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伊東祐慶

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伊東 祐慶(いとう すけのり、天正17年6月13日1589年7月25日) - 寛永13年4月4日1636年5月8日))は日向国飫肥藩の2代藩主。伊東氏の十二代当主。

初代藩主伊東祐兵の長男。母は正室・伊東義益の娘。子に伊東祐久(長男)、伊東祐豊(次男)。通称は熊太郎。従五位下左京亮、修理大夫。祐典とも。

伊東義祐からみて女系において曾孫であり、父系において孫である。1600年慶長5年)、関ヶ原の戦いが起こると東軍に与し、家臣の稲津重政高橋元種宮崎城などを攻めさせた。しかし元種が関ヶ原の合戦前に東軍に寝返っていたため、問題となり重政を清武城にて討った。また黒田孝高の軍使が遣わされていたため、徳川家康より所領を安堵された。同年、祐兵が大坂にて病死したため、家督を継いだ。元和年間より領内にスギの植林事業を興し、藩財政の基礎とした。

1636年(寛永13年)48歳で死去。後を長男・祐久が継いだ。

関連項目