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旭道山和泰

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旭道山 和泰(きょくどうざん かずやす、1964年10月14日 - )は、鹿児島県大島郡徳之島町出身の元大相撲力士、元衆議院議員タレント実業家。本名は波田 和泰(はた かずやす)。

実弟は、幕内格行司の木村寿之介、元五等呼出の松男(2013年現在でも現役の十両呼出とは別人)。

来歴

誕生~角界入り

旭道山 和泰
基礎情報
四股名 旭道山 和泰
本名 波田 和泰
愛称 南海のハブ・サンダースキッド
生年月日 (1964-10-14) 1964年10月14日(60歳)
出身 鹿児島県大島郡徳之島町
身長 182cm
体重 107kg
所属部屋 大島部屋
得意技 右四つ、上手投げ、張り手
成績
現在の番付 廃業
最高位 西小結
生涯戦歴 538勝551敗(100場所)
幕内戦歴 325勝380敗(48場所)
優勝 序ノ口優勝1回
殊勲賞2回
敢闘賞2回
データ
初土俵 1980年5月場所
入幕 1989年1月場所
引退 1996年11月場所
引退後 衆議院議員、タレント、実業家
備考
金星1個(1個)
2013年7月21日現在

1964年10月14日東京の三軒茶屋の小児科病院でで長男として生まれる。未熟児として生まれ、黄疸・小児喘息が出ていて、交換輸血を3回した。三歳の時に母型の実家である鹿児島県へ転居した。[1]物心が付く前に父が離島の閉鎖的な生活に馴染めず別居して4人兄弟の母子家庭となった。母からは「泣いては駄目。けど・でも・たら・ればの言い訳もするな。」などを教育され、長男として3歳の弟などの面倒を見ていた。幼い頃のある日、母が子供2人を「ちょっと行ってくる」と残して出かけ、一週間後に出産して帰ってきた。こうした少年期であった。[1]自身が9歳の頃、徳之島町立亀津小学校では剣道部に所属して、島大会で優勝、奄美大島群大会で優勝、鹿児島県大会に出場した。徳島町立亀津中学校では中学2年の時にバレーボール部に入部し、島大会で優勝、大島郡大会で優勝して以降は鹿児島県大会でも活躍した。卒業後は当初、高等学校へ進学する予定だったが、母親の知人が相撲部屋の後援会の会員で、最初は高砂部屋に話をもっていったが、体が小さくもっと大きくなってからいらっしゃいねと断られ、まだできたばかりの大島部屋に補充要員として入門した。その時、母親からいわれた言葉は、「あんたは男でしょ、人生かけてらっしゃい、3年我慢して、もしだめだったらちゃんこやでもやればいいじゃないの」と言われ本人は長男としての役目だと思い入門を決意した。しかし本人は、相撲も取ったこともなく、相撲が好きでなかった。[1]1980年5月場所にて初土俵を踏み、翌7月場所では序ノ口優勝をした。優勝の賞金は母に中古だったが指輪をプレゼントをする資金にした。[1]1988年7月場所に新十両昇進、1989年1月場所に新入幕を果たした。

入幕当初は体重が100kgにも満たない軽量力士[2]だったが運動神経が良く、立ち合いに頭で当たってから相手に食い付く正攻法の取り口で、右を差してから廻しを取ると粘り強かった。さらに投げや捻りもあることから「南海のハブ」という愛称が付けられた。

新入幕となった1989年1月場所では、9勝を挙げて初の三賞となる敢闘賞を受賞した。入幕後は細い身体ながら、どんな対戦相手でも逃げずに真っ向勝負を挑んだことで負傷が多かったものの、1990年3月場所2日目の対千代の富士貢戦では取り直しとなる大熱戦を演じた[3]。この後も力量が増していき、1992年7月場所では横綱が不在、大関・曙太郎が全休していたが、出場した小錦八十吉霧島一博を敗る活躍を見せて初の殊勲賞を受賞した。この活躍が認められて、同年9月場所ではまたも横綱不在での小結昇進となったが、8勝7敗と勝ち越して2度目の敢闘賞を受賞した。

前頭2枚目で迎えた1993年3月場所では、6日目にこの場所新横綱だった曙太郎を下手捻りで破り、自身唯一の金星を挙げた。また、同場所13日目の対久島海啓太戦では勢いに乗るがままに立ち合いの張り手で倒した[4]。この場所を9勝6敗と勝ち越して2度目の殊勲賞を受賞した上に三役返り咲きを決定的にしたが、対戦相手の久島海は現役引退までにこの怪我によって、一度も三役に昇進できなかった。結果的に久島海の三役昇進の夢を打ち砕いてしまったことで、協会から旭道山の張り手へ対する批判が集中したことで、この取組以降で旭道山は張り手を自粛するようになった。それ以前にも栃乃和歌が旭道山から張り手を受けて失神した一番の直後に「あいつはアタマがおかしいんじゃないか」とクレームがきていた。ほかにも、10人の現役力士を張り手で倒している。

現役終盤期には師匠の大島が連れてきた旭天鵬ら6人のモンゴル人力士の指導を任されたこともあり、それまでお客様扱いされたことで大島の指導に耳を貸さなくなった6人達を一転して厳しく指導したと伝わる。[5]

国会議員転向~実業家へ

旭道山 和泰
きょくどうざん かずやす
生年月日 (1964-10-14) 1964年10月14日(60歳)
出生地 鹿児島県大島郡徳之島町
出身校 徳之島町立亀津中学校
前職 大相撲力士
所属政党 (新進党)→
(新党平和→)
無所属

日本の旗 衆議院議員
選挙区 比例近畿ブロック
当選回数 1回
在任期間 1996年10月20日 - 2000年6月2日
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現役時代の1996年10月、旭道山は第41回衆議院議員総選挙新進党から比例区で立候補するために廃業届を日本相撲協会に提出したが、境川理事長は保留扱いとしていた。これは、もし旭道山が落選した場合にすぐ角界へ戻れるように配慮したものだったが、比例近畿ブロック10位で見事に当選を果たした(新進党の当選者156人のうち、153人目)。これによって、正式に廃業届が受理され、旭道山は同年11月場所の番付に四股名を残したまま、国会議員としての活動を開始した(断髪式までは丁髷姿のまま登院した)。

新進党の解党後は、新党平和を経て無所属となったが、院内会派は自由民主党公明党の連立与党の中で唯一、無所属で参画した。

2000年6月に衆議院が解散すると同時に政界を勇退した。勇退の際、「3年8ヶ月、衆議院議員として在任していた中で一番手掛けた重要法案は介護保険法。その当時、厚生委員会の委員であって反対多数の中を賛成へ持って行った。その後、2期目のお話を頂いたがお断りした」と語っている。また、自由民主党幹事長野中広務(当時)は勇退パーティーの会場で「こいつ(旭道山)は、次(の任期)があるのに、普通は受けるのに自分で辞退した。自分の生き方を貫いた。年は違うけど旭道山の事を『戦友』と私は呼ぶ」と語った。

政界勇退以降は現在まで、タレント・実業家として活動している。2000年秋には有限会社「旭ドリーム」を設立して健康食品の販売を始めたほか、2009年3月18日には東京・銀座に焼肉店「焼肉kyoku」を開店した。

エピソード

  • 北勝鬨準人と共に、平成時代で最初の新入幕力士だった。
  • 1991年11月場所12日目の寺尾常史 - 琴ヶ梅剛史戦の取組前、旭道山が土俵下で控えていた時に、一般の泥酔男性客が突然土俵に上がろうとした。これを見つけた旭道山が慌てて泥酔者をつまみ出すハプニングが発生した。このエピソードは2003年11月7日放送の「謎を解け!まさかのミステリー」で紹介された。この件は雑誌などで「○旭道山-泥酔者[6]● (掬い投げ)」などと実際の取組のように記述された。
  • 結果として旭道山が張り手を自粛したのは1993年3月場所13日目の久島海戦以降であるが、自粛した直接のきっかけはそれより前となる同年1月場所初日の貴ノ浪戦である。2度に渡って張り手でつっかけたばかりか、3度目に立合いが成立して上手投げで勝利した際には自身の膝が貴ノ浪の顔面に当たるというハプニングが発生している。
  • 旭道山の廃業後、「廃業」では語感が悪いということで、「廃業」の呼称を廃止して、現役力士が角界から身を引く場合でも(親方として相撲協会に残るかどうかに拘らず)「引退」に統合、親方は「退職」に変更した。これによって旭道山は、角界最後の「廃業力士」となった。
  • 『旭道山和泰』の四股名は、力士として入門以来廃業まで改名することなく名乗っていた。続く衆議院議員時代も通名としてそのまま使用し、さらにタレント転業後に至るまで一貫して名乗っている。

母の存在

母親は旭道山から家を買い与えられるなど援助を受けながら金銭トラブルを繰り返し引き起こしていたという。25歳の頃に旭道山が実父が病気に倒れたことを聞きつけて面会を母に願い出たところこれを断られ、以降母との間に深い溝ができたとも伝わる。それでも旭道山は母の面倒を見ることを止めず、2010年頃にちゃんこ屋を母に任せたがこれも母が店の経営を放棄して失踪したことにより頓挫。この際「お母さん。もうあんたに養ってもらうの、やめた!」と言い放たれたことで「逃げるなと言っていたくせに自分は逃げてるじゃないか!」と憤慨した旭道山は母との絶縁を決意。[1]

2014年9月、心理カウンセラー心屋仁之助が立ち会った中で母と4年ぶりに再会し、母はちゃんこ屋を放棄した理由として共に経営を行っていた次男から解雇通達を受けていたことを明かした。さらに、面倒を見てもらったことに対する感謝やこれまで迷惑をかけたことに対する悔恨を口にしたが、旭道山は徹底して突き放した。さらに序ノ口優勝賞金で買った指輪(前述)について話しても、旭道山は「そういうの(感動なもの)はいらないから」と切り捨てた。心屋はこの旭道山の厳しい態度を「遅れた反抗期」、「意地を張るのを辞めた日」と評した。[1]

主な成績

  • 通算成績:538勝551敗 勝率.494
  • 幕内成績:325勝380敗 勝率.461
  • 現役在位:100場所
  • 幕内在位:48場所
  • 三役在位:3場所(小結3場所)
  • 三賞:4回
    •  殊勲賞:2回(1992年7月場所、1993年3月場所)
    •  敢闘賞:2回(1989年1月場所、1992年9月場所)
  • 金星:1個(1個)
  • その他の記録:1089回通算連続出場
  • 各段優勝
    • 序ノ口優勝:1回(1980年7月場所)

場所別成績

旭道山 和泰
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1980年
(昭和55年)
x x (前相撲) 西序ノ口36枚目
優勝
7–0
東序二段69枚目
2–5 
西序二段88枚目
6–1 
1981年
(昭和56年)
西序二段22枚目
3–4 
西序二段36枚目
4–3 
東序二段21枚目
5–2 
東三段目75枚目
4–3 
西三段目61枚目
4–3 
西三段目49枚目
3–4 
1982年
(昭和57年)
西三段目60枚目
2–5 
西三段目84枚目
4–3 
西三段目72枚目
4–3 
東三段目54枚目
3–4 
東三段目69枚目
4–3 
西三段目44枚目
5–2 
1983年
(昭和58年)
東三段目14枚目
1–6 
西三段目50枚目
3–4 
東三段目68枚目
2–5 
東序二段5枚目
5–2 
東三段目64枚目
6–1 
東三段目15枚目
2–5 
1984年
(昭和59年)
西三段目37枚目
5–2 
東三段目6枚目
2–5 
西三段目30枚目
5–2 
西幕下58枚目
3–4 
東三段目11枚目
5–2 
東幕下42枚目
3–4 
1985年
(昭和60年)
西幕下55枚目
3–4 
東三段目7枚目
5–2 
東幕下45枚目
4–3 
東幕下32枚目
4–3 
西幕下24枚目
5–2 
東幕下11枚目
3–4 
1986年
(昭和61年)
西幕下21枚目
3–4 
東幕下32枚目
4–3 
東幕下22枚目
4–3 
東幕下16枚目
4–3 
東幕下11枚目
4–3 
西幕下5枚目
4–3 
1987年
(昭和62年)
西幕下2枚目
2–5 
東幕下14枚目
3–4 
西幕下19枚目
4–3 
東幕下14枚目
4–3 
東幕下8枚目
5–2 
西幕下2枚目
2–5 
1988年
(昭和63年)
西幕下16枚目
4–3 
西幕下10枚目
5–2 
西幕下4枚目
6–1 
西十両12枚目
10–5 
西十両5枚目
8–7 
東十両2枚目
10–5 
1989年
(平成元年)
東前頭12枚目
9–6
西前頭5枚目
5–10 
西前頭9枚目
8–7 
東前頭7枚目
6–9 
西前頭10枚目
8–7 
西前頭6枚目
7–8 
1990年
(平成2年)
東前頭8枚目
8–7 
西前頭5枚目
6–9 
西前頭7枚目
5–10 
東前頭13枚目
9–6 
西前頭8枚目
6–9 
西前頭11枚目
8–7 
1991年
(平成3年)
西前頭7枚目
8–7 
東前頭3枚目
5–10 
西前頭10枚目
8–7 
東前頭7枚目
8–7 
西前頭4枚目
6–9 
西前頭8枚目
8–7 
1992年
(平成4年)
東前頭6枚目
7–8 
西前頭8枚目
8–7 
東前頭6枚目
9–6 
東前頭2枚目
9–6
東張出小結
8–7
西小結
4–11 
1993年
(平成5年)
西前頭6枚目
8–7 
東前頭2枚目
9–6
西小結
4–11 
西前頭3枚目
4–11 
東前頭11枚目
8–7 
西前頭7枚目
6–9 
1994年
(平成6年)
東前頭10枚目
8–7 
東前頭4枚目
5–10 
西前頭9枚目
8–7 
西前頭3枚目
5–10 
東前頭7枚目
8–7 
西前頭2枚目
2–13 
1995年
(平成7年)
東前頭12枚目
8–7 
西前頭8枚目
6–9 
西前頭11枚目
8–7 
東前頭8枚目
5–10 
東前頭14枚目
9–6 
東前頭7枚目
4–11 
1996年
(平成8年)
西前頭15枚目
9–6 
東前頭7枚目
5–10 
西前頭13枚目
9–6 
東前頭12枚目
8–7 
東前頭9枚目
6–9 
西前頭14枚目
引退
0–0–0
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

著書

  • 待ったなし人生―旭道山和泰自伝(1997年、ISBN 4583034296

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脚注・補足

  1. ^ a b c d e f 解決!ナイナイアンサー(日本テレビ)2014年9月2日放送分
  2. ^ 舞の海秀平が入幕するまでは幕内最軽量力士だった。
  3. ^ 結果的には千代の富士が寄り切りで勝利し、これが両者の唯一の対戦となった。
  4. ^ 具体的には脳震盪を起こさせて意識を奪い、勢いよく土俵に両膝を付かせたが、その際に両膝じん帯を損傷させて久島海は途中休場に追いやられた。
  5. ^ 焼肉店経営の旭道山和泰 モンゴル横綱誕生の立役者だった 日刊ゲンダイ 2014年7月20日
  6. ^ 一部では「酔っ払い」と表現。

関連項目

外部リンク