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覚恕

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覚恕
続柄 後奈良天皇皇子

称号 金蓮院准后
身位 准三宮
出生 大永元年12月18日1522年1月25日
死去 天正2年1月3日1574年1月25日)(享年54)
埋葬 曼殊院宮墓地
父親 後奈良天皇
母親 伊予局壬生雅久の娘)
役職 曼殊院門跡 北野天満宮別当
天台座主
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覚恕(かくじょ)は、戦国時代天台宗の僧。天台座主。父は後奈良天皇。母は壬生雅久の娘伊予局(三位局)。

後世しばしば「覚恕親王」「覚恕法親王」と尊称されるが、実際には親王宣下を受けていない。

略歴

後柏原天皇皇太子知仁親王(後奈良天皇)の皇子として生まれる。大永5年(1525年延暦寺の子院曼殊院門跡慈運を師として得度し、天文6年(1527年)慈運の死に伴い門跡と北野天満宮別当を相続。天文22年(1553年常陸千妙寺から住持亮珎を招き、台密三昧流の灌頂を受けている。弘治3年(1557年准三宮の宣下を受けて金蓮院准后と称された。永禄5年(1562年伏見宮から青蓮院に入っていた尊朝法親王の得度で戒和上を務めている。元亀元年(1570年)第166世天台座主に補任。その祝いとして武田信玄より「猿図」(東京国立博物館蔵、重要文化財)を贈られている。[要出典]

元亀2年(1571年9月12日織田信長による比叡山焼討ちに遭遇した。織田氏と対立する朝倉氏の軍兵を公然と匿ったことが原因とされる。覚恕は事件5日前の9月7日に参内して朝廷に相談を持ち掛けており、2日後の重陽の節句にも参加している。そのため事件当日は在京しており難を逃れたが、根本中堂以下全山が攻撃され、比叡山は事実上焼亡した。これにより程なく天台座主辞意を表明しているが、依然座主として扱われた。比叡山抵抗の責任を追及されたため、甲斐武田氏を頼り亡命する。[要出典]元亀3年(1572年)三塔執行代が武田氏へ比叡山再興を要請しているが、この仲介を行っている。一説に信玄は身延山に延暦寺移転を計画したともいわれるが、いずれにしても叶うことはなかった。同年、覚恕の斡旋により信玄は権僧正に任じられている。

事件後は曼殊院に戻っていたようで、天正元年(1573年)朝廷内での行事に参列していることが伺える。同年末に発病し竹田定加の診療を受けるが、甲斐なく年明け早々に薨去。このため門弟の尊朝法親王が天正12年(1584年)に継承するまで座主職は空位となった。比叡山の復興は信長の死後、尊朝法親王や兄帝正親町天皇らの尽力により行われることになる。

青蓮院流の書をよくし、作に「真如堂供養弥陀表白」「金曼表白」がある。また和歌・連歌を好み、歌集に「覚恕百首」が残る。

出典