ソア橋
ソア橋 | |
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著者 | コナン・ドイル |
発表年 | 1922年 |
出典 | シャーロック・ホームズの事件簿 |
依頼者 | 金鉱王ニール・ギブソン |
発生年 | 不明 |
事件 | ギブソン夫人殺人事件 |
「ソア橋」(ソアばし、The Problem of Thor Bridge)は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち46番目に発表された作品である。イギリスの『ストランド・マガジン』1922年2・3月号、アメリカの『ハースツ・インターナショナル』1922年2・3月号に発表。1927年発行の第5短編集『シャーロック・ホームズの事件簿』(The Case-Book of Sherlock Holmes) に収録された[1]。
なお、「ソア」は北欧神話の雷神トールに由来するとされ、それを明確にするため日本語訳を「トール橋」とする場合もあるが、英語読みは「ソア」なので「ソア橋」でも誤りではない。
注意:以降の記述には物語・作品・登場人物に関するネタバレが含まれます。免責事項もお読みください。
あらすじ
10月のある日、私立諮問探偵のシャーロック・ホームズと伝記作家で医師のジョン・H・ワトスンが共同生活を送るロンドンのベーカー街221Bを、アメリカの上院議員で世界一の金鉱王、ニール・ギブスンが訪れる。
新聞などの情報によれば、ギブスンのハンプシャーの屋敷から少し離れた場所にあるソア橋の上で、銃の弾丸で頭を撃ち抜かれて死んでいる妻マリアが発見されたのである。現場に凶器の銃はなく、屋敷に住み込みの家庭教師グレイス・ダンバー嬢の衣装棚から、口径が一致し1発発射されている銃が発見された。妻はグレイスのサインがある手紙を持って倒れていて、その内容はソア橋での面会を約束したものだった。銃撃の目撃者はいないが、発生時刻ごろに橋の近くでグレイスを見たという証言がある。 グレイスは若く魅力的な女性で、ギブスンは容色に衰えを見せていた妻にはつらく当たり、一方でグレイスに関心を示していたらしい。もし妻が死ねば、その後釜はグレイスになると考えられ、殺害の動機も充分である。こうした状況からグレイスは逮捕されたが、裁判までは何も語ろうとしていないという。
ギブスンはホームズに向き合うと、グレイスの無実を証明すれば、金も名誉も思いのままだと傲慢な態度で話を始める。しかしホームズは興味を示さず冷ややかに対応し、グレイスとの関係を質問する。遠慮のない質問にギブスンは動揺するが、自分たちの関係は雇主と子どものために雇われた家庭教師というだけで他に何もない、と答えた。ホームズは、真実を話さないのでは依頼は引き受けられないと返し、ギブスンは激怒して立ち去る。しかし、グレイスの無実を証明できると思われる人物はホームズ以外にない。ギブスンは屈服し、戻ってくるとすべてを語り出す。 ギブスンによれば、妻につらく当たったのは事実だが、それは愛情を冷まさせるためであり、いっそ自分を憎んでくれれば話が簡単になると考えてのことだったという。しかし妻のギブスンへの愛は、どんな仕打ちをしても変わることがなかったのである。そこへグレイスが家庭教師としてやってきて、ギブスンはすっかりほれ込んでしまい、自分の気持ちを打ち明ける。驚いたグレイスは屋敷を去ろうとするが、ギブスンの意志を動かせる強い影響力を持っていることを自覚して、考えを変える。影響力を行使し、ギブスンの膨大な資産を社会奉仕の方向へ使わせることで、世の中へ貢献できると考えたのである。グレイスはギブスンが二度と言い寄らないことを条件に、屋敷に残ったのだった。 ギブスンは、グレイスが強い影響力を持っていることを知った妻が、嫉妬と憎しみの余り銃でグレイスを脅し、もみ合いの中で銃が暴発したのではないかと推測を述べる。
ハンプシャーを訪れたホームズとワトスンは、犯行に使われたと考えられている銃は屋敷にあった二丁セットのもので、その片方が行方不明になっていることなどを聞く。さらに、妻がグレイスからの手紙を強く握り締めて死んでいたと聞いたホームズは、なぜわざわざ面会場所まで手紙を大事に持って来る必要があったのかと疑問を抱く。最も不可解なのは、凶器の隠し場所をすぐに捜索されるであろう自室の衣装棚とした点である。現場のソア橋は池にかかった石造りの橋で、石の欄干があった。調査を始めたホームズは、欄干に新しい欠けた傷があることに気づく。死体からやや離れた場所にあったその傷は何が原因なのか不明で、事件と関係があるかは分からない。
ホームズとワトスンは独房のグレイスと面会し、事情を聞く。グレイスによれば、妻が持っていた手紙は返事であり、ソア橋には妻からの手紙で呼び出されたのだという。しかし、その妻からの手紙には読んだら処分するようにと書かれていたため燃やしてしまい、証明はできない。約束の時間にソア橋で会うと、妻は口を極めてグレイスを罵倒したらしい。今まで知らなかった妻の自分に対する憎しみの激しさに恐慌状態になったグレイスは、耳を塞いでその場から逃げ出し、自室へと逃げ込む。そして翌朝、妻の死体が発見され騒ぎとなるまで、ずっと部屋にいたのである。自室の衣装棚で発見された銃については見覚えがなく、事件の日の朝に整理をしたときにはなかったという。
ソア橋へと急行したホームズは、まずワトスンの銃と重い大きな石とを丈夫な紐で結びつける。続いてホームズは紐で結びつけた石を橋の欄干の外、池の水面の上にぶらさげ、自らは銃を持って遺体の発見場所に立つ。そして紐で結ばれた銃を頭の位置まで持ち上げ、手を離す。すると石はそのまま水中へ沈み、紐に引っ張られた銃は欄干に激しく激突した後、欄干を乗り越えて池の中に没した。銃は現場から消え、同時に欄干の傷は2ヵ所に増えている。ホームズは事件の完全な再現に成功したのだった。ホームズは、池を浚えばワトスンの銃と石以外にもう一組、二丁セットの銃の一つが重り付きで見つかるだろうと説明した。
妻は歪んだ愛情から、殺人に見せかけて命を絶つこと、その罪を憎いグレイスに着せることを考えた。巧妙な手紙を書きグレイスから呼び出されたように偽装し、二丁セットの銃の片方をグレイスの衣装棚に隠し、証拠とする。そしてソア橋でグレイスを思い切り罵ると、仕掛けをした銃で自らの頭を撃ちぬいたのだった。この事件は殺人ではなく、自殺だったのである。
トリック
原型となった事件
凶器のピストルに紐で重りを結びつけ、その重りでピストルを引っ張ることで現場から凶器を移動させ隠すことにより、自殺を他殺に見せかけるというこの短編のトリックには、モデルとなった実際の事件があった。それは、「ヨーロッパにおける犯罪学の創始者」といわれるハンス・グロスの著書に記されている事件である[2]。 この実際の事件は、早朝にドイツ人の穀物商が、橋の上で頭をピストルで撃たれ死亡しているのが発見されたことに始まる。凶器のピストルは現場に見当たらず、当初は強盗による殺人事件と考えられた。付近にいた浮浪者が一人、容疑者として拘束されたが、予審判事が死体の側の欄干に新しい不審な傷があるのを発見したことから、橋の下の水中を浚ってみることになった。その結果、水中から紐で結ばれたピストルと石が引き上げられた。そして鑑定が行なわれ、穀物商の頭部に残されていた弾丸はこのピストルで撃ったものだと確認されたのである。最終的に、困窮していた穀物商が高額の保険金を目当てに自殺したのだと結論付けられた。自殺では家族へ保険金が支払われないため、強盗に襲われたように偽装したと考えられている[3][2]。
ハンス・グロスはオーストリア人で、検察官・刑事裁判官・大学教授を経て1912年に犯罪学研究所を設立した人物である。ドイルがハンス・グロスの著書のうち何を参考にしたかは意見が分かれている。ベアリング=グールドは『犯罪学大全』(1891年)の名を挙げ[4]、W・W・ロブスンはドイツ語の『犯罪学大全』を英訳した『犯罪調査』(1907年)を[3]、江戸川乱歩や中島河太郎は『予審判事必携』(1893年)を挙げている[5][6]。 シャーロキアンの赤月俊太はドイルがドイツ語に通じていることから『予審判事必携』の中の「穀物商事件」を参考にしたと考え、ドイルはオーストリアに近いスイスのダボスに滞在した時に『予審判事必携』を手に入れたのだと推理している[2]。
評価と同系作品
江戸川乱歩は『続・幻影城』の中で「ソア橋」について、自殺を他殺に見せかけるトリックはこの短編が初出であると記した。そしてE・C・ベントリーが傑作集「The Second Century of Detective Stories」で「ソア橋」を選出したことに同意し、「初めて使われたトリックという意味だけでも、一票を投ずる値うちがある」と評している[7]。 中島河太郎は探偵小説雑誌『宝石』に連載された『探偵小説辞典』の中で、「一人二役」のうち犯人と被害者が同一であるトリックを使用した作品の代表として「ソア橋」を挙げ、同様の例が江戸川乱歩の「一枚の切符」にあると評している[5]。
「ソア橋」の自殺を他殺に見せかけるトリックと同じトリックを使用した作品として、ヴァン・ダインの『グリーン家殺人事件』(1928年)がある。これはドイルと同じくハンス・グロスの研究を基にして執筆されたと考えられている[5][6]。 ただし江戸川乱歩がトリックについて「後年ヴァン・ダインが「グリーン家」に於て敢て再使用したほどの魅力がある」と記しているように、先に発表された「ソア橋」の影響も考えられる[7]。
横溝正史の『本陣殺人事件』(1946年)は、「ソア橋」に影響を受けた作品として名を挙げられることがある(殺人に使われた日本刀に琴糸を結びつけ、水車に引かせて部屋から出すというトリックを使っている)。江戸川乱歩は『宝石』に掲載した「『本陣殺人事件』を読む」と題した批評の中で、トリックは「ソア橋」からのものだが、密室殺人と組み合わせた点に創意があると評し[8][6]、実吉達郎は「《トール橋》の子孫として最高の凝った境地に達した」と評している[9]。 『本陣殺人事件』の作中では、探偵役の金田一耕助が「ソア橋」の名を挙げ、「自殺を他殺と見せかけるトリックは探偵小説ではしばしば扱われるものなのです。その代表的なものが、シャーロック・ホームズ物語の中の『ソア橋事件』という小説ですが、(中略)こんどのことを思いついたのは、この小説がヒントになっているんです。」と述べている[10]。
一方、著者の横溝正史自身は、『探偵小説五十年』の中で「それが「ソア橋事件」のトリックと酷似しているとは、ほんとのところ、江戸川さんから指摘されるまで気がつかなかった。」と記し[11]、小林信彦のインタビューに対しては「エンジェル家、あれですよ。乱歩は誤解してンだけども、あれが『本陣』のヒントですよ。(中略)『ソア・ブリッジ』のことは全然忘れてた。」と答え[12]、実際には『エンジェル家の殺人』(ロジャー・スカーレット著、1932年)からトリックを思いついたとしている[11][12]。
他に「ソア橋」に近いトリックを使用した作品として、実吉達郎が野村胡堂の『銭形平次 捕物控』に含まれる「凧糸の謎」と「猫の首輪」を挙げている[9]。
年代学
ワトスンの記述には、この事件が発生した年代についての言及がない。シャーロキアンの間では、1900年か1901年の発生だと考えられている[1][13]。 正典60編の事件を発生年代順に並べた『詳注版 シャーロック・ホームズ全集』を発表したベアリング=グールドの説では、ニール・ギブスンからの手紙の日付や、ホームズが6000ポンドの報酬を受け取っている「プライオリ学校」[14]との関係などから、1900年10月4日の木曜日から5日の金曜日までの出来事としている[4]。
研究
オックスフォード版全集に注釈をつけたW・W・ロブスンは、依頼人のニール・ギブスンに関連する実在の人物として、アメリカの上院議員で鉱山を所有していたジョージ・ハーストと息子の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの名を挙げた。そして、作中に描かれるギブスンの人物像はランドルフを思わせると指摘し、ランドルフをモデルとした映画『市民ケーン』(Citizen Kane、1941年)を引き合いに出している[15]。 執筆当時ドイルの作品はアメリカではハースト系の雑誌に掲載されていた。しかし、W・W・ロブスンはハーストが抱いていた反英感情をドイルが嫌っていたに違いない、としている[15]。
容疑者のグレイス・ダンバー嬢は、出会ってすぐホームズを信用させた、稀な女性である。ホームズは『四つの署名』では、後にワトスンの妻となるメアリー・モースタンと出会った後、メアリーの魅力を賞賛するワトスンに対し、気付かなかったと答えている。さらに、個人の特質で評価するのは間違いで、好悪の感情は推理の妨げになると断じ、例外はないと述べている。しかし、グレイスと出会ったホームズは、グレイスがギブスンに強い影響力を持っていること、二人の関係が清廉潔白なものであることを、あっさりと信じてしまうのである。W・W・ロブスンはこれを「実に対照的な態度」と評し[15]、ネイサン・L・ベンジスは「これが、自分は例外を認めないといった、同じ人物であろうか?」と評している[4]。
映像化
グラナダ・テレビ版
イギリスのグラナダ・テレビが製作したテレビドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』では、第5シリーズ2番目のエピソード、通算第28話として「The Problem of Thor Bridge」(ソア橋のなぞ、1991年)が放映された。ホームズをジェレミー・ブレットが、ワトスンをエドワード・ハードウィックが演じている[16][17] 。
ストーリーの大筋は原作と同様だが、ダニエル・マッセイの演じるニール・ギブスンは、ホームズの態度に激怒してベーカー街221Bを去ったあと、ホームズの予想に反して戻ってこない。そのため、ホームズはワトスンの勧めにより、独自に捜査を開始することになるのである。劇中、ホームズがアーチェリーを楽しむという、原作には一度もない場面もある。
ストール・ピクチャーズ版
イギリスの Stoll Picture Productions が製作したシリーズ映画 Sherlock Holmesの第3弾『The Last Adventures of Sherlock Holmes』(シャーロック・ホームズ最後の冒険)では、全15作のうち11番目のエピソードとして「The Mystery of Thor Bridge」(ソア橋事件、1923年)が公開された。ホームズをエイル・ノーウッドが、ワトスンをヒューバート・ウィリスが演じている[18][19]。
脚注
- ^ a b ジャック・トレイシー『シャーロック・ホームズ大百科事典』日暮雅通訳、河出書房新社、2002年、238頁
- ^ a b c 赤月俊太「《トール橋》(3)」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、506-507頁
- ^ a b コナン・ドイル著、W・W・ロブスン注・解説『シャーロック・ホームズ全集 第9巻 シャーロック・ホームズの事件簿』小林司・東山あかね、高田寛訳、河出書房新社、2002年、542-569頁
- ^ a b c コナン・ドイル著、ベアリング=グールド解説と注『詳注版 シャーロック・ホームズ全集9』小池滋監訳、筑摩書房〈ちくま文庫〉、1998年、11-93頁
- ^ a b c 中島河太郎・日本推理作家協会編『江戸川乱歩賞全集1 探偵小説辞典』講談社〈講談社文庫〉、1998年、46-58頁
- ^ a b c 江戸川乱歩『江戸川乱歩全集第17巻 幻影の城主』講談社、1979年、138-146頁
- ^ a b 江戸川乱歩『江戸川乱歩全集第19巻 続・幻影城』講談社、1979年、24-27頁
- ^ 中島河太郎「解説」横溝正史『新版 横溝正史全集5 本陣殺人事件』講談社、1975年、316-317頁
- ^ a b 実吉達郎「《トール橋》と「本陣殺人事件」」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、507-508頁
- ^ 横溝正史『金田一耕助ファイル2 本陣殺人事件』角川書店〈角川文庫〉、1973年、改版22版、168-169頁
- ^ a b 横溝正史「「本陣」「蝶々」の頃のこと」『探偵小説五十年』中島河太郎編、講談社、1977年、217-221頁
- ^ a b 横溝正史・小林信彦編『横溝正史読本』角川書店、1976年、40-71頁
- ^ マシュー・バンソン編著『シャーロック・ホームズ百科事典』日暮雅通監訳、原書房、1997年、157-158頁
- ^ ベアリング=グールドの説では、「プライオリ学校」は1901年5月発生の事件である。
- ^ a b c コナン・ドイル著、W・W・ロブスン注・解説『シャーロック・ホームズ全集 第9巻 シャーロック・ホームズの事件簿』小林司・東山あかね、高田寛訳、河出書房新社、2002年、441-450頁
- ^ ピーター・ヘイニング『NHKテレビ版 シャーロック・ホームズの冒険』岩井田雅行・緒方桂子訳、求龍堂、1998年、257頁
- ^ “"The Case-Book of Sherlock Holmes" The Problem of Thor Bridge (TV episode 1991)”. IMDb. 2012年7月17日閲覧。
- ^ マシュー・バンソン編著『シャーロック・ホームズ百科事典』日暮雅通監訳、原書房、1997年、400頁
- ^ “The Mystery of Thor Bridge (1923)”. IMDb. 2012年7月17日閲覧。