〇〇万人に達していた。そして、この間に増加した約一〇〇万人のうち、約七〇万人は自から内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加によるのであり、残りの三〇万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したものであり、国民徴用令により導入されたいわゆる徴用労務者の数はごく少部分である。しかしてかれらに対しては、当時、所定の賃金等が支払われている。」
「元来国民徴用令は朝鮮人のみに限らず、日本国民全般を対象としたものであり、日本内地ではすでに一九三九年七月に施行されたが、朝鮮への適用は、できる限り差し控え、ようやく一九四四年九月に至つて、はじめて、朝鮮から内地へ送り出される労務者について実施された。かくていわゆる朝鮮人徴用労務者が導入されたのは一九四四年九月から一九四五年三月までの短期間であつた。」
また、1945年3月以降は、日朝を往復する便が途絶していたことも紹介、戦後の在日朝鮮人の本国帰還と日本に在留した者にについては、
「終戦後、在日朝鮮人の約七五%が朝鮮に引揚げたが、その帰還状況を段階的にみると次のとおりである。まず一九四五年八月から一九四六年三月までの間に、帰国を希望する朝鮮人は、日本政府の配船によつて、約九〇万人、個別的引揚げで約五〇万人合計約一四〇万人が朝鮮へ引揚げた。右引揚げにあたつては、復員軍人、軍属および動員労務者等は特に優先的便宜が与えられた。ついで日本政府は連合国最高司令官の指令に基づき一九四六年三月には残留朝鮮人全員約六五万人について帰還希望者の有無を調査し、その結果、帰還希望者は約五〇万人ということであつたが、実際に朝鮮へ引揚げたものはその約一六%、約八万人にすぎず、残余のものは自から日本に残る途をえらんだ。」
「こうして朝鮮へ引揚げずに、自からの意思で日本に残つたものの大部分は早くから日本に来住して生活基盤を築いていた者であつた。戦時中に渡来した労務者や復員軍人、軍属などは日本内地になじみが少ないだけに、終戦後日本に残つたものは極めて少数である。すなわち現在登録されている在日朝鮮人の総数は約六一万であるが、最近、関係省の当局において、外国人登録票について、いちいち渡来の事情を調査した結果、右のうち戦時中に徴用労務者としてきたものは二四五人にすぎないことが明らかとなつた。そして、前述のとおり、終戦後、日本政府としては帰国を希望する朝鮮人には常時帰国の途を開き、現に帰国した者が多数ある次第であつて、現在日本に居住している者は、前記二四五人を含みみな自分の自由意志によつて日本に留つた者また日本生れのものである。したがつて現在日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き一名もない。」
とされていることを紹介し、原口一博総務大臣が、2010年1月14日に日本外国特派員協会で語ったように強制連行論を日本における外国人参政権付与の根拠とすることに異議を唱え、当時、帰国できなかったが今なお帰国を希望する者には、日本の参政権を付与するよりは帰国支援を行うのが筋であるとの意見を述べた。合わせて岡田克也外務大臣に、その後日本政府として調査内容や見解に変更があったならば報告するよう要請した[211]。
呉善花と崔吉城は共著の中で、「在日の人たちにしても、植民地時代も自分の意志で積極的にきた人のほうがずっと多いんじゃないですか。強制連行で連れてこられた人たちはほとんど帰ってしまったわけですから」「そこはいいポイントです。事実はまさしくその通りなんです。ところが、そうであるにもかかわらず、意識としてはそうじゃなくなっているんです。自分も植民地のときに強制的につれてこられたのだと、これはアイデンティティとしてそうなってしまっているんです」「なるほど、意識と実際は違うということですね」「実際は強制されてきたのではなくても、我々は強制されてきたんだという、そういう物語をつくってそれを自分の意識としてもつんです。ここが在日韓国・朝鮮人を考える場合のかなり大きなポイントです。(中略)それで一世たちはそういう物語を二世、三世に懸命に教えるんです」「民族意識を守り、それを子孫に伝えるためです」と指摘している[212]。
名越二荒之助は、朝鮮人学校で父母の来日動機を調査したところ朝鮮では食えないから渡航して来たという回答がほとんどで、強制連行と答えたのは一人しかいなかったという報告があるが(田端元「好太王から朝鮮滅亡後まで」十六)、徴用された朝鮮人は、終戦と同時にほとんど帰国しており今日在日朝鮮人が、自分たちの父母は強制連行されたと言い立てるのは、他に目的あってのことと考えざるを得ない、と述べている[213]。
差別問題を研究している千葉県人権問題懇話会座長の福岡安則埼玉大学教授は、若い世代を中心に150名余りの在日韓国・朝鮮人からの聞き取りを実施したが、自分の親もしくは祖父が強制連行で日本に連れてこられたという人には一人も出会わなかったという。福岡は、調査結果から文字どおりの強制連行で日本に連れてこられた人達の大部分は母国に帰り、それ以前に仕事を求めて渡日してきた人たちが中心になって日本に残留した、という一般的傾向が認められると指摘している[214]。
若槻泰雄玉川大学教授は、1974年の法務省編「在留外国人統計」(昭和20年9月1日以前の日本上陸者の内8万3030人の調査)によると、在日韓国・朝鮮人は日本政府が朝鮮人の来日を取締まっていた1935年までに渡航したものが53.7%であり、国民徴用令に基づく徴用は1944年の9月以降の4ヵ月間であるため、1210人(1.46%)と算出し、その後、1945年9月1日までに渡航したの679名(0.8%)を合わせた概算1889人(2.3%)だけが、真強制連行に該当するとしている。また、徴用ではなく、1942年2月から1944年8月にかけて行われた官僚による職のあっせんによって渡航したものを徴用者と合わせても約1万1300人余(14%)であるとしている。在日本大韓民国民団自身による『アボジ聞かせて あの日のことを -- 我々の歴史を取り戻す運動報告書 -- 』(在日本大韓民国青年会中央本部、1988年2月)による在日1世1100名を対象とした調査結果では、経済 的理由39.6%、結婚・親族との同居17.3%、徴兵・徴用は13.3%(徴兵はこのうち0.5%)としている。さらに、民団発行の「法的地位に関する論文集」(1987)にも「1世の大半が1930年代初期に渡航して永住するに至った経緯からすると……」と、みずから、徴用による渡来が僅少であることを認めており、このことは理屈の上から考えても当然であり、着のみ着のまま徴集され、人里離れた炭坑や鉱山で虐待酷使されていた者が、日本に残ろうと考えることは想像しがたく、徴用された人々の大部分は終戦直後早々に、日本から故郷へと飛ぶようにして帰ったのとみられる、と在日韓国・朝鮮人と徴用・強制連行を論証している[215]。
鄭大均首都大学東京教授によると、在日本大韓民国青年会による聞き書き『アボジ聞かせて あの日のことを -- 我々の歴史を取り戻す運動報告書 -- 』に、在日一世が「『自分の意思』で渡日したという証言」がたくさん見られ、全部で千百六ある証言のうち、強制連行に関係するかもしれないと考えられるのは、六十四しか存在せず、しかも、強制連行の証拠となるような「借り集めの方法の暴力性や強制性を示唆するもの」はなかったという[216]。
野村旗守と鄭大均によると、1965年に朴慶植が『朝鮮人強制連行の記録』が刊行され[217]、1980年代にこの本がメジャーとなり、強制連行という言葉が大衆化したという。『朝鮮人強制連行の記録』は、強制連行という概念を補強するために集められたはずの証言が、その意図に反して「出稼ぎ渡日説」の傍証となっているという。例えば、1910年代から日本に渡ってきた朝鮮人は、「たいてい『土地調査』で土地をなくした人である」という。あわせて「・・・大部分の土地は取られてしまったので、兄と一緒に百姓も出来なかった。15歳のときに出稼ぎにいった」という証言が紹介され、出稼ぎのための渡日が多かったことが傍証されている。1930年代の渡日理由の集計も掲載され、ほとんどが「生活難」「出稼ぎ求職」「労働」「金儲け」などで、このうち、「労働」が強制連行にあたるか詳しく本文を読むものの、それらしき記述は存在せず、逆に、「・・・日本渡航を抑制する策がとられたにもかかわらず実際には侵略戦争の深化とともに朝鮮人労働力は軍需産業の拡張につれてより要求されるようになり、渡航数は増加していった」と書かれており、本土で人手不足になったため、朝鮮半島からの出稼ぎが絶えなかった事が裏付けられている。この他にも「・・・日本でも満州でも、どこでも、今の苦しい環境から逃れたい、ただそれのみが念願のようになった」といった証言などがあり、朝鮮という封建的な土地のしがらみから逃れるために渡日してきた事情が察せられる。さらに、『朝鮮人強制連行の記録』では、初歩的なゴマカシが行われており、「どこの馬の骨か分からないような数字」を使い、「不確かな統計数字の洗滌」を行っているという[218][216]。
野村進拓殖大学教授は、著書『コリアン世界の旅』で密入国の背景を説明している。アメリカ軍統治下の済州島では、日本統治時代には禁止されていた買占めや売り惜しみが横行するなどしたため、日本から帰国した朝鮮人が1946年から急増したこと。1948年からの済州島4・3事件時に日本に密入国しており、その当時密入国したものから、『済州島(出身者)だけじゃなく、在日の半分以上は、密航で来たんだと思うんですよ』との証言を得たことを明らかにしている。また、戦前から徴用以外にも密航して働いていたものがいたことも報告している。そして、「強制連行された朝鮮人のほとんどは、戦後まもなく日本政府の計画送還で帰国していること。在日一世の大半は、戦前から日本に住み続けているか、戦後密航で来たかのどちらかであるということ。これらは研究者のあいだでは、すでに定説となっているのだが、日本人一般には正反対の言説が『事実』であるかのように漠然と信じ込まれてきた。その最大の原因は日本のマスコミの認識不足だが、在日の特に知識人が往々にして『私たちは無理やり連れてこられた』といった言い方をしてきたことにも一因がある[219]」と記している。
通名
在日朝鮮人には、日本式の姓名、「通名(通称名)」を名乗って朝鮮半島系であることを隠す人々が多く存在し、新聞・TV等のマスコミ報道においては、各社の方針によって通名での報道がなされる場合が多々存在する。このことは事実報道に反しているとともに犯罪者にあっては本名隠匿による過擁護と通名の変更による再犯の要因になり得ているとの批評がある[要出典]。
但し近年では、民族としてのアイデンティティーを取り戻す意味で、朝鮮式の姓名を名乗る者が徐々に増えてきている。これには在日韓国・朝鮮人たちによる啓蒙活動に加えて、韓国の近年における経済発展によって日本での韓国の評価が上昇してきたことや、日本と韓国の文化交流が拡大発展を続けていることも無縁ではないと思われる。2009年の事例では、弾道ミサイルの発射台に転用できるトレーラーを日本から北朝鮮に不正輸出した容疑者が逮捕された北朝鮮タンクローリー不正輸出事件の報道で確認することができる。在日本大韓民国民団の発表では、韓国・朝鮮式の本名で暮らす人は全体では1割強にとどまり、3人に1人は「状況により使い分ける」としていることを明らかにした[220]。
社会保障問題
在日韓国・朝鮮人に対する社会保障についても、多くの議論がある。
外国人の生活保護受給者に、生活保護にかかる行政行為等の行政処分についての異議申立権(審査請求及び再審査請求権)を認めなかったとしても、当該外国人の法的利益が侵害されたとはいえないが、先進国の中で、永住権を持つ場合においてははほとんどの国が外国籍の者に生活保護および社会保障を国籍保有者と区別をつけずにを支給する[要出典]。1950年には長田区役所襲撃事件、1951年には下里村役場集団恐喝事件、1952年には万来町事件などの生活保護費の受給もしくは増額を要求する行政機関への騒乱事件が引き起こされている。1952年には、ウトロ地区を始めとする各地での行政への脅迫による生活保護費の受給が国会で問題とされた[80]。
ある観点では、生活保護の受給対象者とすることへの異議、また認定の方法・基準への異議が出されている。例えば、在日韓国・朝鮮人の生活保護受給率が日本人より多いことから、これを不当であると考え、日本国による生活保護負担を強調する論調がある。日本国憲法第25条第1項では「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定され、1950年以降の生活保護法第一条では「この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする」と「国民」との用語が加えられ[221]、生活保護法による権利保障は日本国民に限定されている。大分地方裁判所は「憲法の要請する社会権の保障は、国家による国民の保護の義務を本来の形態とするため、外国人を保護する義務はその国籍国にある」とする判決を出した[222][223]。また1965年6月の日韓基本条約批准書交換に際し、朴正煕韓国大統領も在日同胞の苦労の原因を韓国政府の責任と認め、韓国政府による在日同胞の安全と自由についてより積極的に努力し可能な最大限の保護を行うことを約束した[115]。
外国人への生活保護の実施については、1954年(昭和29年)5月8日付社初第382号厚生省社会局長通知により生活保護法を準用して保護を実施するとされ、さらに1990年(平成2年)年の口頭指示により、その準用の対象を日本に適法に滞在し活動に制限を受けない永住、定住等の在留資格を有する者としている[224]。この通知に基づく保護は地方公共団体の裁量により実施され、行政側から外国人に対する贈与の性質をもつものであるとされる[222][223]。
2008年度には、日本政府は1ヶ月平均で32,156世帯(年延べ385,870世帯)、51,441人(年延べ617,297人)の外国籍者に生活保護を支給している[225]。また、2008年時点で生活保護を受けている外国人30,955人の内、韓国・朝鮮籍が23,232人で1位、中国籍は2,842人で2位となっており、在日韓国・朝鮮人の3.9%、在日中国人の0.4%が受給している計算にとなり、在日韓国・朝鮮人の受給率は日本全体の生活保護受給率1.2%の3倍以上となっている[226]。このうち、例えば大阪市では2010年、外国人の受給者がはじめて1万人を突破、そのほとんどが高齢化した在日韓国・朝鮮人の無年金世代であることがわかり問題となっている[227]。また、40年間年金保険料を納めた場合の老齢基礎年金は月額約6万6千円、25年間納付では約4万1千円であるのに対し、65歳の生活保護受給者では住宅扶助も含めて月額12万1530円となるなど、外国人の無年金者が日本人の国民年金加入者よりも多額の受給を受ける逆転現象も問題になっている[227]。
子ども手当
2010年、韓国人が養子縁組した子供554人分の子ども手当をタイ政府発行の証明書を提出して申請したが、厚生労働省は不許可とする指導を行っている[228]。
在日韓国・朝鮮人無年金問題
1981年、日本の難民条約批准を受けて1982年、国民年金法から国籍要件を撤廃するなどの法整備が行われ在日韓国・朝鮮人も日本の国民年金に加入することができるようになった。さらに1986年の制度改正により国民年金受給に必要であった60歳までの最低25年間の加入期間を、平和条約国籍離脱者は20歳以上60歳未満のうち1961年4月から1981年12月まで在日していた期間も遡って老齢基礎年金の加入期間(通称「カラ期間」)として追加されることになった[121][123]。
一方、1986年以降の「カラ期間」による救済措置後も加入率は低水準で推移し、年々無年金者が増えている。2004年(平成16年)に大阪府立大学などが行った70歳以上の在日韓国・朝鮮人300人を対象にした生活実態調査によると、1926年(大正15年)以前に出生し1986年に既に60歳を超えており加入資格を満たすことができなかった人は116人、救済対象だった139人も大半が加入しておらず、救済措置の告知不足や低い受給額への不満などに加え、将来帰国することを考え加入しなかったケースもあるとみられている[227]。日本にも本国にも年金保険料を支払っていないなど「確信犯的に年金に加入しなかったケースは、一義的には本人の責任だ」とする意見や、2国間で年金の加入期間を相互に通算できる社会保障協定を結んでこなかった政府を批判する意見もある。
日韓の間では2004年にようやく「社会保障に関する日本国と大韓民国との間の協定」(日韓社会保障協定)が締結されたが[229]、韓国の国民年金制度(1988年創設、1999年から皆保険[230])は施行から歴史が浅く平均加入期間が短いことから、当分の間日本の最低加入期間25年の受給要件を満たすことは困難であり、韓国は協定に年金加入期間の通算措置を設けない立場を強く主張、その結果日英協定と同様に年金加入期間の相互通算措置を取り入れず二重加入防止に限定した協定を締結している[231]。
他方、救済措置から外れた者や、また告知も不十分であったとして、一部の在日韓国・朝鮮人により訴訟がおこされたが、国民年金が当初日本人だけを対象としていたことについては、「立法府の裁量権の範囲内で、憲法や国際人権規約に反するとは言えない」とする1、2審判決が2009年に最高裁で確定するなど、2010年現在、在日側の敗訴が続いている[123][124]。
現在、日本政府は「年金など社会保障の責任は国籍の属する本国が行うべき」という立場から、年金を払い込んでいなかった在日韓国・朝鮮人に対して年金支給を行っていない。この日本政府の見解に対して「海外在住の日本人に日本政府は年金を支払っていない」と糾弾し、在日韓国・朝鮮人に対しても年金を支給するように要求している[232](日米のように社会保障協定がある場合、年金加入者はそれぞれの国の加入期間に応じてそれぞれの国から支給される[233]。日本の年金については現況届を提出すれば金融機関に振り込まれる)。「日本国籍を有する者で海外に居住する20歳以上65歳未満の者」は日本の国民年金に任意加入することができる。いくつかの地方自治体では法律上年金に加入できなかった在日外国人について福祉給付金を支給する制度を設けている。また、生活保護を受給し(65歳の生活保護受給者では住宅扶助も含めて月額12万1530円)国民年金加入者よりも多額の受給を得ている在日韓国・朝鮮人の無年金者もかなりの数に上る(詳細は#社会保障問題参照)。
所在不明高齢者
2010年から大きく取り上げられた高齢者所在不明問題では、2010年8月15日の時点で100歳以上の所在不明高齢外国人は35人であり[234][235]、全員が韓国・朝鮮籍とみられている[235]。これについては、再入国許可を得て日本から出国し故郷で死去したケースも多いのではないかとされる[235]。
在日韓国・朝鮮人の参政権
在日韓国人・朝鮮人には二つの参政権論争が存在する。韓国および北朝鮮における本国参政権と、日本における地方参政権である。韓国人は本国在外選挙権を、北朝鮮人は在外選挙権・被選挙権双方を有する。
韓国においては、兵役、納税義務などが免除される在外国民に住民登録要件不備を理由に参政権を与えないことの違憲性についての議論が行われてきた[236] 。本国参政権のみの獲得を目指す在日以外の在外韓国人社会と違い、在日韓国社会は日本での地方参政権の獲得も目指している。日本国内においては地方参政権獲得の議論が盛んであることに対して、本国参政権についての議論はあまり活発ではなく、欧米の在外韓国人の一部は、本国参政権獲得議論に消極的な在日社会を指して「在日韓国人はどうしてアクションを起こさないのか。民団の消極的姿勢は、参政権付与反対と言っているに等しい」と、非難する声も見られた[137]。
一方朝鮮総連は、日本の外国人参政権は日本政府による同化政策に繋がるものだとして外国人参政権の付与に反対している。また、民団中央の反民族策動を暴露糾弾し、「地方参政権獲得ごっこ」を徹底的に排撃する政治工作に注力するよう指示しているとされる[237]。
在日韓国人の本国参政権
韓国における在外投票権の対象は、短期滞留者だけに限るか、永住権保有者までを含むようにすべきかで論争があった[137]。これは韓国民短期滞留者はたまたま海外に在住している自国民であり、国民の権利として不在者投票権を要求することに国民的合意が得られやすいことに対し、永住権保有者は、兵役、納税義務などが免除されており、住民登録要件不備を理由に参政権を付与することには慎重だった(在日永住権者は35歳まで徴兵が延期され、36歳になると兵役の義務はなくなる。1962年10月、「在外国民の兵役免除」の項目が兵役法に法律第1163として追加された)。 一方、大韓民国憲法#第二章 国民の権利および義務第24条は「すべての国民は選挙権を持つ」としており、これに準拠して永住権保有者にも参政権を保障するべきとの議論が続いていた。
これに対し、韓国憲法裁判所は2007年5月、海外の駐在員や留学生はもちろん、外国での永住権者も韓国の国籍を持ってさえいれば、韓国国内に住民登録がなくても選挙権と国民投票権を与えるべきという決定を下し、1999年3月の決定を覆した[238][239]。また、憲法裁判所は2008年12月31日までに国会で必要な法改正を行うよう命じた。この決定の理由として「情報通信技術の発達」や「経済力の伸張」など10項目を挙げた。また、納税や国防の義務が免除されていることを問題とする考えについても、大韓民国憲法は参政権や平等権などの国民の基本権行使を、納税と国防の義務に対する反対給付として想定していない上、在外国民であっても兵役の義務を果たすことができ、また兵役が義務付けられていない女性も投票権を有しているとする原告の訴えを認めこれを退けた。
これらの動きを受けて、海外短期滞留者をモデルとした不在者投票の準備作業が行われた[240]。2006年12月には外交通商部と共同で50以上の海外公館で模擬投票を実施し、参加者の80%は「投票権を行使する」と回答した。この場合、実際の日本地域の短期滞留者は82000人になり、そのうち21000人が投票すると推算された。
与野党とも在外韓国人に参政権を付与する方向では一致しており、2007年2月末までに中央選挙管理委員会や与野党から5つの選挙法改正案が韓国国会に上程された。しかし、在外投票の導入方法をめぐって紛糾し、当初目指していた2007年の大統領選挙からの在外投票導入は困難となった。海外永住者は一般的に保守傾向が強いとされており、これを取り込みたい保守派であるハンナラ党と、若年層にも支持基盤を持ち留学生や、外交官などの一時滞留者たちを取り込みたいウリ党の党争によるものと指摘された[241][242]。
2009年2月の韓国国会は法案を可決して2012年の国政選挙から投票できる見通しとなったが、祖国での参政権に対する在日社会の関心は低く、そのメリットを知ってもらおうと、原告団(李健雨)を起源とした兵庫と大阪の在日韓国人で「在日韓国人本国参政権連絡準備会」を設立しPR活動を行っている[243][244]。
また、海外に主な居住地を定めていても韓国内の居住地を法務部に登録していれば投票できるように法改正されたため、2010年6月2日の第5回韓国全国同時地方選挙では、在日韓国人1世も含む「母国に住む在日韓国人」も、一足早く生まれて初めて祖国での選挙を体験した[245]。
2010年11月には模擬選挙が予定されており、永住者は比例代表選挙に限られているが、韓国の住民登録番号があるか、韓国国内の居所申告があれば地方区選挙にも投票できる[246]。
朝鮮籍および、北朝鮮籍朝鮮人の本国参政権
朝鮮籍の17歳以上の在日朝鮮人公民は海外にいる者も北朝鮮国政への選挙権、被選挙権ともに有しているため[247]、2009年3月の北朝鮮最高人民会議代議員選挙では、在日朝鮮人からは徐萬述朝鮮総聯中央本部議長をはじめとする朝鮮総連幹部や朝鮮大学校校長などの6名が代議員(国会議員)に選出されている[248]。
地方参政権問題
在日本大韓民国民団は、2009年8月30日投票の第45回衆議院議員総選挙から外国人参政権付与を掲げている候補者を支援しており、集会を通じて、民団の構成員に選挙への支援を指導している[249][250][251][252][253]。一方、朝鮮総連では在日朝鮮人はれっきとした独立国である北朝鮮の海外公民であるので、民団の外国人参政権獲得運動は韓国政府の棄民政策や、日本政府による同化政策に追随するものだとしてこれに反対している[129]。
李鍾元立教大学法学部教授は、日本の右傾化に対処する方法の一つとして、在日韓国人の地方参政権獲得とともに日本社会を内側から変化させる方法を指摘し[254]、韓国が先に永住外国人に地方参政権を付与した措置[255]を高く評価した。
在日韓国人地方参政権獲得運動の支援の一環として韓国で外国人参政権付与が行われるなど[256]、韓国においてもこの運動は支持されている。また、地方参政権問題は今まで抑圧されてきた在日韓国人同胞の恨をはらす契機とも見ることができ、日本政府の歴史問題解決への前向きの姿勢の表明として歓迎する意見もある[257]。
民団の主導による、在日韓国人に対する日本国の参政権付与を求める活動が活発になっており、地方参政権に反対する議員が多数派を占める地方議会に対しては「日韓親善協会との協力体制」や「地方議会で傍聴を行う」などの対応策が検討されている[258]。たとえば、千葉県市川市では、民団市川支部の組織的な「巻き返し工作」により、2010年1月29日の市議会総務委員会で可決されていた永住外国人への地方参政権の付与に反対する意見書を、翌20日の本会議で否決させることに成功した[259]。
遊技業界
本籍 | % |
韓国籍 | 50% |
朝鮮籍 | 30-40% |
日本籍 | 5% |
華僑 | 5% |
パチンコ産業に携わっている就業者の在日韓国・朝鮮人比率は他産業より高く、2007年12月27日の中央日報の記事によると、業界経営の90%ほどを在日韓国人と朝鮮総連系が掌握している[262][263]。ただし、パチンコ業界に占める在日韓国・朝鮮系の割合については諸説あり、2008年1月10日のハンギョレの記事ではパチンコ業界の6割が在日韓国・朝鮮系とされ[264]、また、別冊宝島『嫌韓流の真実』の野村旗守の記事によると、1949年に全国で5千店しかなかったホールが、3年後に4万店以上に激増し凄まじいブームが起き、はじめの頃は日本人経営者のほうが多かったが、「射幸心を煽る」との理由で業界に規制を受けてから、日本人業者の多くが撤退してしまい、規制後は7割を在日が占めるようになり、この比率は現在も変わっていないという。またパチンコ最大手のマルハンの韓昌祐会長は、2005年にテレビ番組のインタビューで、「現在日本にあるパチンコ店の約7割が在日韓国・朝鮮人による経営」という見解を示した[91]。民団傘下の「在日韓国商工会議所」では、所属する1万社のうち約7割がパチンコ業に係わっている[265]。パチンコ最大手のマルハンの創業者が元在日韓国人1世の韓昌祐であることからもパチンコ業界内の在日韓国・朝鮮人の立場の強さがうかがえる。このため「パチンコはその実体が賭博であるにもかかわらず賭博として規制されておらず、事業で生まれた収益が北朝鮮へ送金され独裁体制やミサイル・核開発を支えている」という指摘がある[266][267][268]。2008年、在日本大韓民国民団顧問のチョン・ドンファは、「朝鮮総連はパチンコ事業で資金を集めたが、民団はどのようにしたのか?」と記者に問われると「民団の主な事業もパチンコだ。朝鮮総連は収入の全てを組職化して北に送った。」と証言している[269]。ランド研究所上級経済顧問のチャールズ・ウォルフ・ジュニアによると、日本から北朝鮮への送金は年200億円以上で、その主な資金源はパチンコであり、30兆円産業から朝鮮人事業主が手にした純収入分の2%が合法、非合法を問わず送金されたとするとそれだけで200億円を超えると推定している[270][271]。また、日本国内では在日韓国人のパチンコ店経営者から菅直人内閣総理大臣への政治資金が提供されていることが明るみとなっている[204][205]。
ただし、『朝日新聞』2011年6月7日朝刊15面記事によると、90年代半ばに売り上げ30兆円・店舗数1万8000店は、2010年までに売り上げ20兆円・店舗数1万2000店の3分の2に激減しており、現在のパチンコ店経営者の国籍は、韓国が5割、日本が3割、中国・台湾が1割、朝鮮(北朝鮮)籍が1割で、パチンコ=北朝鮮というのは正しい批判ではないとしている。
韓国では賭博メダルチギ「海物語」の大流行とその弊害[272]、およびそれに関わる関連公職者の告発[273]が社会問題となった。
在日大韓民国民団は李明博韓国大統領にパチンコ産業への規制強化により、在日同胞への影響が出ているので小沢一郎に働きかけるようロビー活動を行い、李は小沢に取り組むよう求めた[274][275]。
外国人犯罪と在日韓国・朝鮮人
GHQ担当官として終戦直後の日本に駐留し、後にハーバード大学教授となったエドワード・ワグナーは論文[276]で、「戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。かれらは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。朝鮮人は、一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため、国内に非常な混乱をおこした」と記している[277]。
また、三代目山口組組長の田岡一雄は、「終戦当時、国内には強制連行された人を含めて朝鮮人、中国人は200万以上いたが、とくに兵庫に多く、昭和18年に13万5000人、47都道府県の7パーセント強を占め、大阪、東京につぐ3位という勢力をもっていた。(中略)彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。警官が駆けつけても手も足もでない。「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。さらにこれにくわえて一部の悪質な米兵の暴行も目にあまった。(中略)彼らの行為を見聞きするごとにわたしは怒りにふるえていた。彼らを制止し、阻止する者は一人としていないのだ。警察は無力化し、やくざは手をこまねいて目をそらす。いったい、だれが街を自衛すればいいのだ」と記している[278][277]。
詩人の金素雲は「日本人所有の家を借りたなら、家賃は一切払わなくてもよいというのが、その当時同胞の間では常識化していた風習だった。『お前らは国まで盗んでいったじゃないか。家賃ぐらい何だ!』――こちらにはこんな腹があったが、引っかけられた日本人の側では恨み骨髄にならざるを得なかった。家賃をもらうどころか5、6ヵ月分の家賃に当たる金を立退料という名目で払わなければならなかった。こんなとき、その仲介の役割を果たすのが、いうなれば叔父の職分だった。(同胞が集団居住する町には、こんなブローカーが必ず何人かいた)1、2年ただで住んでは立退料をせしめて家を空けてやることもあったが、時には引っ越した次の日に大家から立退料を取ってまた引っ越していく、そんな場合もあった。その立退料の半分ぐらいにあたる金が叔父のようなブローカーの懐に入ってくる」と述懐している。
日本赤十字社発行の『一部在日朝鮮人の帰国問題』には、「朝鮮人の場合は、今までとは打って変わり、戦勝国民となり、治外法権が認められた。それが彼等にとり、どんなに気持ち良かったかは想像に難くない。単に精神面においてのみならず物質面においても、彼らは日本人が住むに家なく、着るに衣なく、飢餓にあえいでいる最中、その特権を利用してあらゆるボロ儲けをすることが出来た」と記述している[279]。
フィクションではあるが「はだしのゲン」の中では朝鮮人が列車の中で、「四等国の日本人は朝鮮人に席を譲れ」と怒鳴るシーンがあり、台湾人の蔡焜燦も「列車内では日本人乗客に対し理不尽なまでに威張り散らし、一方で当時は戦勝国であった中華民国の軍人にはこびへつらう、朝鮮人の極端なまでの二面性」を描写している[280]。また、戦前と戦後直後の朝鮮人に対する虐待も描写されている。これらと同じ様な事象として、1945年末の直江津駅リンチ殺人事件がある。
第二次世界大戦後に朝鮮人による犯罪が増加したという現実があり、長く語り継がれている。直江津事件のほか、神戸市役所襲撃、生田警察署襲撃事件、七条警察署巡査殺害事件、名古屋少年匕首殺害事件、中津市朝鮮人一家殺害事件と在日朝鮮人による殺人や警官・軍人などへの襲撃事件が多発したため、これを事実と捉えたうえで、それが後々の日本人との間のわだかまりや先入観(「朝鮮人は恐い」などとして)を作り出し、日本人による差別・忌避・嫌悪感情の温床になったと主張する層が戦後一貫して存在している。浅草米兵暴行事件のように、一地区に多く住んでいる在日韓国・朝鮮人による集団犯罪も問題の根を深くしている。外国人全般の犯罪率および在日韓国・朝鮮人の犯罪率と、それらの解決方法については現在も問題視されている。
在日韓国・朝鮮人の強制退去、不法滞在
1965年、日韓基本条約締結に伴い締結された在日韓国人の法的地位(協定永住)について定めた日韓法的地位協定第三条は、以下の事由に該当しない限り日本国からの退去を強制されないとされた。
- 日本国において内乱罪又は外患誘致罪等により禁錮刑以上に処せられた者(付和随行者、執行猶予者は除く)。
- 本国において国交に関する罪および外国の元首、外交使節又はその公館に対する犯罪行為で禁錮刑以上が処せられ、日本国の外交上の重大な利益を害した者。
- 営利の目的をもつて麻薬及び向精神薬取締法等に違反して無期又は三年以上の懲役又は禁錮に処せられた者(執執行猶予者は除く)あるいは、三回以上刑に処せられた者。
- 日本国の法令に違反して無期又は七年をこえる懲役又は禁錮に処せられた者。
1991年、入管特例法により韓国人のみが対象となっていた協定永住が朝鮮籍、台湾籍の永住者も合わせて特別永住許可として一本化された。特別永住者は退去強制となる条件が他の外国人よりも限定される(入管特例法第9条)[281]。具体的条件は次のとおり。
- 内乱罪(付和随行を除く)、内乱予備罪、内乱陰謀罪、内乱等幇助罪で禁錮刑以上に処せられた者(執行猶予が付いた場合は除く)。
- 外患誘致罪、外患援助罪、かそれら未遂罪、予備罪、陰謀罪で禁錮刑以上に処せられた者(執行猶予が付いた場合は除く)。
- 外国国章損壊罪、私戦予備罪、私戦陰謀罪、中立命令違反罪で禁錮刑以上に処せられた者。
- 外国の元首、外交使節又はその公館に対しての犯罪で禁錮刑以上が処せられ、かつ法務大臣が(外務大臣と協議の上)日本の外交上の重大な利益が損なわれたと認定した者。
- 無期又は7年を超える懲役又は禁錮に処せられ、かつ法務大臣が日本の重大な利益が損ねられたと認定した者。
1970年代後半、日本で犯罪を犯した在日韓国人20人を韓国に強制退去させようとしたが、韓国政府は受け入れを拒否した[282]。 一方、法務省入国管理局によれば、1978年、初めて韓国・朝鮮籍2人が退去強制により送還され、その後1988年までにさらに17人が送還されたとの記録がある[283]。国交のない北朝鮮への送還は考えにくく、韓国に送還されていた可能性が高いという[283]。
2010年1月1日時点での韓国人不法滞在者数は21,660人(男7,796人、女13,864人)で全体(9万1778人)の23.6%であり、中国人(12,933人、14.1%)、フィリピン人(12,842人、14.0%)を抑えて1位となった[284]。このうちビザ免除プログラム等による短期滞在の後不法滞在者となった者は19,824人で全体の90%以上を占めた。2009年の韓国人上陸拒否者数は1,951人で2007年の3,565人、2008年の2,428人から減少した[285]。
暴力団と在日韓国・朝鮮人
カプランとデュブロによると、日本最大の広域暴力団である山口組の構成員のうち、約10%の者が在日朝鮮人であるという[286]。指定暴力団会津小鉄会四代目会長で在日韓国人だった高山登久太郎は「ヤクザの世界に占める在日韓国・朝鮮人は三割程度ではないか、しかし自分のところは約二割だ」と発言している[287]。元公安調査庁調査第二部長の菅沼光弘が、2006年10月19日に外国特派員協会で行った講演で、六代目山口組若頭の髙山清司から聞いた話として、暴力団構成員のうち6割が同和(被差別部落)、3割が在日韓国・朝鮮人、1割が同和でない日本人であり、右翼活動により収益を上げているという見解を示した[288]。暴力団系右翼団体の構成員である在日韓国・朝鮮人が実行犯として逮捕された事件では村井秀夫刺殺事件と石井紘基刺殺事件[要出典]が有名である。
元山口組顧問弁護士の山之内幸夫は「ヤクザには在日朝鮮人や同和地区出身者が多いのも事実である」「約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない」と述べた[289]。
警察庁発表による2008年(平成20年)の暴力団の人数は、構成員が約40,400人・準構成員が約42,200人・計約82,600人であり、22の指定暴力団の内、七代目酒梅組の金在鶴、極東会の曺圭化、松葉会の李春星、三代目福博会の金寅純、九州誠道会の朴植晩が代表者として紹介されている[290]。また2010年7月20日、東京都公安委員会は4,800人の構成員を擁する指定暴力団稲川会の代表者として辛炳圭を指定した[291]。
覚醒剤と在日韓国・朝鮮人
警察白書によれば、覚醒剤の密輸に在日韓国人が関与した事例が複数報告されている[292][293]。また、日本国内で流通する覚醒剤は北朝鮮・中国を仕出地とするものが大部分を占めており[294][295][296]、2001年に北朝鮮から日本への大規模密輸がおこなわれた際、在日韓国人が北朝鮮側との連絡役として関与した事例もある[297]。
在日韓国・朝鮮人の起こした反社会的暴動事件
在日韓国・朝鮮人が起こした暴動事件の一例。歴史上、行政機関への襲撃やテロ行為など、凶悪な犯罪を多数引き起こしている。
- 第1回生田警察署襲撃事件
- 第2回生田警察署襲撃事件
- 富坂警察署襲撃事件
- 長崎警察署襲撃事件
- 富山駅前派出所襲撃事件
- 尾花沢派出所襲撃事件
- 下里村役場集団恐喝事件
- 東成警察署襲撃事件
- 木造地区警察署襲撃事件
- 広島地裁暴動事件
- 高田派出所襲撃事件
- 奈良警察官宅襲撃事件
- 五所川原税務署襲撃事件
- 神奈川税務署員殉職事件
- 朝鮮総連RENK襲撃事件(1994年)
匿名口座と在日韓国・朝鮮人
在日韓国・朝鮮人には通名が認められているため、一部の銀行では通名での口座開設が可能である。そのため通名を変更後は事実上の匿名口座になり、これが在日韓国・朝鮮人による犯罪の温床となるケースがある。
2006年、最高裁判所は、朝銀に架空名義で口座を開設し脱税資金を預金していたパチンコ店経営の在日韓国・朝鮮人の男性に対し、脱税した資金41億8千万円を公的資金で穴埋めする判決を下した。これは、脱税資金の匿名口座の金を公的資金で補填するという異常な判決であり、在日韓国・朝鮮人の犯罪者(ただし脱税行為については時効が成立)に対し、公的資金で補填することに日本国民からの反発は極めて強い。遅延損害金6億7千万円も加算して支払っており、匿名口座で犯罪行為を行った者へ利子までつけて返金するという、極めて異常な判決は海外でも報道され、日本の司法制度の軟弱さが改めて世界中から注目されることとなった。[要出典]
民族団体を通じた在日韓国・朝鮮人への住民税減額措置
三重県旧上野市(現伊賀市)、桑名市、四日市市に合併前の旧楠町では条例などを制定しないまま一部の在日韓国・朝鮮人の住民税を半額程度に減額する特例措置を長年続けていた[298]。伊賀市は市民税と合わせて徴収する県民税も半額にしていた。遅くとも1960年代後半には始まっていたとみられ、伊賀市は税の公平性に反するとして2006年度でこの措置をやめた。桑名市も2008年度から是正する方針が示された。在日本大韓民国民団と在日本朝鮮人総聯合会に所属する在日韓国・朝鮮人のうち、税を窓口などで納付する普通徴収の人たちが対象になっていた。市が該当者分の納付書を民団と総連にまとめて送付し、それぞれの団体が取りまとめて納税していた。2006年度の対象者は伊賀市で約400人の在住者のうち個人事業主を中心に在日韓国人35人と在日朝鮮人18人[298]、桑名市では減額率は民団が6割、朝鮮総連が5割で、約990人の在住者のうち約250人を対象とし年間数千万円であったとされる[159][299]。
伊賀市の減額措置は、昭和30年代から40年代にかけ、市と地元の民団や朝鮮総聯との交渉で開始[300]、1980年代以前は、両団体支部を通じた在日韓国人らが窓口に来た際、一般職員ではなく係長級職員が直接受け付け、減額を行っていた。当時は納付しない人も多く、半額でも徴収したいとの上野市側の思惑もあったとされる[298]。桑名市では民団と朝鮮総連の桑名支部代表者らと話し合い、昭和45年ごろから市県民税を減税していた[159]。桑名市税務課では「減額の経緯は資料がなくわからないが、昭和四十年代に全国的に減税の動きがあったのでは」とコメントしている[159]。
伊賀市内の元在日韓国人が日本に帰化するのに伴い住民税が本来の額に上がるため相談を持ち掛け、これに応じた伊賀市の元総務部長がこれを利用して半分のままでいいから自分に渡すよう促し、2002年以降計約1800万円を受け取ったまま納付せずに着服していた疑いも発覚した。受け渡しの際、元総務部長は自作の預かり証を渡し、帰化した元在日韓国人は滞納状態だったが、数年間にわたり「督促しなくてよい」と職員に指示していた。
この事件に対し、「他国籍の在住外国人も大勢いるなか、不適切な優遇」といった批判が市民の間から出た。伊賀市側は在日韓国・朝鮮人に対する戦争補償の一環や戦後期の所得格差の解消などを理由に容認していたと述べた[301]。また他町村との合併協議の中で減免措置に対する疑問が提示され、民団、総聯との協議の結果、2005年11月に翌2006年度で全廃することで合意した。民団三重県伊賀支部支団長によると、この減額措置を2004年に支団長になって知り、「参政権などを求めるうえで日本人と違うのは不公平である」と改善に応じ、一方、総聯伊賀支部委員長は、「過去の経緯は話せない」とコメントを避けた。
三重県市町行財政室は「地方税上、条例の定めのない減免はできず、条例がないなら問題」、総務省自治税務局市町村税課は「減免は各市町村が判断し条例で定めるが、このような例は初耳」[298]、桑名市税務課では「条例の裏付けもなく続けてきたことは遺憾」[159]とそれぞれ述べた。伊賀市では過去の資料が無いため詳細については定かではないが、減免措置は地方税法第323条に基づいて旧上野市が制定した市税条例第51条第1項第5号の「特別の理由があるもの」との規定により市長が必要であると認めたものについて、市が歴史的経過、社会的背景、経済的状況などを総合的に考慮し、減免することが妥当と判断したものであろうと思われる、とした[302]。一方、この減免措置は本来、副市長(旧助役)の決裁が必要だが、税務課内部の判断で長年続いていたことも明らかになった[303][304]。
また桑名市は日本国政府に報告する「課税状況調べ」に、減免対象者の住民税を記載してなかったことが判明し、2008年3月、国に税収の訂正を提出した。この結果、地方交付税を多く受給していたとして2008年度の交付税は約2億8000万円減額される見通しとなった[160]。
韓国・北朝鮮との関わり
竹島領有権問題への姿勢
姜尚中東京大学教授は、韓国が占拠している竹島について、韓国側に立った主張・提言をおこなっている[305][306]。また、在日本朝鮮人総聯合会の関連団体である在日本朝鮮留学生同盟(留学同)は、日本の領有権主張に反対する声明をおこなっている[307]。
北朝鮮問題との関連
北朝鮮問題への注目(拉致事件、核保有問題など)にともなって、在日韓国・朝鮮人、とりわけ朝鮮籍の者への圧力が高まったことに対し、在日韓国・朝鮮人の立場を『親族を北朝鮮政府に人質同然にされ、不本意ながら北朝鮮政府の意のままに操られている人たち』として同情視する向きもある。
一方で「在日朝鮮人は北朝鮮国政の選挙権・被選挙権ともに有しており、在日朝鮮人からは朝鮮総連議長や朝鮮大学校校長などの6名が北朝鮮の国会議員に選ばれており、日本からの送金もかなりの額にのぼるため、在日朝鮮人側の責任が皆無とは言い難い」との批判もある。また、朝鮮総連は本国の見解に乗っ取り、拉致問題を「解決済み」、「日本側にこそ問題がある」との立場を固守している。北朝鮮のミサイル発射に関連してチマチョゴリ切り裂き事件なども起きた。
在日韓国・朝鮮人は北朝鮮の核兵器や生物兵器などの大量破壊兵器開発のために輸出規制されている物品を北朝鮮に不法に輸出する北朝鮮タンクローリー不正輸出事件や凍結乾燥機不正輸出事件などの事件を引き起こしている。
東京大学大学院で博士号を取得したロケット開発権威の在日朝鮮人は在日本朝鮮人科学技術協会の顧問として日本の技術を不法に入手し、頻繁に北朝鮮に渡り技術指導を行い、ミサイル発射時には現地で立ち会っている[308][309][310][311]。
脚注
- ^ 登録外国人統計2009年 法務省
- ^ 参議院議員川上義博君提出在日韓国・朝鮮人の「国籍」の表記に関する質問に対する答弁書 参議院
- ^ a b “在外韓国人682万人、日米は増えるも在中国が減少”. 聯合ニュース. (2009年8月3日) 2010年1月9日閲覧。
- ^ a b c "国籍(出身地)別在留資格(在留目的)別外国人登録者" (PDF) (Press release). 独立行政法人統計センター. 2010年12月末.
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の日付が不正です。 (説明) - ^ a b 在日本大韓民国民団中央本部-統計
- ^ a b “都道府県別本籍地別外国人登録者(その2 韓国・朝鮮)”. 独立行政法人統計センター. 2011年8月9日閲覧。
- ^ a b ”没落する朝鮮総連、韓国国籍の取得者が急増”, 朝鮮日報, 2010/02/10.
- ^ "平成19年末現在における外国人登録者統計について" (PDF) (Press release). 法務省入国管理局. 2008-06. 2010-01-09閲覧。
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の日付が不正です。 (説明) - ^ アジア歴史資料センターリファレンスコード A05020306500「昭和21年度密航朝鮮人取締に要する経費追加予算要求書」。1959年6月16日朝日新聞 「密入出国をした朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人としている」
- ^ 2000年9月26日産経新聞
- ^ 「終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているといわれる」(1950年6月28日産業経済新聞(産経新聞の旧称)朝刊
- ^ a b c d e f g 『朝日新聞』 1959年7月13日 2面 「大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人」
本文: 「在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行っているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。これによれば在日朝鮮人の総数は約六十一万人だが、このうち戦時中に徴用労務者として日本に来た者は二百四十五人である旨の発表がなされ、この二百四十五人については日本政府により朝鮮への帰国がなされた。主な内容は次の通り。一、戦前(昭和十四年)に日本内地に住んでいた朝鮮人は約百万人で、終戦直前(昭和二十年)には約二百万人となった。増加した百万人のうち、七十万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの三十万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。また、国民徴用令は日本内地では昭和十四年七月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ昭和十九年九月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年三月の下関-釜山間の運航が止まるまでのわずか七ヵ月間であった。一、終戦後、昭和二十年八月から翌年三月まで、希望者が政府の配船、個別引揚げで合計百四十万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和二十一年三月、連合国の指令に基く北朝鮮引揚計画で三百五十人が帰還するなど、終戦時までに在日していた者のうち七五%が帰還している。戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。現在、登録されている在日朝鮮人は総計六十一万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は二百四十五人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって残留したものである」
- ^ a b “在日朝鮮人、戦時徴用はわずか245人”. 産経新聞. (2010年3月11日) 2010年3月11日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b c 韓国政府、徴用補償に踏み切る, 統一日報, 2006年3月15日
- ^ a b c d 細井綾女 ”「コリアン・ジャパニーズ」・「ブール」の呼称の変遷と国籍問題”, 『言葉と文化』, 名古屋大学国際言語文化研究科日本言語文化専攻, 2010年, 第11号, p. 81-98.
- ^ a b 浮島さとし ”在日国籍の摩訶不思議──「日本には『北朝鮮籍』は存在しない!」”, 日刊サイゾー, 2010.03.25.
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タグ; name "onekorea090527"が異なる内容で複数回定義されています - ^ a b c ““新・旧”在日韓国人は民団とどのように関わるか 民団中央大会を前にしたオールドカマー・ニューカマーの声”. 統一日報. (2009年2月18日) 2010年1月9日閲覧。
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- ^ 朝日新聞 1959年7月13日[1]
- ^ 研究の一例として、次の論文・調査がある。
- 日本人の海外活動に関する歴史的調査 - 大蔵省管理局 1947年
- 財団法人日韓文化交流基金 - 日韓歴史共同研究委員会 - 報告書(2002-2005年) - 第3分科(近現代) - ■第7章 戦時体制下の総動員
- 木村幹 『総力戦体制期の朝鮮半島に関する一考察 -- 人的動員を中心にして -- 』(PDFファイル、日本語) - 日韓文化交流基金(公式ウェブサイト)
- 木村幹 『総力戦体制期の朝鮮半島に関する一考察 -- 人的動員を中心にして -- 』(PDFファイル、日本語) - 韓国政府外交通商部(公式ウェブサイト)
- 鄭在貞 『日帝下朝鮮における国家総力戦体制と朝鮮人の生活 -- 「皇国臣民の錬成」を中心に -- 』(PDFファイル、日本語)- 日韓文化交流基金(公式ウェブサイト)
- 鄭在貞 『日帝下朝鮮における国家総力戦体制と朝鮮人の生活 -- 「皇国臣民の錬成」を中心に -- 』(PDFファイル、日本語) - 韓国政府外交通商部(公式ウェブサイト)
- ^ 朝鮮史研究会編 『朝鮮の歴史』 三省堂、1974年、251-252頁。OCLC 33552875 22520767
- ^ a b 産業労務動員と国民徴用〔日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態030〕 - 法政大学大原社会問題研究所
- ^ 項目冒頭・定義部を参照。
- ^ a b 『関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ 放火殺人暴行掠奪につぎ橋梁破壊も企てた不逞団』 1923年10月22日付東京時事新報
- ^ このデマを流布した首謀者は、時の警視庁官房主事で後に読売新聞社主となる正力松太郎であるとした主張もある(正力の項も参照)。震災で焼け出された各新聞の記者が、警視庁官房に食糧や飲料が集まっているという情報を聞きつけ、手に入れようと次々に正力のもとを訪れた。そこで、正力が「朝鮮人暴徒化の噂が流れている」とリークし、鵜呑みにした記者たちが記事にしたことによってデマが広がったのである(後に正力はこれを「虚報」と認めている)
- ^ 石井光次郎『回想八十八年』カルチャー出版刊、1976年発行
- ^ 各種の噂がデマであると最初に言い出した後藤新平内務大臣兼帝都復興院総裁が「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのままは引き下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあたら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね。」と正力に語った言葉に感激し、正力はあえて風評の打消し役に徹したという説もある。ISBN978-4-8191-1083-9 工藤美代子著「関東大震災『朝鮮人虐殺』の真実」pp.172-173
- ^ [2]民団の記事
- ^ 実際は、4合ビンに入れられた井戸水を飲み干して見せ、「朝鮮人が井戸に毒を入れたというのはデマである」と、自警団を追い返したのは、朝鮮人49人を保護した川崎警察署長・太田淸太郎警部である(「神奈川県下の大震火災と警察」神奈川県警察部高等課長西坂勝人著)(毎日新聞湘南版2006年9月9日朝刊)
- ^ [山岸秀 2002年『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』、早稲田出版]
- ^ p72-85『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』 水間政憲 徳間書店 2010/7/31 ISBN 978-4-19-862990-8
- ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1938年12月28日付密航朝鮮人送還
二十六日朝釜山入航の釜博聯絡船珠丸で佐賀縣唐津から密航朝鮮人百八十名の大量送還があつたが、彼ら百八十名の朝鮮人は十月、十一月にわたり釜山松島海岸から密航をなしたものである - ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1939年1月31日付密航朝鮮人送還
三十日朝釜山入航の關釜聯絡船で福岡縣から密航朝鮮人四十六名が送還されて来たが、厳重な警戒を潜つて内地へ密航をなし送還されて来たもので新年に入つてから僅か一ケ月間に三百名に上つてゐる - ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1939年2月2日付『密航朝鮮人を一網打盡』
- ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1939年3月17日付『多い密航者 また福岡から大量送還』
- ^ 大阪朝日新聞・北鮮版 1939年6月22日付『論旨の渡航者一萬九千餘人』
- ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1939年11月21日付『渡航證明書を偽造し 不敵、巨利を博す 惡運つきて遂に捕へらる』
- ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1940年4月5日付『朝鮮人労働者の 内地渡航漸次緩和 林総督府社会課長談』
- ^ 大阪毎日新聞 1943年6月15日付『内地密航増加 釜山水上署で厳罰』
- ^ 大阪朝日新聞・南鮮版 1940年5月28日付『朝鮮人鉱夫の物凄い稼高 遠賀工業所で推賞の的』
- ^ 大阪朝日新聞・中鮮版 1940年4月21日付『朝鮮人鉱夫に特別の優遇設備 まるで旅館住まひ同様』
- ^ 法務研修所 『在日朝鮮人処遇の推移と現状』 湖北社, 1975年, p.53. 「II 戦後の引揚と占領下の処遇 一、引揚 1、朝鮮人の帰国熱と動員労務者、復員軍人の引揚」 国立国会図書館請求記号 AZ-631-16 OCLC 37422551 底本 森田芳夫 『在日朝鮮人処遇の推移と現状』 法務研修所, 1955 (法務研究報告書第43集第3号).
- ^ アジア歴史資料センターリファレンスコード A05020306400「昭和21年度第2予備金支出要求書朝鮮人送還費」14~15ページを参照。
P14:二.(中略)昭和二一年四月十五日との両日博多と仙崎とからの出航実績は次に示すとおり(後略)
P15:四.日本帝国政府は右の送出率を次第に増加させて行き昭和二十一年五月五日迄に仙崎博多両港が一日三、〇〇〇名と一、〇〇〇名の夫々の規定された送出率に確実に達する為に必要な処置をとること。此の送出率は爾後引揚希望の全朝鮮人が日本から一掃される迄保たねばならない - ^ アジア歴史資料センターリファレンスコード A06030086000「内鮮関係通牒書類編冊」3~4ページを参照。
朝鮮人集団移入労務者等ノ緊急措置ノ件
関釜連絡船ハ近ク運行ノ予定ニアル朝鮮人集団移入労務者ハ次ノ如ク優先的ニ計画輸送ヲナス
尚石炭山等ニ於ケル熟練労務者ニシテ在留希望者ハ在留ヲ許容スルコト 但シ事業主ニ於テ強制的ニ勧奨セザルコト
(1)輸送順位ハ概ネ土建労務者ヲ先ニシ石炭山労務者ヲ最後トシ地域的順位ニ付テハ運輸省ニ於テ決定ノ上関係府県、統制会、東亜交通公社ニ連絡ス
(2)所持品ハ携行シ得ル手荷物程度トシ有家族者ノ家族モ同時ニ輸送ス
(3)内地輸送中ノ弁当ニ付テハ考究中ナルモ可及的多量ニ携行セシメルコト - ^ a b c “第001回国会 財政及び金融委員会 第46号”. 衆議院 (1947年12月4日). 2010年1月28日閲覧。
- ^ 例えば、「在外国民」政策見直しへ 「在日」からの要請強く 次期政権, 統一日報2008年1月16日. 「1965年の日韓国交正常化を前に、日本政府が在日韓国人の帰還について協議を持ちかけた時も、韓国政府は「彼らの措置は日本が好きにやればいい」と答えており、「棄民政策」の象徴的なことと批判されている」
- ^ 『在日の地図~大韓棄民国物語』, 山野車輪, 海王社, 2006/10/24 ISBN 978-4877243050.
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参考文献
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- 朝鮮史研究会・編、旗田巍・編修代表『朝鮮の歴史』(三省堂、1974年)ISBN 4385342555
- 福岡安則・金明秀著『在日韓国人青年の生活と意識』(東京大学出版会、1997年)ISBN 4130560522
- 山中修司・大島隆行・谷寛彦・金正坤・文・写真 『ダブルの新風 -- 在日コリアンと日本人の結婚家族』( 新幹社、1998年1月)ISBN 4915924858
- История иммиграции корейцев.Книга первая.Вторая половина 19в.-1945г.Глава 6.Иммиграция корейцев в Японию(『朝鮮移民史』第2巻、19世紀~1945年、第6章「日本への朝鮮人の移民」、ゲルマン・キム)
- Корейцы за рубежом:прошлое,настоящее и будущее.Корейцы в Японии(『在外朝鮮人:過去、現在、未来』、「在日朝鮮人」、ゲルマン・キム)
- 中村一成著『在日無年金訴訟をめぐるひとびと』(インパクト出版、2005年)ISBN 4755401534
- 鄭大均『在日・強制連行の神話』(文春新書、2004年)
- 鄭大均『在日韓国人の終焉』(文春新書)
関連項目
- 在日韓国・朝鮮人の一覧
- 朝鮮民族
- 日本統治時代の朝鮮
- コリア・タウン#日本
- 朝鮮学校
- 日本の民族問題
- 在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟
- 高槻むくげの会
- 在日特権
- 在日認定