小林宏之 (野球)
信濃グランセローズ 選手兼任コーチ #41 | |
---|---|
阪神時代(2012年3月14日) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 埼玉県草加市 |
生年月日 | 1978年6月4日(46歳) |
身長 体重 |
6' 0" =約182.9 cm 175 lb =約79.4 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1996年 ドラフト4位 |
初出場 | NPB / 1998年7月4日 |
最終出場 | NPB / 2011年10月4日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
| |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
WBC | 2006年 |
この表について
|
小林 宏之(こばやし ひろゆき、1978年6月4日 - )は、埼玉県草加市出身のプロ野球選手(投手)。
2010年から2012年までの登録名は小林宏(こばやしひろ、姓名の区切りなし)。
経歴
プロ入り前
春日部共栄高校を経て、1996年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから4位指名を受けて入団。同校出身のプロ野球選手は多数いるが大学や社会人を経ず高校卒業後、すぐにプロ入りしたのは小林が初めて。
ロッテ時代
5年目の2001年終盤から一軍に定着。この年7月9日の対福岡ダイエーホークス18回戦(千葉マリンスタジアム)で10回表に救援登板、1/3回無失点でプロ初勝利を挙げた。この時は小林の前に投げた藤田宗一が大道典嘉に3ランを浴び、3点ビハインドと敗色濃厚であったが、10回裏の攻撃でフランク・ボーリックが満塁本塁打を放ち逆転サヨナラ勝利となった試合であった。
2002年、シーズン当初は先発起用されたが結果を出せず脱落、その後セットアッパーに回り活躍する。8回小林宏之・9回小林雅英と繋ぐリレーは「小林リレー」と呼ばれ、勝ちパターンの継投として定着した。また、オールスターゲームにも初出場を果たした。
2003年、開幕からリリーフとして活躍。シーズン中盤に再び先発に復帰し、先発ローテーションに定着。初の規定投球回と二桁勝利を達成。
2004年開幕前、25歳の時に当時18歳の女性と入籍。このシーズンは、先発ローテーションの一角として初めてシーズン通して先発起用され、8月には自身初の月間MVPも獲得した。しかし二桁勝利には届かず、全体的には不安定な内容だった。
2005年は、交流戦中、打撃では打率3割に3打点、投げては6試合で5勝0敗という抜群の成績を残し、チームの交流戦優勝に貢献。初代の交流戦MVPを獲得した。清水直行、渡辺俊介らとともに先発三本柱の一角として活躍し、結果シーズン12勝6敗、防御率3.30の好成績を残す。プレーオフ、日本シリーズでも活躍し、チームの日本一に大きく貢献した。この年の対巨人戦での登板直前に長男が誕生し、「睡眠時間3時間ぐらい」(本人のインタビュー談話より)というコンディションで粘投を見せ勝利を収める。その後ヒーローインタビューで、巨人戦中継で全国放送の中、子供の誕生に喜びを見せた。
2006年、第1回WBC日本代表に選出。しかし、渡米中に発熱などして調子が上がらず、本選で登板することはなかった。WBCの影響とされる足の故障で開幕から出遅れたが、4月26日の対オリックス・バファローズ戦で初登板、2安打完封、98球で復帰勝利。その後、シーズン最終登板となった対埼玉西武ライオンズ戦で10勝目を挙げ、2年連続の二桁勝利。1月1日にTBS系で放送された『スポーツマンNo.1決定戦』では、初参加ながらショットガンタッチで12m50cmを記録し総合6位。運動能力の高さを見せた。
2007年は、シーズンを通して先発ローテーションを守り、自己最多の投球回を達成。13勝を挙げ、3年連続の二桁勝利。2007年のクライマックスシリーズでも第1ステージ第2戦・第2ステージ第2戦で先発したが、第1ステージでは2回途中6失点の大乱調で敗戦、第2ステージでは足の痙攣が治まらず4回途中に降板した。なお、同年は北京五輪アジア予選日本代表に選出された。背番号はロッテでの41を稲葉篤紀に譲って14を着けた。初戦の対フィリピン戦を打者3人、2奪三振で締めた。オフにはポスティングシステムによるメジャーリーグ移籍の希望を訴えたが容認されず、総額2億円+出来高の2年契約を結んだ。
2008年、プロ12年目で初めて開幕投手(対北海道日本ハムファイターズ戦)に指名される。この時の相手投手はダルビッシュ有だった。6回途中まで無失点の好投を見せたが足の痙攣により降板、敗戦投手となってしまった。これ以降は右肩痛を発症したこともあり不調が続き5勝止まり。12敗を喫し、自己ワーストの防御率5.02と先発としての役割は果たせなかった。
2009年は、先発ローテーションの一角を担ったが、4勝13敗・防御率4.29という前年同様の不本意な成績に終わってしまった。救援時には4試合の登板で無失点、WHIP0.78、被打率.130と好投し、オフにはクローザーへ転向した[1]。
2010年4月6日より登録名を小林宏に変更した(後述)。オープン戦で右肘を痛めたため開幕を二軍で迎え、状態によっては長期離脱の可能性もあったが、開幕7戦目となる3月30日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で一軍に復帰し、初セーブを挙げた。4月26日に海外フリーエージェント (FA) 権を取得[2]。最終的に3勝3敗29セーブ、防御率2.21、WHIP1.07と好成績を残したが、開幕から5月まで防御率0.00、WHIP0.72、8月には月間防御率0.69、同WHIP1.08と好投した一方で、6月には月間防御率5.19、同WHIP1.73と不調に陥ったほか、9月には月間防御率4.72と救援失敗が相次ぎ、終盤にはセーブ機会でも登板を回避されるなど月によって好不調の激しいシーズンとなった。
オフには夢であったメジャーリーグを目指し、FA権を行使。球団は慰留せず、宣言残留を認めないことを伝えた。その後、複数のメジャー球団が興味を示していると報じられたが、メジャー契約のオファーはなかった。
阪神時代
2011年1月20日、FA行使直後より久保田智之・藤川球児に繋ぐ中継ぎの軸として獲得意思を表明していた阪神タイガースと初交渉し、阪神入団を表明。推定2年総額5億円で大筋合意した。そして同年1月28日に入団会見を開き、背番号はロッテ時代と同じ41となった[3]。しかしシーズン前半戦は6度の救援失敗(うち4敗)を喫するなど不振にあえぎ、7月26日の中日戦で移籍後初勝利を挙げたものの、調子は上がらず8月28日に2軍落ち。9月30日に再び1軍登録されたものの、10月4日の東京ヤクルト戦で失点を喫するなど最後まで不安定なままシーズンを終えた。
2012年は先発への転向を期すも不振で一軍昇格は無く、10月2日、戦力外通告を受けた[4]。
戦力外通告を受けた後、11月18日に古巣ロッテの鴨川秋季キャンプで入団テストを受け、2回を投げ6安打5失点の結果だった[5]。11月25日、不合格となったことが発表された[6]。
エンゼルス時代
2013年1月31日にロサンゼルス・エンゼルスとマイナー契約で合意し、2月14日に契約[7][8][9]。スプリングトレーニングに招待選手として参加していたが、3月4日に解雇される。
独立リーグ時代
その後、8月14日にBCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスへ入団[10]。7試合の登板で2勝1敗、防御率3.14とまずまずの成績を残したが、11月2日に自由契約となり、退団が発表された[11]。 11月22日に行われた、2013年度第2回12球団合同トライアウトに参加した[12]が、獲得に乗り出す球団はなかった。
2014年1月、2013年中に獲得を検討していた台湾プロ野球・統一セブンイレブン・ライオンズへの入団を希望したが、統一側がテストすら受けさせず不採用を決めた。2月12日には信濃グランセローズに入団することが報道され[13]、2月20日に投手コーチ兼任で正式に入団[14]。
プレースタイル
セットポジションから投げ下ろす140 km/h台のストレートと縦気味に変化するスライダー、フォーク、チェンジアップなどを武器としている。リリーフとして登板した際には最速151 km/hを記録したこともあった。 キレの良い変化球を低めに集める投球を持ち味とし[15]、3年連続の二桁勝利を記録していた2005年から2007年までの3年間は2.00を切る与四球率を記録していた。
調子の波が激しく、良い時には圧倒的な投球をするものの、悪い時には5回持たず降板することもある。また、2003年8月25日以降、2008年8月10日に敗れるまで、8月は5年越しで14連勝を記録した。一方で7月は調子が悪い年が多く、2007年は1勝も挙げることができなかった。
野手としてのセンスもあり、守備では「足技」を見せることもある。二遊間に抜けそうな打球を足で止めることがしばしばあり、テレビの珍プレー好プレーにも何度か登場した。2008年9月29日の対日本ハム戦で、小谷野栄一が放った強烈なピッチャーゴロを右足でトラップして宙に浮かせ、それを捕球し一塁へ送球しアウトにするというプレーを見せた。通常、先発投手は次の登板まではベンチ入りを免除される事が多いが、マリーンズ時代はボビー・バレンタイン監督に「延長戦で野手が足りなくなりそうな場合に備え、シーズン中はいつもベンチ入りしておくように」と言われ、実際に出場の準備をしたこともあるという[16]。2009年6月2日の対巨人戦でチームが野手をすべて使い切ったため、俊足を見込まれて延長12回裏に大松尚逸の代走で起用された。また、初めて打席に立った2005年セ・パ交流戦では、打率.300(10打数3安打、全て二塁打)、3打点をマークするなど、打撃でもその力を発揮した。
人物
この選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。 (2011年11月) |
足が長くモデル体型であり、端正な顔立ちからロッテ時代にはテレビ・ラジオなどで「ロッテのイケメンエース」と紹介されることがあった。ファッションにも気を使っており、好きなブランドはドルチェ&ガッバーナ。また、髪型や髪の色を頻繁に変えることがあり、2005年のプレーオフ - 日本シリーズではボストン・レッドソックスのブロンソン・アローヨにあやかり髪型をコーンロウスタイルにした。プレーオフのファーストステージではコーンロウで登板し勝利投手。続くセカンドステージでそれを止めたところ敗戦投手に。験を担ぎ日本シリーズでは再びコーンロウにして登板、勝利投手になっている。また、2006年のWBCの際、ファンからの公募で決めたヘアスタイルにしようとアメリカの理容店へ行ったが、英語がうまく伝わらず変な髪型になってしまったため急遽丸坊主にした。
プロ入り4年目までは芽が出ず、徹夜で酒を飲み歩いたまま練習に出るなど荒れた生活を送っていた。しかしヤクルトから入団した同級生の山崎貴弘に諭され真面目に練習に取り組み始め、その結果徐々に一軍定着を果たす。山崎がいなければ辞めていたと後に語る(本人のインタビューから要約)。当時から親交が厚い。
北京オリンピックの予選をともに戦った上原浩治と親交があり、小林は北京五輪の本戦のメンバーから漏れたが、五輪期間中も上原にアドバイスをしていた。2005年の交流戦のMVPで賞金を貰ったときに「何に使いますか?」と聞かれ、「(赤ちゃんの)ミルク代に使う」と答えたが、これに対して上原に「何千万、貰っているプロ野球選手がミルク代はないやろ」と説教されたという。
登録名・表記名について
1998年から2007年までは小林雅英が、2008年と2009年は小林憲幸が同じ球団に所属していたため、スコアボードや新聞上の表記は「小林宏」が使われていた。2010年シーズンは同姓の選手がいなくなったため「小林」と表記されることが多くなったが、本人は「小林宏」表記に愛着を持っており、「小林」に対し違和感があったことから、同年4月6日より山本昌と同様に名字と名前の一文字目を組み合わせて姓名の区別を付けない登録名に変更している。愛称は小林雅英の「コバマサ」に対して「コバヒロ」。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998 | ロッテ | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 11 | 2.1 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.71 |
2001 | 22 | 7 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | -- | .200 | 238 | 56.0 | 49 | 11 | 23 | 0 | 1 | 45 | 3 | 0 | 24 | 23 | 3.70 | 1.29 | |
2002 | 58 | 1 | 0 | 0 | 0 | 7 | 4 | 0 | -- | .636 | 333 | 81.2 | 67 | 12 | 27 | 5 | 1 | 84 | 9 | 1 | 25 | 23 | 2.53 | 1.15 | |
2003 | 50 | 14 | 3 | 0 | 0 | 10 | 10 | 0 | -- | .500 | 592 | 145.1 | 135 | 17 | 36 | 2 | 3 | 117 | 7 | 1 | 66 | 62 | 3.84 | 1.18 | |
2004 | 24 | 24 | 2 | 0 | 0 | 9 | 7 | 0 | -- | .563 | 666 | 154.1 | 162 | 22 | 57 | 3 | 4 | 137 | 7 | 0 | 77 | 73 | 4.26 | 1.42 | |
2005 | 23 | 23 | 4 | 1 | 1 | 12 | 6 | 0 | 0 | .667 | 666 | 160.2 | 157 | 14 | 28 | 1 | 6 | 129 | 6 | 0 | 60 | 59 | 3.30 | 1.15 | |
2006 | 20 | 20 | 3 | 1 | 0 | 10 | 7 | 0 | 0 | .588 | 578 | 142.2 | 129 | 14 | 27 | 2 | 4 | 120 | 5 | 0 | 51 | 44 | 2.78 | 1.09 | |
2007 | 25 | 25 | 5 | 2 | 1 | 13 | 3 | 0 | 0 | .813 | 699 | 170.2 | 157 | 9 | 38 | 0 | 4 | 163 | 7 | 0 | 56 | 51 | 2.69 | 1.14 | |
2008 | 23 | 23 | 1 | 0 | 0 | 5 | 12 | 0 | 0 | .294 | 618 | 138.0 | 155 | 15 | 45 | 3 | 2 | 112 | 5 | 0 | 85 | 77 | 5.02 | 1.45 | |
2009 | 24 | 20 | 4 | 0 | 1 | 4 | 13 | 0 | 2 | .235 | 582 | 134.1 | 142 | 16 | 35 | 1 | 7 | 120 | 7 | 0 | 70 | 64 | 4.29 | 1.32 | |
2010 | 57 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 29 | 5 | .500 | 249 | 61.0 | 51 | 2 | 14 | 1 | 3 | 53 | 6 | 0 | 17 | 15 | 2.21 | 1.07 | |
2011 | 阪神 | 42 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 21 | .167 | 181 | 39.0 | 43 | 2 | 19 | 4 | 2 | 45 | 8 | 0 | 17 | 13 | 3.00 | 1.59 |
通算:12年 | 370 | 157 | 22 | 4 | 3 | 75 | 74 | 29 | 28 | .503 | 5413 | 1286.0 | 1250 | 134 | 350 | 22 | 37 | 1125 | 70 | 2 | 548 | 504 | 3.53 | 1.24 |
- 2012年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
記録
- 投手記録
- 初登板:1998年7月4日、対福岡ダイエーホークス11回戦(千葉マリンスタジアム)、11回表2死に8番手として救援登板・完了、1/3回無失点
- 初奪三振:2001年6月8日、対オリックス・ブルーウェーブ12回戦(グリーンスタジアム神戸)、5回裏に進藤達哉から
- 初勝利:2001年7月9日、対福岡ダイエーホークス18回戦(千葉マリンスタジアム)、10回表2死に7番手として救援登板・完了、1/3回無失点
- 初先発:2001年8月5日、対西武ライオンズ21回戦(千葉マリンスタジアム)、4回1失点
- 初先発勝利:2003年7月9日、対大阪近鉄バファローズ14回戦(千葉マリンスタジアム)、7回無失点
- 初完投勝利:2003年9月28日、対オリックス・ブルーウェーブ25回戦(千葉マリンスタジアム)、9回5失点
- 初完封勝利:2005年8月26日、対オリックス・バファローズ16回戦(千葉マリンスタジアム)
- 初ホールド:2009年6月3日、対読売ジャイアンツ1回戦(千葉マリンスタジアム)、11回表に4番手として救援登板、1回無失点
- 初セーブ:2010年3月30日、対東北楽天ゴールデンイーグルス1回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表1死に2番手として救援登板・完了、2/3回無失点
- 1000投球回数:2008年7月22日、対北海道日本ハムファイターズ15回戦(札幌ドーム)、1回裏1死目に稲田直人を投犠打で達成 ※史上312人目
- 1000奪三振:2009年8月26日、対福岡ソフトバンクホークス17回戦(千葉マリンスタジアム)、8回表に川崎宗則から ※史上126人目
- 打撃記録
- その他の記録
- 2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表選出(1試合 0勝0敗0セーブ 防御率18.00 1回投球 3奪三振 自責点2)
- 北京五輪アジア予選日本代表メンバー選出
- オールスターゲーム出場:5回(2002年、2004年、2005年、2007年、2010年)
独立リーグでの成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
完 投 |
勝 率 |
投 球 回 |
打 者 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
奪 三 振 |
与 四 球 |
与 死 球 |
失 点 |
自 責 点 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 策 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2013 | 群馬 | 7 | 2 | 1 | 0 | 0 | .667 | 28.2 | 119 | 30 | 1 | 25 | 3 | 0 | 13 | 10 | 2 | 0 | 0 | 3.14 | 1.17 |
通算:1年 | 7 | 2 | 1 | 0 | 0 | .667 | 28.2 | 119 | 30 | 1 | 25 | 3 | 0 | 13 | 10 | 2 | 0 | 0 | 3.14 | 1.17 |
背番号
- 41 (1997年 - )
登録名
- 小林 宏之 (こばやし ひろゆき、1997年 - 2009年、2013年 - )
- 小林宏 (こばやしひろ、2010年 - 2012年)
登場曲
- #1 - Nelly
脚注
- ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2010』白夜書房、2010年、128頁頁。ISBN 978-4-86191-595-6。
- ^ 海外FAの権利を取得した小林宏投手のコメント - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト2010年4月26日閲覧
- ^ それまで「41」だった上園啓史は「47」に変更(その年のオフに東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍)。
- ^ “来季の選手契約について”. 阪神タイガース公式サイト (2012年10月2日). 2012年10月2日閲覧。
- ^ ロッテ追試の小林宏2回6安打5失点 - デイリースポーツ online 2012年11月18日
- ^ “時事ドットコム:GG佐藤を獲得=小林宏は不合格-プロ野球・ロッテ”. 時事ドットコム (2012年11月25日). 2012年11月25日閲覧。
- ^ Angels ink Japanese reliever Kobayashi to Minors dealMLB.com、2013年2月5日。
- ^ 前阪神の小林がエンゼルスに マイナー契約で 山陽新聞 2013年2月1日11:49配信 配信日に閲覧
- ^ 前阪神の小林がエンゼルスに Daily Sport OnLine2013年2月1日配信 配信日に閲覧
- ^ 小林宏がBC群馬入団=野球独立リーグ - スポーツナビ online 2013年8月14日
- ^ 退団選手決定のお知らせ - BCリーグ 2013年11月2日
- ^ [http://www8.shinmai.co.jp/grandserows/article.php?id=GRAN20140213001850 小林宏之投手を獲得 ロッテで2度の日本一経験 ]
- ^ 小林 宏之の入団記者会見
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹『プロ野球スカウティングレポート2008』アスペクトムック、2008年、288-289頁頁。ISBN 978-4-7572-1439-2。
- ^ 猛虎ファイルインタビューにて(2011年7月31日深夜放送)
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 MLB、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 個人年度別成績 【小林宏(小林宏之) (阪神タイガース)】 - 日本野球機構オフィシャルサイト