コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

呂坤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。EKMK (会話 | 投稿記録) による 2019年8月7日 (水) 12:11個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (生涯: 39歳で殿試に応じ三甲第50名で進士に及第など、追記)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

呂 坤(りょ こん、1536年 - 1618年)は、中国代の大儒・哲学者。明の世宗嘉靖15年生まれ。河南省寧陵の西北、沙随の出身。姓は呂、名は坤、は叔簡。雅号に新吾(『明儒学案』では心吾)、抱独居士、去偽斎がある。万暦46年没。享年83。

生涯

幼少期は頭が悪く、文章を素読することさえままならなかったが、無暗に読むことよりも心を澄ませて身に付けることを心掛けてからは(澄心体認)、15歳で五経の書を通読することが出来た。殊に哲学書(性理学の書)を好んだ。

1571年(隆慶5年)、36歳の時に会試に及第したが、たまたま母を亡くして郷里に帰り、喪に服した。神宗の1574年(万暦2年)、39歳で殿試に応じ三甲第50名で進士に及第。襄垣(じょうえん)の令に任ぜられた。治め難い土地であったが成績を挙げ、明年に大同の令に転任した。ここで彼は横暴な土豪を抑えて厳明な政治を敷いた。 万暦6年に吏部主事に抜擢される。それから山東参政、山西按察使、陝西右布政使、巡撫山西右僉都御史を経て、万暦22年、刑部左侍郎にまで昇った。

しかし、その頃満州では愛新覚羅が勃興し、辺境の情勢は動揺して内政が乱れていた。深憂に堪えなかった呂坤は忌憚無く意見を上奏したところ、役人の讒誣中傷を受けるだけで聞き入れられなかったため、結局病気を理由に自ら官職を退いて、田野に儒学を講じた。

呂坤は宇宙の本源を気とみなし、天地万物は気の集散であると説き、朱熹の理気二元論を二物説として批判した。

呂坤の代表作である『呻吟語』は、その講学生活の中で30年かけて万暦21年(1593年)に書き上げた処世哲学書である。他に、『四礼疑』、『四礼翼』、『交泰韻』、『閏範』、『実政録』、『去偽文集』の著書が残っている。

参考文献

');