奥田碩
奥田碩(おくだ ひろし、1932年(昭和7年)12月29日 - )は、トヨタ自動車株式会社の会長。日本経営者団体連盟第9代会長、社団法人日本経済団体連合会初代会長。1996年藍綬褒章受章。
三重県立松阪北高等学校(現三重県立松阪工業高校)を経て、1955年に一橋大学商学部を卒業しトヨタ自動車販売株式会社入社。同社豪亜部長等を経て、1982年トヨタ自動車株式会社取締役、1987年同社常務取締役、1988年同社専務取締役、1992年同社代表取締役副社長、1995年代表取締役社長、1999年代表取締役会長。1999年日本経営者団体連盟会会長に就任。2002年日本経済団体連合会初代会長に就任。2004年5月27日、総会で正式に再任され、2006年5月までその第2期目を務める予定。2001年から2006年まで経済財政諮問会議議員。2002年産業構造審議会会長、2003年交通政策審議会会長。2006年から国立大学法人東京大学経営協議会学外委員(任期2年)。
社団法人日本自動車工業会会長、社団法人鉄道貨物協会会長、社団法人如水会理事長、日本郵政株式会社取締役、株式会社東京証券取引所取締役、中京ゴルフ倶楽部株式会社理事、財団法人海外子女教育振興財団顧問、株式会社UFJホールディングス取締役、財団法人長寿科学振興財団会長、特定非営利活動法人日本水フォーラム副会長、財団法人日米地域間交流推進協会副会長、名古屋大学法学部創立50周年記念事業「アジア法政情報交流センター」創設募金後援会顧問、財団法人財務会計基準機構評議員等も歴任。
趣味は柔道で、六段の腕前。
奥田務(大丸会長兼CEO、関西経済同友会代表幹事、21世紀臨調顧問会議代表)は弟。
社長時代には、それまでどちらかといえば保守的だったトヨタを改革したと言われている。例えば、世界に先駆けてハイブリッド車「プリウス」を発売したことや、それまでトヨタが敬遠していたF1への参戦を表明したことなどである。彼の時代からトヨタは「攻め」の姿勢に転じて躍進を遂げ、現在の世界第2位の自動車メーカーの座を手にした。このことから、彼の経営手腕は一般的に高く評価されている。
その一方で、彼の発言などに対して反発や騒ぎが起こることもある。
- 皇室典範に関する有識者会議のメンバーを務めるが、同会議が女系天皇を容認した事から、一部の保守派など奥田に対して反発を示す者もいる。
- 日本で目立ち始めている所得格差の広がりについて「差を付けられた方が凍死したり餓死したりはしていない。勝ち組・負け組と言いたがるのがそもそもの間違い」と発言した。
- トヨタが非常によい経営状態を謳歌する一方、下請け企業は過酷な値下げ圧力で瀕死状態に陥っているにも関わらず「『人間尊重』と『長期的視野に立った経営』」を強調した。
- ミサワホームの経営危機を巡る奥田の発言が結果的にミサワホームを産業再生機構入りに追い込んだとしてミサワホーム創業者(元会長)三澤千代治側が竹中平蔵経済財政担当相(当時)、斎藤淳産業再生機構社長と奥田を公務員職権乱用罪で告発する事態が起こった。
- ライブドアの経団連入会を認めた際に奥田は「企業倫理を学ぶのに役立ててほしい」と堀江氏を評価していたがその1ヵ月後ライブドアに証券取引法違反が発覚すると「経団連として(ライブドア入会は)ミスだった」と釈明した。
- 中国訪問の際、同国政府要人との会談で小泉首相の外交姿勢を批判。これを『日本の外交より中国で車を売ることを優先する姿勢』とする意見がある。
- 2006年3月8日の記者会見では、残虐なゲームソフトの影響で一部の若者が社会に適応できなくなりニートと化している可能性を指摘。経団連として、チェック体制を確立すべく検討を開始したと述べた。