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弥生時代

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弥生時代(やよいじだい)は、北海道沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する、およそ紀元前5世紀中頃から3世紀中頃までにあたる時代の名称である。

弥生時代には、水稲耕作による稲作が開始された。本格的な農業の採用とその発達によって、貧富の差が生じ、徐々に身分の差へと移行した。水稲農耕を主たる生業のひとつとして採用したことにより、水田に使用する土地の拡大争いと水争いを主な原因として、集落・村落間の争いが起こり、争いを通じて地域内の集団間の秩序が形成され、この秩序により地域が統合されていった。弥生時代後期までには、西日本各地で初期国家とも言うべき政治的勢力を持つ地域のまとまりが成立した(学術上、この初期国家をクニと表記することが多く、以下の記述もそれに準ずる)。争いは地域・地方と拡大してクニ同士の争いとなり、列島規模にまで広がっていった。列島には、北部九州・吉備・山陰・近畿・東海・関東などのゆるやかな地域連合勢力が形成され、古墳時代への移行が準備された。

列島規模の王権の形成過程が、この時代であった。言い換えると、古代国家の形成にむけての第一歩を踏み出した時代であり、そのための戦いが開始された時代であった。

名称

「弥生」という名称は、1884年明治17年)に東京市本郷向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。(なお、その後の都市化の進展などもあって正確な発見地は特定できなくなっている。)当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。なお余談だが、弥生時代の名称の起源となった、弥生町で出土した一群の土器は、現在の土器編年上では古墳時代前期に属するとの説が有力になりつつある。

概要

紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州四国本州に広がった。初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、北部九州地域に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。弥生時代早期に北部九州に現れた水田は、弥生時代前期中葉には東北へと伝播し、青森県南津軽郡田舎館(いなかだて)村垂柳(たれやなぎ)遺跡などからも見つかっている。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したといえる。

水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。

弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用によって穀物の備蓄が可能になったことから、余剰作物の生産と蓄積がすすみ、これが富に転化することにより、持てるものと持たざるもの、ひいては貧富の差や上下関係が生まれた。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれ、1世紀中頃に奴国の王が後漢に、3世紀中葉には邪馬台国の女王(卑弥呼)がに朝貢し、の王であることを意味する金印を授けられた。なお、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれた。

一方、南西諸島樺太北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、樺太・北海道では続縄文時代、ついで擦文時代(さつもん)が続いた(また、本州東北地方では、青森県垂柳遺跡のように弥生時代前期の水田の事例もあるものの、一般的には中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北海道に準じ続縄文文化が展開したとの見方もある)。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国・本州を指す。南西諸島の歴史については、沖縄の歴史も参照のこと。

時期区分

弥生時代の始まりをいつの時点とすべきかは、諸説ある。そもそも弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代という意味であった。ところが、弥生式土器には米、あるいは水稲農耕技術体系が伴うことが徐々に明らかになってくると、弥生時代とは、水稲農耕による食料生産に基礎を置く農耕社会であって、前段階である縄文時代(狩猟採集社会)とはこの点で区別されるべきだとする考え方が主流になっていった。そのような中、福岡市板付遺跡において、当時最古の弥生式土器と認識されていた弥生時代前期前半の板付I式土器よりも層位的に先行する(古い時代の)土器であり、その特徴から縄文時代北部九州における最新段階の土器と考えられていた夜臼式土器段階の水田遺構が発見され、従来縄文時代晩期後半と考えられていた夜臼式土器期において、すでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出された。その後、縄文時代と弥生時代の差を何に求めるべきかという本質的な論争が研究者の間で展開され、集落の形態や墓の形態、水田の有無、土器・石器など物質文化の変化など様々な指標が提案されたが、現在ではおおよそ、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。従って、弥生時代前期前半より以前に(夜臼式土器に代表されるような刻目突帯文土器と総称される一群の土器形式に示された)水稲農耕技術を伴う社会が(少なくとも北部九州地域には)成立していたとされ、従来縄文時代晩期後半とされてきたこの段階について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりつつある。

弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では上記の研究動向をふまえ、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。また、北部九州以外の地域では(先I~)I~Vの5(6)期に分ける方法もある。(早期は先I期、)前期はI期、中期はII~IV期、後期はV期にそれぞれ対応する。(早期は紀元前5世紀半ば頃から、)前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。

最近になって、国立歴史民俗博物館の研究グループによる炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきた。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。

早期(先I期) 前期(I期) 中期(II~IV期) 後期(V期)
早期前半 早期後半 前期前半 前期中葉 前期後半 中期前半 中期中葉 中期後半 後期前半 後期後半
縄文晩期 早期 前期 中期 後期 終末
前1000 前900 前800 前700 前600 前500 前400 前300 前200 前100 0 100 200
  • 時期区分を視覚的にしてみたが、少しずれていることに注意。最上段はAMS法炭素年代、二段目は前期(黄)・中葉(緑)・後期(青)に等分し、三段目は従来の年代観、四段目は一世紀ごとの物差し。

人々の生活

道具類

弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器木器青銅器鉄器土器などに分けることができる。

石器には、縄文文化より伝わった打製石器を中心とする一群と、朝鮮半島無文土器文化より伝わった磨製石器の一群(大陸系磨製石器)がある。打製石器は、石鏃スクレイパー削器掻器)など、狩猟具(武器)・利器として用いられた。石材としてはサヌカイトなどの安山岩系の岩石や黒曜石などが主に用いられ、縄文時代からの製作技術を受け継いで作られた。一方、水稲農耕の流入とともに流入した大陸系磨製石器と呼ばれる石器群には、蛤刃磨製石斧抉入片刃石斧といった工具や、石包丁石鎌などといった農具があり、水稲農耕技術の受容にともなう開墾や耕起、収穫に用いられる道具として、弥生時代になって新たに導入された道具類である。

青銅器は大陸から北部九州に伝えられた。北部九州を中心とする地域では銅矛銅剣銅戈などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸がよく知られる。北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに生産も開始された。一方銅鐸も半島から伝わったと考えられるが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態にやや差があり、列島での生産開始過程はよくわからない。出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高い。この段階の武器形青銅器は墓に副葬されることが一般的で、個人の所有物として使われていたことがわかる。弥生時代中期前半以降、銅剣・銅矛・銅戈などの武器形青銅器は徐々に太く、また大きくなっていくとともに、鋳造したあと刃が研ぎ澄まされなくなり、武器として使われなくなったことがわかる。また、墓に副葬されなくなる一方で、集落の隅などに埋納されることが多くなり、集団的な祭祀に用いられるようになったと理解できる。一方、銅鐸は出現当初から祭祀に用いられたと考えられるが、時代が下るにつれて徐々に大型化するとともに、つるす部分が退化することから、最初は舌を内部につるして鳴らすものとして用いられたが、徐々に見るものへと変わっていったと考えられている。また、鏡も弥生時代前期末に渡来し、中期末以降列島でも生産されるようになったが、墓に副葬されたり意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられた。このように、大型の青銅器は出現当初をのぞいてほとんどが祭祀に用いられるものであった。このほかに鋤先などの農具やヤリガンナなどの工具、鏃などの小型武器などもみられるが、大型の青銅器に比べて非常に少量である。  青銅器は、最初期のごく一部の例(半島から流入した武器形青銅器などの一部を研ぎ出すことにより製作される事例がわずかに存在する)をのぞき、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産された。青銅器の鋳型は、列島での初現期にあたる弥生時代前期末~中期前半期のものは主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られる。中期後半までに青銅器の生産は福岡県福岡市那珂・比恵遺跡群や春日市須玖遺跡群などで集中的に行われるようになる。平形銅剣をのぞくほとんどの武器形青銅器はこれらの遺跡群で集中的に生産されたと考えられている。一方、銅鐸の生産は近畿地方などで行われたと考えられているが、北部九州ほど青銅器生産の証拠が集中して発見される遺跡は未だ見つかっておらず、その生産体制や流通体制などには未解明の部分が多い。

鉄器の初現は弥生時代早期とされ、中期前半までには北部九州で工具を中心に一般化し、後期以降に西日本全域に拡散するとともに、武器や農具としても採用されるようになった。鉄器は耐久性や刃の鋭さから主に利器として、特に工具や農具(収穫具)として用いられた。出現当初は鍛造鉄斧の断片を研ぎ出して小型の工具などとして使っていたが、中期前半までには北部九州で袋状鉄斧と呼ばれる列島製の鉄斧が出現し、徐々に西日本一帯へと波及していった。このほかに小刀(刀子)や鉄族、ノミ状工具などの存在が知られる。ただし、この時期の鉄器は鉄素材を半島から輸入して製作されており、列島で製鉄が見られるのは古墳時代後期以降と考えられる。  弥生時代における鉄器の生産には、材料となる鉄を切り・折り取り、刃を磨き出すことによって作られる鏨切り技法と、鍛造により形を作り出す鍛造技法があることがわかっている(ごく一部の例について、鋳造により作られた可能性が示唆されているが、鉄を溶かすためにはきわめて高温の操業に耐えうる炉が必要であり、弥生時代にこのような技術が存在したかどうかは疑問視されている)。北部九州、特に福岡市周辺地域では弥生時代中期前半までに鍛造技法による鉄器の生産が開始された。一方、同じ北部九州でも八女市などの周辺地域では弥生時代後期になっても鏨切りによる鉄器生産が一般的であった。瀬戸内地方でも、弥生時代後期までには鍛造による鉄器生産が伝播していたが、技術的には北部九州のそれよりも明らかに低い水準にあり、同時に鏨切りによる鉄器製作も普遍的に行われていた。  鉄器の生産は個々の集落それぞれでというよりは特定の集落で集中的に行われたと考えられる。従って、もっとも効率のよい利器である鉄器を入手するためには、大部分の人々は交易によるしか方法がなかった。しかし、鉄器の流通についての研究はまだ十分には進んでいない。

土器は、低温酸化炎焼成の素焼き土器が用いられた。縄文時代の縄文土器と比べて装飾が少ないとしばしばいわれるが、実際に装飾が少ないのは前期段階の土器と中期以降の西日本、特に北部九州の土器で、そのほかの地域・時代の土器にはしばしば多様な装飾が施される。器種として主要なものに甕・壷・高坏があり、特に壷は縄文時代には一般化しなかった器種で、弥生時代になって米が主要な食糧となったため、貯蔵容器として定着したと理解されている。  土器の生産は集落ごとに行われ、集落ごとに自給自足によりまかなわれたたと漠然と考えられているが、土器生産に関する遺構はほとんど事例がない。最近、土器の焼成失敗品や、強い熱を受けたために器壁が薄くはじけるように割れた土器に注目して、大規模な集落で土器が集中的に生産された可能性が提起された。また、土器の形態は地域性をきわめてよく表すため、その特徴に着目して他地域から搬入された可能性の高い土器と在地の土器とを峻別し、土器はこれまで思われていたよりもずっと多量に移動している可能性が指摘されている。 

木器は主に食膳具や耕起具として使われた。特に食膳具にはを塗ったり細かな装飾を施すなどした優品が多いが、木器は腐るために良好な状態で出土する例はまれであり、詳しいことは未だよくわかっていない。

集落

弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものとして、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がある。

弥生時代の人々の住居には、主として竪穴住居が使われた。平面形態は円形・方形が主流で、長方形・隅丸方形がそれに次ぐ位置を占めるが、地域によって多様な様相を示す。早期の北部九州の住居には、縄文時代晩期の系譜を引き継ぐと考えられる平面方形のもののほかに、平面円形で中央に浅い皿状のくぼみを持ち、その両脇に小さな穴(柱穴か)を1対持つ特徴的な形態の住居が存在する。この形態の円形住居は、同時期の朝鮮半島南部に広く分布しており、韓国忠清南道扶余郡松菊里遺跡で最初に注目されたことから、「松菊里型住居」ともよばれる(ただしこの名称は日本国内に限定して使用され、韓国考古学界ではむしろ「松菊里類型」という用語は住居跡の形態のみでなく土器や石器組成を含めた文化総体の名称として用いられることが一般的となっている)。この松菊里型住居は、縄文時代後・晩期に西日本一帯でしばしば見られる円形プランの住居跡ともに、弥生時代前期から中期にかけて主流となる円形住居の祖形となったと考えられている。弥生時代中期には、住居のプランは北部九州から西日本一帯で円形プランのものが卓越し、一部に隅丸方形のものが見られるが、弥生時代後期にはいると西日本一帯で突如として平面プランが方形あるいは長方形へと変化し、次第に長方形へと統一されていく。  このほか、南部九州には「花弁型住居」と呼ばれる特異な平面プランの住居跡が分布し、また兵庫県西部(播磨)地域には円形住居の床面中央部に1O(イチマル)土坑と呼ばれる特殊な遺構を持つ例が分布するなど、竪穴住居の形態には多様な地域性があり、注目される。 弥生時代の住居としては竪穴住居が出土例の大半を占めるが、このほかに平地式住居掘立柱建物が想定される。しかし、平地式住居の場合、生活面が削平されて(けずられて)しまうと生活の痕跡の大半が失われてしまうことから、住居として把握することがきわめて困難になってしまうため、これまでに把握された平地式住居の具体的な例はきわめて少ない。また、掘立柱建物の場合後述する倉庫などとの区別が平面プランだけでは区別できないため、これも確実な住居の例は指摘されていない。  弥生時代には、主に米を貯蔵する倉庫が発達した。早期には北部九州など一部の集落に掘立柱建物の倉庫が半島から伝播するが、前期までに地下式の倉庫が主流となり、掘立柱建物はほとんど見られなくなる。地下式倉庫は円形のものが主流で、しばしば方形・長方形のものが見られ、いずれも断面形態がフラスコ状を呈する。これらは「貯蔵穴」と呼ばれる。 中期前半から中葉にかけて、掘立柱建物の倉庫が西日本一帯に展開する。主な形態のものは柱間が1間×2間の規模のもので、これに1間×1間、1間×3間などのバリエーションが加わる。この倉庫の様相は弥生時代を通じておおよそ変化はなく継続する。弥生時代末から古墳時代初頭になると、2間×2間の総柱式の建物が出現し、これが主要な倉庫の形態となる。

墓制

弥生時代の墓制を示す用語として、支石墓墳丘墓周溝墓などといった埋葬施設の外部施設(上部構造)を示す区分と、甕棺墓土壙墓木棺墓石棺墓などといった個々の埋葬施設本体の形状(下部構造)を示す区分がある。いずれも、半島より渡来した要素と縄文文化より受け継いだ要素からなり、地域によって墓地の構成に様々な特色が見られる。

甕棺墓は、縄文時代後・晩期の埋甕習俗を下敷きとし、半島から伝来した壷形土器を埋葬容器として採用することにより成立したと考えられる、北部九州弥生時代前~中期の代表的な墓制である。前期前半段階には壷形土器をそのまま大型化した埋葬容器が使用されるが、前期末までには埋葬専用容器として独自の形状を持ったものが成立し、その形状は壷形土器から甕形土器へと移行する。中期には北部九州各地で少しずつその形態を変えながらも基本的には同じ形質的特徴を共有する成人用大型甕棺が北部九州に定着するとともに、小児・乳幼児用に日常容器として使われる通常のサイズの甕形土器が埋葬容器として一般的に使われるようになり、甕棺墓制が確立する。同時に、成人用大型甕棺に付属する蓋として、大型の鉢形土器が成立する。甕棺墓は成人用甕棺が二つ合わせ口として組み合わされるものが一般的であるが、このほかにこの鉢形の甕棺専用蓋が用いられるものも多く、また木製や石製の蓋が使われることも多い。甕棺墓制は後期には急速に衰退して石蓋土壙墓箱式石棺墓などに取って代わられ、糸島地域のみで細々と継続するほかは旧甕棺墓制分布域で散発的に認められるのみとなり、古墳時代までには消滅する。主たる分布域は北部九州地域でも筑前筑後肥前東部域であり、この周辺地域では副次的な墓制として分布する。

木棺墓は、明確な出自は明らかになってはいないものの縄文文化には認められない墓制であることから半島から渡来した墓制と考えられている埋葬様式の一つである。弥生時代の木棺墓の大半は組合式と呼ばれるもので、一般的には、底板・両側板・両小口板・蓋板の計6枚の板材を組み合わせ、あらかじめ掘削された土坑の中に棺を作るものである。しばしば小口板などが石材に置き換わる例がある。板材の組み合わせ方には、両側板が小口板を挟み込む形式のものと小口板が両側板を挟み込む形式のものとがあり、これが被葬者の[出自]集団を表すとする論があるが、証明されてはいない。弥生時代前期末までには広く(北部九州をのぞく)西日本地域で主たる墓制として採用され、特に畿内などでは土壙墓とともに中期の方形周溝墓の主体部として採用される。弥生時代後ににはやはり石蓋土壙墓や箱式石棺墓などに取って代わられ、衰退する。また、特殊な木棺墓として、丸木をくりぬいたものを上下に合わせたような特殊な形状をした木棺墓が特に弥生時代早期~前期前半期に特徴的に認められる。

土壙墓、特に素掘りの土壙墓は、縄文時代に一般的な墓制であり、弥生時代にもしばしば認められる墓制である。しかし、縄文時代の土壙墓と弥生時代の(特に西日本の)土壙墓とはその形状に差があり、後者の方が全長が長い。これは、埋葬姿勢の差異に由来するものと考えられる(縄文時代の土壙墓には屈葬が多く認められる一方、弥生時代の土壙墓は伸展葬が一般的である)。弥生時代に新たに現れる土壙墓の形式の一つに、蓋を板石で覆う石蓋土壙墓があり、弥生時代後期に広く西日本全域で一般化する。箱式石棺墓との関連性も考えられる(箱式石棺墓の蓋石以外を省略すると石蓋土壙墓となるため)。

政治

戦乱の時代-環濠集落と高地性集落-

弥生時代は、前代(縄文時代)とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であったとされる。集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落などは、集落間の争いがあったことの証拠とされ、また、武器の傷をうけたような痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在なども、戦乱の裏づけとして理解されてきた。しかし、近年ではこうした一面的な理解に対する反論も多く、未だ定説となるに至っていない。

弥生時代前期の墓には、胸から腰にかけての位置から十五本の石鏃が出土した例がある。このように、多くの石鏃が胸部付近に集中して見つかる墓の事例は、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に比較的多く見られる。以前には、こうした例は、戦闘の際に矢を何本も射込まれて、やっと倒れた人物と解釈されることが多く、「英雄」などとも呼ばれた。しかしながら近年では、矢を特定の部位に集中して射込まれていることの不自然さから、むしろ埋葬の際に副葬品として鏃を胸のあたりに埋納した、あるいは何らかの儀礼的行為の際の犠牲(生け贄)となって胸に矢を射込まれたなどといった解釈も現れている。また、北部九州では、前期から中期にかけて銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。こうした例は、従来、武器を人体に刺突した際に先端が折れて体内に残ったものと解釈されてきたが、これも、武器の先端を折りとって副葬品として棺内に埋納するという風習があったのではないかといった反論がだされており、決着はついていない。さらに、佐賀県吉野ヶ里遺跡や福岡県隈・西小田遺跡などでは、甕棺内に頭部を除く全身が埋葬されていたと考えられる事例が見つかっており、しばしば戦闘の際に敵に頭部を切り取られた死者を連れ帰り、埋葬したものと理解されているが、このような例が本当に戦闘の犠牲者なのか、それとも何らかの儀礼的行為によるものなのかは実際のところは未だ論証されていない。

これに対して、受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠として扱うことが可能である。例えば、額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっているが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、争いによる受傷者である可能性は極めて高い。また、人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されているが、これらは武器による受傷人骨であることが明らかである。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではないが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦闘が頻繁に起こったことは確実といえる。

また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半~中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められることが特徴的である。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされる。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられている。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少する。

環濠集落は、このような集団同士の争いに備えた防衛集落であったと考えられていた。しかし、環濠集落の出現は、未だ戦闘の証拠がほとんどない弥生時代早期にさかのぼること(福岡県江辻遺跡、同那珂遺跡群など)、受傷人骨などの事例から戦乱が頻発したと考えられる前期後半~中期前半、特に中期初頭以降の北部九州ではむしろ環濠集落の事例は少ないこと、しばしば環濠を掘削する際に排出された土を利用して環濠の外側に盛り土をした痕跡のある事例が報告されているが、環濠の外側に盛り土をすることによって、外敵を有利にしてしまう(外敵は、盛り土を矢避けにしたり、盛り土の上から攻撃できる)ことなどから、環濠集落と戦乱とを直接的に関連づける、すなわち環濠集落を防衛集落と考える研究者は最近では少なくなってきており、それよりは、環濠を掘削するという大規模な土木作業を共同で行うことによって共同体の結束を高めることが目的であったとか、環濠によって集団を囲い込むことによって集団意識を高めることが目的であったなどといった議論も提出されてきている。しかしながら、弥生時代後期の高地性集落にしばしば環濠が掘削されていること、環濠内に逆茂木(さかもぎ)と呼ばれる防御施設が設置された事例が認められること(愛知県朝日遺跡など)などから、環濠自体に防御的な機能を持たせた事例が存在することもまた明らかであり、環濠の性格については地域・時期によって異なる意味づけを持たせるべきではないかといった主張は説得力がある。

一方、やはり古くから防衛集落と目されてきた集落の類型として、高地性集落が挙げられる。高地性集落は、弥生時代中期後半~末(IV期後半~末)、そして後期中葉~末(V期中葉~末)に瀬戸内沿岸から大阪湾にかけて頻繁に見られるもので、弥生時代の一般的な集落からみて遙かに高い場所(平地からの比高差が50~300m以上)に営まれている集落のことである。北部九州から北陸・中部・東海地域などといった広い範囲に分布する。1970年代までは、畿内IV期がおおよそ北部九州の後期前半、畿内V期が後期後半に併行するとされ、実年代では紀元50年~250年ごろに比定されていた。史書にある、いわゆる倭国大乱は、各種の史書に記載された年代がおおよそ2世紀後半~末に当たり、当時の年代観ではおおよそ畿内IV期末~V期前半期に該当していた。このため、高地性集落の盛行は倭国大乱を原因とするものだという理解が主流であった。しかし、畿内と九州の年代の併行関係が是正されると、倭国大乱は畿内V期後半~末に該当し、畿内IV期の高地性集落とは時代的に整合的でないとされ、これらは倭国大乱とは無関係とする意見が主流を占めるようになった。このため、畿内IV期の高地性集落については、この時期に史書には記載されない戦乱があったという主張の他に、背景に戦乱を想定する必要はないという意見も見られるようになった。特に後者の場合、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われており、未だ決着はついていない。一方、後期後半期の高地性集落については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めているようである。

倭国大乱

魏志倭人伝には、卑弥呼邪馬台国を治めるより前は、諸国が対立し互いに攻め合っていたという記述がある。また、後漢書東夷伝には、桓帝霊帝の治世の間、倭国が多いに乱れたという記述がある(倭国大乱)。近年、畿内の弥生時代IV・V期の年代観の訂正により、これらはおおよそ弥生時代後期後半~末(V期後半~VI期)に併行するという考えが主流になった。この時期には、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸、東海地域以東にまで高地性集落が見られること、環濠集落が多く見られることなどから、これらを倭国大乱の証拠であるとする考え方はほぼ定説となっている。しかしながら、前代に比べて武器の発達が見られず、特に近接武器が副葬品以外ではほとんど認められないこと、受傷人骨の少なさなどから、具体的な戦闘が頻発していたと主張する研究者はあまり多くない。倭国大乱がどのような争いであったのかは未だ具体的に解明されていないのが現状である。

倭国大乱の原因については、以前はこれを古事記等の西遷の記述と結びつけ、北部九州勢力が大和へと移動して邪馬台国を建てたなどと理解する研究者も多かった。しかし、北部九州勢力が大和へと移動したことを示す物的証拠は考古学的にはほとんど認められないのが実情であり、近年ではむしろ北部九州勢力が中心となって、鉄などの資源の入手や大陸からの舶載品などを全国に流通させていた物流システムを畿内勢力が再編成し直そうとして起こった戦いであったという理解が主流になりつつある。しかし、弥生時代後期中葉以降に至っても瀬戸内地域では鉄器の出土量は北部九州と比べて明らかに少なく、また、鉄器製作技術は北部九州と比べて格段に低かったとする研究成果もあり、未だ異論も多い。

墳丘墓の出現

時代が下るにつれ、大型集落が小型集落を従え、集落内で首長層が力を持ってきたと考えられている。首長層は墳丘墓に葬られるようになった。このことは身分差の出現を意味する。弥生時代後期になると墓制の地域差が顕著となっていく。近畿周辺では方形低墳丘墓が、山陰(出雲)から北陸にかけては四隅突出墳丘墓が、瀬戸内地方では大型墳丘墓がそれぞれ営まれた。これらの墓の特徴が寄り集まって後代の古墳前方後円墳など)の形成につながったとされている。

弥生時代の地域勢力は、北部九州・吉備・山陰(日本神話との接続性を重視し「出雲」と呼称する場合もある)・近畿・三遠(東海)・関東の勢力に大別することができる。時代の進行とともに連合していき、一つの勢力が出来ていった、と考えられる。水田農耕発展のために農地の拡大と農具となる鉄の獲得のため、また地域間の交易をめぐる争いのために戦いが起こり時代が進行していった。近畿では、環濠集落は、弥生前期末に現れ、中期以降に普及した。

中国との通交

中国との通交は渡来系弥生人に遡ることができる。近年、DNAの研究が進み、渡来系弥生人の多くは中国大陸の長江流域、山東省付近から来たと言われている。更に遡ると現在の中国の青海省付近にまで遡ることができるという調査結果まででている。また、稲のDNAもほぼ同様の結果を呈している。

近年、渡来系弥生人のDNAとお酒に弱い人の遺伝子の関連性が調査されている。

弥生時代の開始については従来、中国の春秋戦国時代の混乱と関連付ける考えが有力視されていたが、開始年代を繰り上げる説に関連してこれを否定する(あるいはからへの政変に関連付ける)考えも出てきた。

中国の史書は、倭人が多数の国に分かれて住んでおり、使節を送ってくると記す。57年には奴国王が後漢光武帝から金印を授かり、また107年には倭国王帥升生口を後漢へ献じたことが「漢書」に見える。三国志の「魏志倭人伝」は、3世紀の倭国の状況を詳しく記し、邪馬台国の卑弥呼女王が統治していたことなどを伝える。

現代の遺跡発掘調査

  • 熊本県玉名市の両迫間日渡(りょうはざまひわたし)遺跡で、弥生時代後期のものとみられる水田跡の一部が発見された。あぜ道(約幅1メートル)には土の流失を防ぐため多数の杭が打ち込まれており、足跡も約50カ所見つかっている。あぜ道からは土器片や割れた木製の鍬などが見つかっている。(熊本県教育委員会2005年11月11日発表)

関連項目

外部リンク

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