マクドナルド兄弟
モーリス・マック・マクドナルド | |
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生誕 |
1902年11月16日 アメリカ合衆国 ニューハンプシャー州、マンチェスター |
死没 |
1971年12月11日(69歳没) アメリカ合衆国 カリフォルニア州、リバーサイド |
職業 | マクドナルド共同創設者 |
配偶者 | あり |
リチャード・ディック・ジェイ・マクドナルド | |
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生誕 |
1909年2月16日 アメリカ合衆国 ニューハンプシャー州、マンチェスター |
死没 |
1998年7月14日(89歳没) アメリカ合衆国 ニューハンプシャー州、ベッドフォード |
職業 | マクドナルド共同創設者 |
配偶者 | あり |
マクドナルド兄弟 (マクドナルドきょうだい、英:McDonald brothers) は、アメリカ合衆国のファストフードチェーン「マクドナルド」の創始者である。
兄弟
- モーリス・マック・マクドナルド (Maurice "Mac" McDonald)
- (1902年11月16日 – 1971年12月11日)
- マクドナルド兄弟の兄。
- リチャード・ディック・ジェイ・マクドナルド (Richard "Dick" J. McDonald)
- (1909年2月16日 - 1998年7月14日)
- マクドナルド兄弟の弟。
概要
1937年に、アメリカ東部のニューハンプシャー州から移住してきたマクドナルド兄弟が、カリフォルニア州モンロビアでドライブイン・レストランを開店した。当初はホットドッグ屋だった。
1948年に一度閉店をし、改めてスピーディーなサービスシステム、工場式のハンバーガー製造法、セルフサービスの仕組みなどを考案した上で、1948年12月にカリフォルニア州サンバーナディーノで始めたハンバーガーのドライブインストアで再オープン。これがマクドナルドの原点となった。店舗名は兄弟の名字を取ったマクドナルド・ハンバーガーであり、後にゴールデンゲートと呼ばれるアーチ形のデザインは弟のリチャードがこの時発案したものであるとされる。
1954年にミルクセーキ製造マシンの販売会社で凄腕の営業マンとして社内ではそれなりに名を馳せていたレイ・クロックと出会い、フランチャイズ化を勧められる。しかし当初、兄弟はフランチャイズ化により積極展開する目標も持っていなかったが兄のモーリスが病気になったこともあり、兄弟はレイの要望通りにフランチャイズ化の権利を与える契約をした。それでも兄弟はその後もレイとは考え方を異にしており、店舗の運営方法やハンバーガーの調理方法等を巡り度々レイと対立していたと言われている。その為か、フランチャイズ化に際して、商品の仕入れ方法や店内の内装を少し変更したりするだけでも兄弟に確認を取った上で承諾が必要という契約内容であり、レイは後に自伝に於いて、それが自由に店舗を運営するに際しての大きな障壁となったとしている。また他方で兄弟はその後もレイに内緒で複数の個人や業者にフランチャイズ契約を持ち掛けていたとされ、一説には当時、モーリスの病気により兄弟は店を閉じる事も視野に入れ、嘗て自分達が考案したノウハウを1千ドルという破格で売り出していたとも言われる。その為、それを購入してそのノウハウを継承し店舗を開業した者がレイ以外にも少なからずいたらしいが、最終的に成功を収めたのはレイだけであったとされる。
1961年にマクドナルドのアメリカ国内のみならず海外への多店舗展開を推し進めるレイに経営権を270万ドルで売却した後は実質的には同社の経営から手を引き、同社の親善大使的な存在として活動していた。但しこの売却には諸説あり、兄弟の甥にあたるロナルド・マクドナルドの証言によれば、生前、兄弟は売却に際して「マクドナルドの総売上額の1%を永久に受け取れる」というインセンティブを付けていたが、レイ側からそれは紳士協定とし契約書に明文化しない事としたいと持ちかけられ了承した。レイは最終的にそれを反故にしインセンティブが守られる事はなかった為、これはレイの裏切り行為であるとして今でもマクドナルド家はレイ家を恨んでいるとの事だが、生前、弟のリチャードはインタビューにて「この契約は生涯最高の取引だった」と答えており、また、売却後に兄弟の口からこのインセンティブについて語られる事はなかった。2016年に公開された映画「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」内ではこの条項は存在したものの、結果的に守られる事はなかったと字幕で説明されていたが、マクドナルド兄弟が諦めたのか、それについて特にレイを責めたり後悔したりするような描写はされていなかった。また、実際には生前のリチャードが一貫して取引に後悔はないと語っていたのとは裏腹に、劇中での兄弟はこの取引の際、大いに未練がありそうな態度で描写されていた。
当初、この契約で売却された店舗の中には兄弟が創業したサンバーナディーノの店舗は含まれていなかったとされる。兄弟はマクドナルドの命名権売却後も親善大使として活動する傍らでこの店舗だけは「Big M」と名を変え細々と経営を続けた。それなりに人気はあったものの、程なくしてレイに売却されたマクドナルドがこの店のすぐ隣に店舗を出した事で客足は伸び悩み、売却から6年後の1967年にBig Mは閉店し、マクドナルド・ハンバーガー時代から兄弟が創業した店舗はその歴史に幕を下ろした。映画「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」では実はこの店舗は大きな利益を出していたが、レイを警戒していた兄弟は取引の際、その事をレイに隠し、店舗は赤字だと偽っていた為、レイは赤字の店舗は引き取らなかった。しかし取引成立の後、この店舗が大きな利益を挙げていたと知ると、レイは騙されたと憤り、報復としてこの店舗の隣に自分の店舗を建てた。兄弟はマクドナルドの商標権の保護を行っていなかった為、レイにマクドナルドの名を使われてしまい、仕方なく「Big M」という店名に変えて営業を継続したという描写がなされている。1971年、兄のモーリスが亡くなった後、1973年になってレイはマクドナルドの経営から手を引き、翌1974年にはサンディエゴ・パドレス球団を保有して野球界に進出した。5年後の1979年、フロントとの対立で球団経営を義理の息子バラード・スミスに譲った際、「ハンバーガーは野球より未来がある」と言ったとされる。その後、弟のリチャードも1998年に亡くなっている。
映画
- 『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』 - レイ・クロックがマクドナルド兄弟に出会い、一大ファストフードチェーンを築き上げる姿を描く。