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須賀田礒太郎

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須賀田礒太郎

須賀田 礒太郎(すがた いそたろう、1907年(明治40年)11月15日 - 1952年(昭和27年)7月5日)は日本作曲家

略歴

幼少の頃

 1907年 (明治40年) 11月15日、横浜市中区 (現在は西区)西戸部町で、須賀田彦造・サハ夫婦の長男として生まれる。 (兄弟は弟・喜彦、妹・美代子) 同年は小船幸次郎平尾貴四男松平頼則深井史郎大澤壽人といった作曲家たちが、相次いで誕生している。須賀田家は明治時代に祖父が生糸の取引などで莫大な財をなし、裕福な家庭であった。そんな恵まれた家庭環境の中何不自由なく育った須賀田は幼少からいろいろなものに興味を持ち、特に美術と音楽に関しては非凡な才能を現わしていた。

音楽の道へ 

須賀田は美術・音楽の何れの道に進むか迷っていたが、関東学院中学に入学後、本格的に音楽を志すようになる。彼はまずピアノを同校教師・石野博に、声楽と理論を鎬木欽作に、ヴァイオリンを山井基清に学んだ。山井は宮内省楽部の楽士を努めていた人物で、日本古来の雅楽を西洋の五線に移す作業をライフワークにしており、彼がオーケストラ用に作・編曲した雅楽風作品を、宮内省楽部はよく演奏していた。1927年 (昭和2年)、須賀田は肺結核に罹患し、関東学院中等部5年をやむなく中退した。「自らに残された道は、もはや作曲しかないのではないか」こう思い至った須賀田は病状が安定後、次々と音楽界の大家たちの許を訪れ、教えを乞うた。こうした須賀田を経済的にバックアップしたのは、祖父と母であった。須賀田はまず当時の日本作曲界の重鎮・山田耕筰信時潔の両氏にドイツ・ロマン派の作曲理論の指導を仰いだ。翌1931年 (昭和6年)からはフランス近代音楽に傾倒していた菅原明朗にも管弦楽法を学んだ。1933年 (昭和8年)、マーラーの直弟子であるクラウス・プリングスハイムの門を叩く。また「越天楽」の作曲で広く海外に評価されていた近衛秀麿の門も叩いた。

作曲コンクールへの応募 

数多くの師から様々な作曲技法を学んだ須賀田は、交響詩「横浜」(1928)、管弦楽曲「春のおとずれ」(1931)、交響詩「桜」(1933) などのフランス印象派風の習作を経て、作曲コンクールへの応募を開始する。1936年、宮内省式部職楽部主催の管弦楽曲募集コンクールに「日本華麗絵巻」作品一が入選。日本放送協会主催の「祝祭典用管弦楽曲懸賞」に「祭典前奏曲」作品二が4位に入選、翌年の元旦にラジオ放送された (初演指揮は坂西輝信) 。また黎明作曲家同盟主催日本現代作品発表会にも「前奏曲と遁走曲」作品三が選ばれ、演奏された。1938年、新交響楽団 (現NHK交響楽団) 主催第2回邦人作品コンクールに「交響的舞曲」作品四 (三管編成/演奏時間6分) が小船幸次郎「祭りの頃」、山田和男「若者のうたへる歌」、平尾貴四男「隅田川」、荻原利次「日本風舞曲」とともに入選、2月25日、日本青年館においてヨーゼフ・ローゼンシュトック指揮する新交響楽団によって初演された。「交響的舞曲」は同年6月、ローマ、ワルシャワ、ヘルシンキにおいて、小船幸次郎の指揮により伊福部昭の「日本狂詩曲」等と共に演奏されている。受賞に際し、須賀田は次のように語っている。

自分はまだまだ後期ロマン派の技法を充分習得しているとは言えず、この作品の作曲にあたっては試行錯誤を重ねたが、現時点では最善を尽したつもりである。真に日本の民族的な真情を芸術作品として昇華させるには、これからは後期ロマン派の手法を身につける事が不可欠であると自分は考える。

国民詩曲」依頼 

同年、日本放送協会 (JOAK) から須賀田のもとに初の作曲依頼が舞い込んだ。この年から始まった「国民詩曲」シリーズの依頼で、国威発揚を目指し「日本の民謡旋律を主題とすること」がその条件となっていた。当時この「国民詩曲」シリーズの作曲依頼を受ける事は一流の作曲家として認められる事を意味しており、依頼を受けたのは須賀田以外に飯田信夫池内友次郎太田忠大中寅二清瀬保二江文也菅原明朗杉山長谷夫服部正平尾貴四男深井史郎松平頼則宮原禎次山田和男山本直忠大木正夫といった面々で、音楽学校歴も無く兵役検査にも合格しなかった須賀田にとっては名誉な事であったろう。こうして生み出されたのが国民詩曲「東北と関東」作品五 (三管編成/演奏時間15分) である。1939 (昭和14) 年12月7日午後8時、ラヂオ「国民詩曲の夕」の中で金子登指揮日本交響楽団により「東北と関東」は放送初演された。放送にあたり、須賀田は下記のような楽曲解説を寄せている。

昭和13年12月の作。民謡の内にある二ツの姿を書いた二部作。此二曲は現実生活の憂鬱な感情から開放される祭の雰圍気を描出したもので、何れも憂鬱な導入部から始まり、明朗諧謔的な感情へ展開される。第一部は、心に完全を描いて、其れが現実に對して皮相的とは言へ、神社の境内に於て素直に嬉しく踊る人々の様子を表現し、依ッて主題には「よされ節」を用ひ、東北的な感情を描出した曲。-----構成はロンド形式。第二部、此は前者に反し、物事に關して先ず現実的な直接行動に移す、元気な江戸ツ子気質な、關東的な感情を描出した曲。------構成はソナタ形式。

「東北と関東」スコアには須賀田自身により、以下のような初演記録が書き残されている。

昭和14年12月7日午後8時より、日本放送協会にて國民詩曲の夕として放送初演。指揮はそれぞれ作曲者がなす立て前であったが、大管弦楽の指揮未経験なるため、友人の金子登君に頼んだ。-- 金子君は指揮法の勉強中にて、日本交響樂團を指揮したき熱望にて、彼貳度目の棒を持った。従って残念乍ら不結果であった。昭和17年6月12日午後2時、日本放送協会より、海外向放送を行ふ。-- 指揮は協会より金子君を指定し、再度なるため充分説明をなし、依って前回よりやゝ良好であツた。旋律が浮いて来て、立体感が出て来た。

戦時中の須賀田

「交響的舞曲」を境に、須賀田は創作の根幹として来たフランス印象派的作曲法からドイツ・オーストリア伝統の後期ロマン派の緊密な作曲法へと、その作曲手法を移して行く。緊迫した世相もそのような作品を求めており、コンクールでも高く評価されていたという事情もあった。1939年 (昭和14年) には「交響的序曲」作品六が、NHK主催・皇紀2600年奉祝管弦楽曲懸賞・序曲の部に、早坂文雄の「序曲ニ調」と共に入賞、翌40年2月11日の紀元節に山田耕筰指揮・日本放送交響楽団 (新交響楽団の放送時の別称) により放送初演された(原題は「興亜序曲」)。同年、紀元2600年記念日本放送協会コンクールに軍隊行進曲「皇軍」、満州國新京音楽院コンクールに歓喜 (東和行進曲) 、JOAK作曲コンクールに進撃 (航空行進曲) の、3曲の管弦楽のための行進曲が立て続けに入選した。行進曲「皇軍」は、須賀田には珍しく作曲当時の録音 (演奏/東京交響楽団) が残されている。なおこの3曲の行進曲はその後、靖国神社春秋臨時大祭に使用のためにJOAKより委嘱された「英霊に捧ぐ」と共に「作品7」として須賀田自身の手によってまとめられた。戦時中の須賀田の活躍は実に目覚ましいものであった。現在筆者はその詳細を鋭意調査中だが、「台湾舞踏曲 (八月十五夜)」、序曲「万民翼賛」、「大平洋円舞曲」、フーガによる舞踊曲など、戦争に関連したタイトルを持つものを中心として、10曲以上もの作品が書かれ、その多くは連日のようにラジオから放送されたという。1942年 (昭和17年)には日本ビクターの第1回管弦楽曲懸賞に、彼の初の交響曲となる「交響曲第1番ハ長調 (フィルハーモニー交響曲)」作品十四 (三管編成/演奏時間27分) が佳作入選した。(初演指揮は阪本良隆)

葬送曲・追想

1941年 (昭和16年) 、須賀田はJOAKから戦死者葬送のための音楽の作曲を委嘱され、大平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941年)11月1日に、「葬送曲・追想」が作曲された。「葬送曲・追想」には、それまでの須賀田の音楽には見られなかった内的心情の吐露が見られる。昭和18年(1943年)6月7日、山本五十六大将の国葬にあたり、この「葬送曲・追想」が演奏されることになった。この歴史的事実により戦後この作品は「軍国主義の機会音楽」という目で見られるようになり、その後一度も再演の機会を得ることなく今日に至っている。数々の作品が評価され演奏された結果、須賀田は1937年より帝国高等音楽学校作曲科嘱託として1944年 (昭和19年) 同校が廃校になるまで勤務、また横浜合唱団の指揮者としても活躍した。しかし戦局の悪化と共に横浜でも空襲の危機が現実のものとなりつつあった。1944年 (昭和19年) 、須賀田は父親の故郷である栃木県田沼町への疎開を余儀無くされ、同地で終戦を迎えた。

田沼町の須賀田礒太郎

終戦後も、病弱な須賀田は田沼町(現・佐野市)に留まった。疎開当初は会社事務の仕事などにも携わったが、持病の肺結核の発作のため実家で療養生活に専念する事を余儀無くされた。戦前輝かしい入賞歴を誇った彼の管弦楽曲の数々も、戦後は再演の機会はおろか存在すら無視された。音楽学校出身など学閥とは無縁、楽界の付き合いの薄さ等もあり、須賀田は次第に中央楽壇から忘れられていく。戦前からの繋がりでNHK(旧JOAK)から作曲依頼が舞い込んではくるものの、その多くは通俗的な短い曲や民謡の編曲といった依頼ばかりであった。しかしそんな逆境にあっても、須賀田は決して自らの創作活動を滞らせることはなかった。

戦争で疲弊した人々が今、何よりも明るい明日を感じ取れるような音楽を求めているのであれば、いま自分が果たすべき役割は、そのような分野で努力する事しかないのだ。

こうしてこうした通俗的小品の分野で、須賀田は「行進曲集・第二輯」Op.17、「通俗楽曲集 第1輯」Op.21, 「通俗楽曲集 第2輯」Op.24など、数多くの作品を産み出した。1950年 (昭和25年)、NHKラジオ歌謡に応募するために作曲した「ご飯の歌」(深尾須磨子/作詩)が入選する。その報に接した須賀田は、次のような感想を述べている。

この曲が選ばれるとは甚だ意外なり

1950年 (昭和25年)3月21日、小野淑子の独唱によりNHKから初放送されて以後、「ご飯の歌」は地元・田沼町の人々にずっと歌い継がれ、その後須賀田音楽の復権に重要な役割を果たした。田沼町の父親の実家では、その二階が須賀田の仕事部屋であった。彼の作曲に打ち込む姿勢は、それは厳しいものであった。彼が仕事部屋でピアノを弾いている時は、家族の誰もが恐がって近付けなかったという。楽想に行き詰まった時など、集中するため深夜でも頭から冷水をかぶり、自らを奮い立たせ作曲を続けた。須賀田の姪 (妹・美代子の子)の黒澤陽子は語る。

伯父様が良いとおっしゃらなければ、私たちは決して2階の仕事部屋には入ってはならないことになっていました。でも作曲に疲れた時など、私たち子供を部屋に招き入れ、一緒に遊んでくれたことを覚えています。伯父は手先がとても器用で、機関車の模型などを作る事も得意でした。

ある日、伯父の自転車に乗せてもらって、イナゴ採りに行ったことがありました。「これが、イナゴだよ」伯父に教えられ、私は面白くて夢中でイナゴを取りました。そして、二人で大収穫をあげる事が出来たんです。「陽ちゃん、うまいね・・・」伯父は優しく誉めてくれました。その時の青い空、広い野原の緑、伯父に乗せてもらった自転車の黒いフレーム、そして自転車の後ろでしっかり伯父につかまったワイシャツの白とが、まるで映画のシーンのように、今も私の中に鮮明に残っています。[1]

須賀田は決して仕事部屋に閉じこもるばかりでなく、地域の人々と音楽を通じ積極的に関わった。1947年 (昭和22年)、田沼町南部青年団の求めに応じてその団歌を作曲したのを皮切りに須賀田は、その後も田沼小・中学校の校歌や飛駒音頭などの民謡を、人々に求められるままに次々と作曲した。当時のこうした楽曲の譜面のかたすみに、下記のような須賀田の記述が見られる。

一流歌人、詩人の作品に作曲することは結構であるが、斯うした素人の作詩も又結構である。此等の中から自分のアイデアーが生まれ、楽曲が生れる

須賀田は地域の人々に音楽の指導も献身的に行なった。体調の優れない時でも決して怒らず、田沼の人々をそれこそ手取り足取り指導した。猛暑のなか、南部青年団の指導をするため、練習場への長い長い道のりを顔にいっぱい汗をかきながら自転車を漕ぐ須賀田に、人々真の芸術家の姿を見た。

偉ぶったところが一つもなくて・・・親戚の話とか気さくにしてくれて、いつもアルバムなんか見せてくれたので、私なんか大きい写真、どんどんもらっちゃったんですよ引用エラー: <ref> タグ内の引数が無効です

かつて須賀田からピアノを習い、のちに田沼小学校で音楽教師を勤めた尾花陽子は、須賀田からレッスンを受けていた時、頼まれて出来たての校歌を小学校に急いで届けた日のことを次のように証言している。

いつも眼鏡の奥から優しい瞳で、本当に作曲の大家である先生とはとは思えないような、初心者にも優しい暖かい指導をして下さった、思い出深い先生です

須賀田がその団歌を作曲し、合唱の指導もした田沼町南部青年団の元メンバーの声を以下に記す。

何も出来ない我々をちゃんと指導して下さった、とにかく面倒見のいい方でした引用エラー: <ref> タグ内の引数が無効です

挨拶なんかすると、ニコニコッて面長の顔で優しい笑顔を見せてくれました。それはものすごーい印象でしたね。いろいろな面で文化っていうか、そういうものの芽を作っていただいた気がします引用エラー: <ref> タグ内の引数が無効です

彼の仕事部屋からは、訪ねて来た町の人々と語り合う須賀田の笑い声が、よく聞かれたと伝えられている。

第二絃樂四重奏"「無調性」

1946年 (昭和21年)、須賀田はNHKラジオの放送用のための弦楽四重奏曲の作曲を依頼された。通俗的小品以外を発表出来る好機に、須賀田は戦前から密かに研究を続けて来た前衛的手法を用いての初の作品を提出する。それが"第二絃樂四重奏"「無調風」である。

 "第二絃樂四重奏"は当初1946年 (昭和21年) 8月4日 (土) 午後5時45分からNHK東京第一放送 の"現代日本の音樂"という番組で、1941年 (昭和16年) の"第一絃樂四重奏"の第2楽章と共に放送される予定であった。ところがその収録の際、この"第二絃樂四重奏"は演奏者から演奏を拒絶されてしまう。止むなくNHKはプログラムを"第一絃樂四重奏"全曲に切り替え、"第二絃樂四重奏"の初演はその後55年の時を待たねばならなかった。(初演は2001年12月27日/「日本の戦後音楽史再考」レクチャーコンサート/虎ノ門JTアートホール/演奏=ラ・ミューズ弦楽四重奏団)当時の演奏家には、このような無調作品は「音楽ではない」と写ったのだろう。須賀田の姪子・黒澤雄太は2001年、"第二絃樂四重奏"の初演を聴き、次のように記している。

作曲後五十五年を経て、初めて演奏された「弦楽四重奏第二番無調性」は、現代を生きる僕の耳には無調=先端では当然なく実に古典的な和洋折衷の音楽だった。その響きは、第一楽章に代表される、「ショスタコビッチ」の弦楽四重奏のような、重く、冷たく沈んだ音と、第三楽章に代表される、日本の祭ばやしのような、音がはね、リズムがはずむ、いかにも日本的な音との融合であった。現代では失われてしまった日本の音、例えば各地の祭りばやしの旋律から喚起されるその情感は、かろうじてまだ僕らの記憶のどこかにひそんでいる。それは遠い少年の日の記憶かもしれないし、自分が直接聴いたわけではない、いわば遺伝子の記憶なのかもしれない。しかし大事なのは、その記憶が何かのきっかけによっていまだに喚起されるものであるということだ。時をへだてて、なほ喚起される記憶こそが、僕らの根幹をなす、言ってみれば「アイデンティティ」というものの正体なのであろう。あの時代に西洋から来たクラシックというわくの中に、日本の情感に根差したアイデンティティを埋めこんだ須賀田磯太郎。そこいらへんに、僕がこれから進むべき道の指針がかくされている気がした

須賀田の死

"第二絃樂四重奏"は演奏拒否にあったが、その後もたとえ演奏のあてが無くとも、須賀田はオーケストラ作品を書き続けた。代表的なものに「ピカソの絵」作品二十三(1949)、バレエ音楽「生命の律動」作品二十五(1950)、「日本舞踊音楽集」(1950)がある。1952年 ( 昭和27年) に入り須賀田の持病である肺結核の症状はさらに悪化し、作曲時意識が朦朧とする事もあったという。しかしその浄書譜は実に美しく、病の影を感じさせない。自らに残された時間が多くない事を悟った須賀田は、書きためた作品たちのフルスコアをプログラム等の資料と共にトランクに収める作業に着手、「須賀田礒太郎作品目録」を添え、静かにその蓋を閉じた。1952年 ( 昭和27年)7月5日、須賀田礒太郎は故郷・横浜に二度と戻る事なく、田沼町の自宅で45年の生涯を閉じた。現在須賀田の墓は田沼町 (現・佐野市) の慶安寺にある。姪の黒澤陽子は語る。

伯父はずっと肺結核と戦い続けた一生でしたが、その全ての時間を自分の作曲に充てる事が出来ました。その意味では、幸せだったのではないでしょうか。

しかし須賀田の作品が詰められたトランクは、その死後47年もの間、日の目を見る事なく田沼町の蔵の片隅で眠り続けた。

作品

管弦楽曲

  • 習作交響曲「わが生活から」SWV.追補1 (1931 ?) (ピアノ・スケッチ断片のみ)
  • メヌエット SWV.追補 (1931.3または5) 全15頁。(未完成?)
  • 2つのフーガ SWV.追補 (習作/ピアノ・スケッチのみ/弦楽4部に編曲可能)
  • 夜想曲 (1931) SWV.1 ( 旧・作品1)
  • An Inn Frihling (春のおとずれ) SWV.3 ( 旧・作品3) (1931.6.18)
  • 祭典前奏曲 Op.2, SWV.4( 旧・作品10)(1935) 

   日本放送協会作曲懸賞第4位入選 自筆譜2種類。1937.1.1 坂西輝信/日本放送so.により初演。1939.11.3 金子登/中央so.、2006.7.1 小松一彦/神奈川po.により再演。(神奈川県立音楽堂)

  • 交響詩「横浜」SWV.5( 旧・作品4) (1932) 

   2002.2.9 小松一彦/神奈川po.により再演 (神奈川県立音楽堂)

  • 幻想的組曲「桜」SWV.6( 旧・作品5) (1933)

   2004.3.11 小松一彦/神奈川po.により再演 (神奈川県立音楽堂)

  • 日本華麗絵巻 (雅楽A主題による舞楽)其の弐 Op.1, SWV.7( 旧・作品9) (1935) 

   宮内省樂部入選受賞。自筆譜2種類。第2版には打楽器が加筆あり。2004.3.11 小松一彦/神奈川po.により再演 (神奈川県立音楽堂)

  • 前奏曲とトッカッタ Op.3 , SWV.9(1936.3.1)

   黎明作曲家同盟入選、1936.11.4 大木正夫/日本新so.により初演 (青山・日本青年会館)

  • バレエ・カプリッチョ SWV.12, Op.なし (1936) 

   宮内省楽部応募作品 (コンクール中止) 2004.3.11 小松一彦/神奈川po.により初演。(神奈川県立音楽堂)

  • 小管弦楽のための古典の瞑想 SWV.11, Op.なし (1936.9.25)

   作曲者記入「コンセール・ポピュレールにより横浜に於て発表。後此の断章を交響曲第1番に利用した」

  • 日本郷土舞踏音楽 出雲祭 SWV.13 (1937) 

   作曲者による詳しい解説と共に「改作してから発表すべき計画なり」との記入あり。

  • 交響的舞曲 Op.4, SWV.10 (1937.9.17) (スコア不明/ピアノスケッチのみ)

   第2回新響邦人コンクール入選。1937.2.25 ローゼンシュトック/新so.により初演。1938.9.16 小船幸次郎/日本放送so.にて再演。1939.6.9 小船幸次郎/ワルシャワpo.他ローマ、ワルシャワにて演奏。フィンランド・ヘルシンキ放送局にて放送。現在自筆譜行方不明。

  • 國民詩曲「東北と関東」Op.5, SWV.15 (1938.12.18) 

   日本放送協会委嘱。1939.12.7 金子登/日本放送so.にて初演。1942.6.12 同者により海外向放送のため再演。2006.7.1 小松一彦/神奈川po.により「関東」のみ再演。

  • 交響的序曲 (興亜序曲) Op.6, SWV.16 (1939)

   紀元2600年奉祝JOAK入選受賞。1940.2.11 山田耕筰/日本放送so.にて初演。2002.2.9、2006.7.1 小松一彦/神奈川po.により再演。(神奈川県立音楽堂)、CD録音 (NAXOS) 。

  • 英霊に捧ぐ Op.7-1, SWV.17 (1939/40) (欠落あり)

   JOAK委嘱。終戦まで靖国神社祭典に放送。

  • 軍隊行進曲「皇軍」Op.7-2, SWV.18 (1939/40) (欠落あり)

   紀元2600年日本放送協会入賞。靖国神社春秋臨時大祭に終戦まで使用。坂西博信/東京交響楽団によるSP録音 (1943.1.17放送=ニッチク特別製造盤 /AK-627) をもとに、2009年欠落部分を補完した浄書演奏譜完成。

  • 歓喜 (東和行進曲) Op.7-3. SWV.19 (1939/40) (欠落あり)

   満州國新京音楽院入選受賞。

  • 犒労詩曲 SWV.追補 ピアノ・スケッチ (4p)のみ。
  • 双龍交遊之舞 Op.8 (旧・作品6), SWV.20 (1940.6.4)

   (自筆譜2種類、Pスケッチ現存) JOAK委嘱,紀元2600年奉祝。1940.11.10 橋本國彦/日本放送so.により初演。2002.2.9、2004.3.11、2006.7.1 小松一彦/神奈川po.により再演、(神奈川県立音楽堂)、CD録音 (NAXOS) 。2012 マレーシア交響楽団により上演。

  • 東洋組曲「沙漠の情景」 Op.10 (旧・作品7) , SWV.22 (1941.8.8)

   初演詳細不明。Pスケッチの段階のタイトルは「西亜細亜」。1951年のオペレッタ「宝石と粉挽娘」に転用。    2002.2.9 (初演?) , 2006.7.1 小松一彦/神奈川po. (神奈川県立音楽堂)、    2002.11.8~9 小松一彦/イスタンブール国立so.、2004.8.5, 12 小松一彦/グァテマラ国立so. (第4,5楽章のみ)、    2004.3.11 小松一彦/神奈川po.、(第4曲のみ) により再演。第4曲「東洋の舞姫」のみCD録音 (NAXOS) 。    2008.8.3 名フィルメンバー「アンサンブル・ジャポニカ」により第1,4,5曲 再演(抜粋/室内管弦楽編曲版)    2005.7.9 杉本裕乃 (Vn.)、斎藤 龍 (P.) により演奏。(第4曲/Vn.+P 編曲版)

  • 天長地久 (雅楽的作品) Op.13, SWV.23 (1941.9.18) JOAK委嘱

   自筆譜に作曲者の手で「作曲年月日=満州事変10周年記念日」との書込みあり。

  • 葬送曲「追想」Op.12, SWV.24 (1941.11.1)

   JOAK委嘱葬送用曲。山本五十六大将国葬に放送。自筆譜2種類現存。

  • 交響曲第1番ハ長調 Op.14 「フィルハーモニック・シンフォニー」(旧・作品12 ), SWV.26 (1942 )

   ビクターレコード会社入選。(全3楽章/第1楽章現存、第2楽章後半・第3楽章欠落。ピアノ・スケッチ第1,2楽章現存。第3楽章と思われる吹奏楽用編曲の断章あり) 作曲者によれば、総演奏時間は約27分。「調和を愛する交響曲---なごやかな樂しい雰囲気へ贈る言葉---此の音楽を聴くことにより、皆さんが本當に愉快に樂しくなって戴ければ結構です」との作曲者書込みあり。

  • 進撃 (航空行進曲) Op.15, SWV.27 (1943.4.22) JOAK入選受賞
  • 序曲 Op.16, SWV.28 (1944.12.11) JOAK委嘱。放送時タイトル「万民翼賛」

    1945.1 JOAK放送初演。 2004.3.11 小松一彦/神奈川po.により再演。 (神奈川県立音楽堂)、     ベートーヴェンの「エロイカ」をモチーフにした古典派風作品。ピアノ・スケッチあり。

  • ピカソの絵 作品23, SWV.35 (1949.4.8) (未完成) 

   現存の28頁で終了とは思われず、欠落の可能性大。ダイナミクス・アーティキレーション等    の記入皆無のため、作曲中途で中断もしくは放棄した可能性もある。ピアノスケッチは全曲あり。

  • バレエ音楽「生命の律動」作品25 , SWV.36 (1950.9.20)

  2006.7.1 小松一彦/神奈川po.により初演及びCD録音 (NAXOS) 。

  • 日本舞踊組曲 Op.22 (旧・作品19), SWV.37 (1950) 

(1.「祭りの賑ひ」、2.「乙女達の踊り」、3.「農夫達の踊り」)    弦楽四重奏曲第1番を管弦楽編曲。

  • 木曽節パラフレーズ Op.27-1, SWV.38 (1951.2.1) NHK放送?
  • 安木節パラフレーズ Op.27-2, SWV.39 (1951.2.25) NHK放送?
  • カッポレパラフレーズ Op.27-3, SWV.40 (1951.3.12) NHK放送?

   2002.2.9 小松一彦/神奈川po.により再演。 (神奈川県立音楽堂)

  • 八木節パラフレーズ Op.27-4, SWV.41 (1951.7.4) NHK放送?
  • セレナーデ SWV.42, (1951.7.24)
  • 東洋古代舞踊音楽集 (編曲) SWV.48 年代、楽譜所在不明。
  • 木曽節ルムバ SWV.追補

   年代不明。木曽節パラフレーズをNHKラジオ「世界の音楽」放送用に編曲。

吹奏楽曲

  • 台湾民謡による舞踏曲 (八月十五夜) SWV.47 (1943)

  (スコア=NHKアーカイヴス) 初演詳細不明。初演当時のSP音源現存。   2006.6.18 小久保大輔/ガレリア・ウインドO.により再演。(彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

  • フーガによる舞踊曲 SWV.45

  (作曲年代不明/NHKアーカイヴスに第三者によるスコア所蔵) 初演詳細不明。    2008.4.27 福田滋/リベラ・ウインドO.により再演。(旧東京音楽学校奏楽堂) ライブCDあり。

  • 楽しき歩調 SWV.46 (1946.9.23) (スコア=NHKアーカイヴス/編曲:吉原将人)
  • 行進曲「新中国」(詳細全く不明)
  • サラセン舞曲 (「東洋の舞姫」を吹奏楽に編曲/スコア不明)
  • 行進曲集・第一輯 Op.11, SWV.25 (1941) (全10曲/自筆譜所在不明 = NHKアーカイブスに現存?) JOAK委嘱

  (序曲「若櫻」、序曲「万民翼賛」、行進曲「国民皆兵」、行進曲「常在戦場」、行進曲「進撃」、   行進曲「吹雪の進軍」、 行進曲「南進日本」、行進曲「日章旗」、行進曲「北方の防人」、「大平洋行進曲」)

  • 行進曲集・第二輯 Op.17, SWV.30 (1945~51)

   (全20曲/9.以外はピアノ譜のみ= 吹奏楽への編曲は別人の可能性あり/    各曲余白に作曲者コメント多数) JOAK戦後委嘱   (1.「幸福の訪れ」、2.「勤労」、3.「建設」、4.「友情」、5.「愛の心」、6.「協和協力」、7.「希望」、8.「映像(イマージュ)」、 9.「楽しき歩調」、10.「豊年」、11.「ロマンス」、12.「平和に向いて」、13.「新善」、14.「スポーツ」、15.「努力」、16.「團結」、17.「スピード」、18.「若人」、19.「ドライブ」、20.「巨人」)

室内楽・器楽曲

  • ピアノ・ソナタ第1番 SWV.追補1 (1931 ?) 

   (3楽章/古典派スタイルによる習作/スコア10p)

  • ピアノ・ソナタ第2番 SWV.追補2 (1931 ?) 

   (3楽章/古典派スタイルによる習作/スコア7p)

  • ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 「ソナタ・ロマンティーク」SWV.8

   (1935) (2楽章) 2005.7.9 杉本裕乃 (Vn.)、斎藤 龍 (P.)により初演。須賀田初期の佳作。

  • 弦楽四重奏曲第1番 (日本弦楽四重奏曲) Op.9-1, SWV.21 (1941.5.16) 

    (1.「祭りの賑ひ」、2.「乙女達の踊り」、3.「農夫達の踊り」)    1950年、「日本舞踊組曲」Op.22 として管弦楽編曲。初演詳細不明。日本音階を基調とした作品。    1946.8.4  NHK東京第一放送 "現代日本の音樂"で放送用再演。2002.6.30 田沼町で再演。    2006.6 杉本正と横浜弦楽五重奏団により「農夫達の踊り」演奏。    2008.11.5 弦楽合奏版 (編曲/岡崎隆) が名古屋パストラーレ合奏団により初演。

  • 弦楽四重奏曲第2番 (無調性) Op.19, SWV.31 (1946.3.11)

   1946.8.4  NHK東京第一放送 "現代日本の音樂"のため作曲されるも、演奏者の演奏拒否にあう。    初演は2001.12.27 ミューズSQ (「日本の戦後音楽史再考」レクチャーコンサート/    虎ノ門JTアートホール)

  • サラセン舞曲 (P, Vn. Vc.) Op.なし、SWV.32 (1947.1.12)

   「東洋の舞姫」のピアノ三重奏用編曲。前半に一部カットがある。

歌曲・合唱曲、声楽作品

  • 歌曲「あしたも天気」※ (1931.3.19)
  • 歌曲「秋の月」※ (1931.6.9) 瀧廉太郎「荒城の月」にも比肩する、素晴らしい作品。
  • 歌曲「沙羅の花」※ (歌曲集 第1輯) Op.26, SWV.2 (1931.7)
  • 歌曲「海のほとり」※ (年代不詳/西条八十・作詞)
  • 歌曲「水無月」※ (年代不詳/テオドル・ストルム・作詞、上田敏・訳)
  • 合唱曲「田舎の秋」※ (1937.11.2)
  • 通俗歌曲集 (第1輯) Op.18, SWV.29 (1947)

   (全19曲/1.「セレナーデ・ボレロ」、2.「懐しの街」、3.「豊年踊りの唄」、4.「木曽節ルムバ」、5「飛駒音頭」、6.「飛駒小唄」、7「チャーミング・バス・ガール」、8.「入彦間小唄」、9.「月の濱辺」、10.「さらば故里」、11.「あざみ咲く丘」、12.「迷い鳥」、13.「明日はいづこへ」、14.「弥生音頭」、15.「愛の花束」、16.「ラッキー・ヒット・トロット」、17.「椎茸増産の唄」、18.「涙はどんな色かしら」、19.「私の星」※ )

  • 通俗楽曲集 第1輯 Op.21, SWV.33 (1947) 全3曲。

   (「森のささやき」、「憂鬱なワルツ」、「乙女の願い」)

  • 歌曲「ねんねんよい子」※ (1948.6.25)
  • 通俗楽曲集 第2輯 Op.24, SWV.34 (1948~51) 全3曲。

   (「聖母マリヤ」※、「三好青年團々歌」、「ご飯の歌」 )「ご飯の歌」について作曲者コメント「NHK25周年記念ラヂオ歌謡懸賞募集5種目の内、全883曲の中から5曲當選---1種1曲、佳作なり---その内の1曲"ごはんの歌"に當選---此れが入選とは全く意外なり。昭和25年3月17日発表。」

  • 合唱曲集 (第一) Op.20、SWV.44 (全6曲) (戦後の作品であるが、詳細な作曲年代は不明)

  (「アヴェ・マリア」※、「春のあした」※、「曼珠沙華」※、「お母様」※、「信徒の生涯」※、「ふくろ」※) 田沼町女声コーラス、横浜混声合唱団等により再演。横浜混声合唱団のライブCD録音あり (吉田孝古磨、黒澤陽子「作曲家・須賀田礒太郎」対談併録)

  • 3つの歌曲 Op.なし、SWV.追補 現存は「裏山の夜」※ のみ。
  • オペレッタ「宝石と粉挽娘」作品28, SWV.43 (1951)

   「沙漠の情景」(1941) 楽曲を多数転用、全213頁。須賀田唯一の喜歌劇。     ボーカル・ソリスト7人、合唱、管弦楽。2000年頃、田沼町女声コーラス代表の故・慶野日出子が依頼・作成したピアノ伴奏付ボーカルスコアあり。     2011.8.26 ソプラノのアリア「 私は粉挽娘」を録音。このメロデーは1941年の「沙漠の情景」第1曲から転用されている。

( ※.... 2011.8.26 本田美香 (sop.)、渡部真理 (P.) により録音 )
  1. ^ 姪・黒澤洋子の証言/2001
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