概念
概念(がいねん)、コンセプト(羅、仏、 英: concept、独: Begriff)は、命題の要素となる項であり、言語的に構成された場合に名辞となるもの。
事象に対して、抽象化・ 普遍化してとらえた、思考の基礎となる基本的な形態として、脳の機能によってとらえたもの。
概要
言葉で表現された概念を「名辞」と呼び、言語の構成要素として、それを組み合わせ、述べ表し、判断・認識可能なものとして現実世界をとらえて表現する。人間はほぼこのような概念化した名辞によって、この世の中のあらゆることを理解したり、表現したりしている[要出典]。 また概念は、それを提議・提唱する者の心性、視点、立場、精神的なポジション・在り方を反映する。
コンセプトは、それらを敷衍し同様に扱うことによって、個々の物事・出来事の間の違いを省き、物事・出来事の間に共通する大要、要約、見解、イメージ、つまりは「普遍的概念」となる。このコンセプトは、実在の出来事や事件、物事の関係を種類に分け、分類化し、カテゴライズし、クラス分けをするのに貢献する。またコンセプトは、文脈の中の要素になっている場合「提案、提議、申し出、計画、命題」(の要素)を意味する。
概念は人間の精神に存在する何かであり、抽象的、普遍的なものである。精神外部の世界に存在するものや、出来事や、それらの関係について概念が存在する。ひとつの概念は個々の事物というよりも、事物の集合に対して存在する。
という説明がなされることがあるが、「精神」という曖昧な言葉によって説明をするのは適切とは言えない。仮に精神という語が「自発的に活動をする何か」だとすると、例えば『光合成は植物の精神に存在する何かであり栄養生産的なものである』と言うのと変わらないであろう。そのような意味で、植物や無機物に「精神が無い」と客観的に証明するのは不可能であるから。一方で自発的に行為を産み出す「何か」を問題にせず、単にそれに情報を与える機能、つまり認識作用は確実に存在し、実際に人間の活動はその前提の下で行われているのだから、むしろ概念は「認識作用の一つであり、人間のみが持つ抽象的認識作用」と考えるのが適当であろう。同様に、上記の説明にある「精神外部の世界」というのは何を意味しているのか不明である。仮に精神を認識作用という意味で用いているのであれば、認識作用を超えたものを認識できるのいうのは不可能であるから。さらに、「概念は個々の事物というよりも、事物の集合に対して存在する。」という説明は、概念が先にそれだけで存在するかのような誤解を招くが、実際には知覚に現れる対象が先にあり、我々は後から概念をその事物からいわば抽出している。例えば「動物」という動物は存在せず、実際に視覚や聴覚に現れて直接に認識できる馬や豚が先にあって、後から我々が抽象的に「動物」という、直接的な知覚とは別種の抽象概念を作り出す。
概念は、個々の物事の細かな相違点を無視して、それらが同一であるかのように扱うという意味で抽象的である。概念は、(それが表す)個々の事物すべてに当てはまるという点で普遍的である。
例として「犬」という概念を挙げる。概念としての犬は、個々の犬ではなく犬の集合に対して存在する。実際には白い犬もあれば黒い犬もあるが、それらの相違点を無視して同一であるかのように扱うので抽象的である。また、例えば4本足であり、尻尾があり、哺乳類であるといった概念としての犬に当てはまることは個々の犬すべてに当てはまるという意味で普遍的である。
概念は意味の担い手である。一つの概念は複数の言語で表現することができる。例えば、「犬」という概念はドイツ語では 'Hund' と、フランス語では 'chien' と、スペイン語では 'perro' と表現される。概念がある意味で言語とは独立したものであるということが、翻訳を可能にする。つまり、同一の概念を表す様々な言語の言葉は「同じことを意味する」。
しかし、我々の外部に客観として知覚される現象、つまり「犬」や「橋」のように目で見られ、手で触ることもできる客観についてこれは当てはまるが、それに当てはまらない例である人間の感情を表す語については事情は異なる。例えば日本語の「あはれ」という語や、フランス語の「ナイーヴ」といった語の微妙なニュアンスを、他国の語にニュアンスを変えず翻訳するのは困難である。ゆえに、概念が客観性を得ることができるのは知覚すなわち抽象化を経る前の直接的認識が前提であり、単なる概念を媒介した抽象的認識で知識が増えるわけではない。
さらに、『同一の概念を表す様々な言語の言葉は同じことを意味する』という説明の仕方は、概念がただ単独にそれぞれの言語に対応するかのような誤解を招くが、実際はそうではない。「犬」と「dog」が同じ意味を持ちうるのは、我々の視覚や聴覚に直接に表れる客観としての犬が共通に認識されるからであって「概念がある意味で言語とは独立したものである」のではなく、直接的認識(知覚)が、地域による言語体系とは無関係に客観として独立して存在しているからであろう。絵画や音楽といった、概念を経ない認識による作品が、言語体系とは独立して普遍性を得るのも、このことによる。さらに、もしも『概念がある意味で言語とは独立したものである』というのが真実であれば、言語は概念の組み合わせではないことになってしまい、この説明は破綻している。それは「犬」や「魚」といった言葉が、概念とは別のものであると言うのと同じであろう。
名辞
言葉が文の要素であるように、概念は命題の要素である。概念が言葉で表現されたものを名辞(めいじ)という。ひとつの命題として
「AはBである」
とした場合に、「A」を主辞、「B」を賓辞という。
特に抽象名辞(抽象概念)は、言語や数字や記号で現実世界を表す。または現実にないものをあるものとして存在させるために 表現する手段である。
作品の概念・コンセプト
人の手による絵画・書画・曲・文芸等の作品は、作者がその作品に込めた意図・意匠・目的・思い等の概念を有し、これを表現しており、「作品のコンセプト」等と言われている。又、受け手の感じ方によって新たな概念が付加される場合があり、作品に接する時代性や社会的価値観などの変化に伴って変わる。
芸術における概念(抽象概念)は、心で感じ取ったものを2次元(絵画)、3次元(立体彫刻など)で表現したものといえる。音楽も同様で、心で感じ取ったものを楽器の音、人間の声を構成して表現している。写真はそのときの作者(撮影者)の心情と場面をその瞬間の調和で作り上げる即興的芸術ともいわれる。
とは言えこの用法は、いわば比喩的表現であって、本来の普通の意味で用いられている「概念」、つまり抽象的認識作用のことを意味するのではないであろう。もしも絵画や音楽によって表現され、我々に何らかの印象もたらす芸術作品が端的に概念に変換されうるものであれば、わざわざ楽器や絵を用いずとも、概念によって表現すれば、制作も他者への情報伝達も極めて容易であるから。例えば花の絵があるとして、その絵は単なる「花」という概念よりも多くの情報を持ち、我々はそれによって単なる概念以上に何らかの心的影響を受けている。そうであるならば「作品とは概念を表現するものである」という説明は実際に起きていることと矛盾している。さらに、もしも概念によって芸術的技能に寄与することがあるとすれば、わざわざ楽器や絵画の実際的練習を積まずとも、教則本などによって概念による抽象的認識を得ればそれで事足りるはずであるが、実際はそうではない。ゆえに、概念を「言葉を用いた抽象的認識」と定義するならば、この項に書かれているような意味で「概念」という語を用いるのは適切ではない
脚注
関連項目
外部リンク
- Concepts - インターネット哲学百科事典「概念」の項目。
- Concepts - スタンフォード哲学百科事典「概念」の項目。