戸田忠綱
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時代 | 江戸時代末期(幕末) - 大正時代 |
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生誕 | 天保11年12月3日(1840年12月26日) |
死没 | 大正11年(1922年)1月28日 |
改名 | 和三郎(幼名)→忠綱 |
墓所 | 東京都台東区谷中の谷中霊園 |
官位 | 従五位下、備後守、従三位 |
藩 | 下野高徳藩主→高徳藩知事→下総曾我野藩知事 |
氏族 | 戸田氏 |
父母 |
父:戸田忠至 母:新子(中島六郎の娘) |
兄弟 | 忠綱、秋元興朝 |
妻 | 正室:愛子(小川新三郎の次女) |
子 | 忠義、鹿園実博、娘(井上正巳正室) |
戸田 忠綱(とだ ただつな)は、下野高徳藩知事(第2代藩主)、後に下総曾我野藩知事。
生涯
天保11年(1840年)12月3日、下野宇都宮藩の一門重臣・戸田(間瀬)和三郎(後の高徳藩主戸田忠至)の長男として江戸の宇都宮藩邸で生まれる。慶応3年(1867年)9月9日に山陵奉行見習に任じられる。明治元年(1868年)に即位間もない明治天皇に馬術の指導を行った。明治2年(1869年)5月15日、父の隠居により家督を継いで高徳藩主となり、6月25日に従五位下・備後守に叙位・任官して高徳藩知事に任じられた。
明治3年(1870年)3月19日、藩庁を下総曾我野陣屋に移し、8月12日に曾我野藩知事に任じられる。明治4年(1871年)の廃藩置県で知藩事職を免官された。明治15年(1882年)6月、家督を長男の忠義に譲って隠居する。大正11年(1922年)1月28日に死去、享年83。