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唐沢山城の戦い

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唐澤城の戦い
戦争戦国時代 (日本)
年月日永禄年間~元亀年間
場所下野国唐澤城
結果佐野昌綱の降伏・離反
交戦勢力
上杉氏上杉氏竹に雀 佐野氏
指導者・指揮官
上杉謙信上杉氏竹に雀
斎藤朝信
吉江景資
色部勝長
佐野昌綱
上杉謙信の戦闘

唐澤城の戦い(からさわやまじょうのたたかい)は、永禄年間から元亀年間にかけて、下野国唐澤城(現在の栃木県佐野市富士町、栃本町)において、越後上杉謙信下野佐野昌綱の間で約10度にわたって繰り広げられた戦い。

概要

下野国唐澤城は、下野南部における重要拠点であり、上杉謙信が関東出兵する際に押さえておく必要のある城であった。当時の唐澤城主は、佐野氏の第15代当主・佐野昌綱であった。昌綱は、越後の上杉謙信と相模北条氏康という二大勢力に挟まれる苦しい情勢の中、御家の存続と領民を守るため、武勇と知略をもって戦国時代の荒波を乗り切ろうとした。唐澤城は、関東七名城の一つに数えられる難攻不落の山城であり、謙信はこの城の攻略に手を焼くことになる。このことから「関東一の山城」と言われるようになった。幾度も攻め寄せる上杉軍に対し、昌綱は唐澤城に篭城して時に撃退し、時に降伏した。しかし上杉軍が越後へ去って北条軍が攻め寄せると今度は北条氏に降伏し、再び上杉軍が攻め寄せると上杉氏に降伏するという臨機応変な状況判断で凌いだ。戦国時代において多くの戦国大名が滅亡する中、佐野氏が命脈を繋ぐことができたのは、昌綱の才覚と唐澤城の堅固さによるものであった。

戦いの推移

永禄3年2月の戦い

永禄2年とする説もある。約十回に及ぶ唐澤城の戦いで唯一、昌綱が謙信と手を組んで北条氏と戦った合戦。北条氏康の子・氏政率いる3万余の大軍が唐澤城を攻撃する。昌綱は抗戦し、謙信に救援を要請した。これに対し謙信は寡兵で北条軍を破ったとされる[1]。しかしこの合戦は創作の可能性が指摘されている。

永禄4年12月の戦い

永禄4年(1561年)3月、謙信は昌綱らを従えて氏康の居城・相模小田原城を包囲した。氏康は窮地に陥るも、陥落するには至らず上杉軍は越後へ引き上げた。上杉軍が去ると氏康は反撃を開始し、北条軍は唐澤城に迫った。謙信は信濃川中島で、甲斐武田信玄と死闘を繰り広げており、昌綱に援軍を送る余裕はなかった。このため孤立した昌綱は氏康に降伏し、これを反逆とみなした謙信により攻撃されるに至った。しかし唐澤城の堅牢さと冬の到来もあり、謙信は兵を引き上げた。

永禄5年3月の戦い

謙信は上野厩橋城で年を越した後、永禄5年(1562年)3月に唐澤城へ攻め寄せた。しかし堅固な唐澤城を攻め切れず、再び兵を引き上げた。昌綱は昨年に続いて二度も謙信を撃退したことで、その武勇を戦国の世に知らしめることになった。謙信はこの後、越中神保長職が反乱を起こしたため越中出兵を余儀なくされ、関東における北条氏の勢力回復を招くことになる。

永禄6年4月の戦い

永禄6年(1563年)2月、氏康は信玄の援軍を得て、上杉方の武蔵における最重要拠点・松山城を攻撃、これを陥落せしめた。謙信は越中から急遽越後へ引き返し、雪に埋もれた三国峠を越えて関東へ戻り救援に向かっていたが、間に合わなかった。関東を留守にしている間、他の関東の多くの城も北条方に寝返っていたため、謙信はこれらを次々に攻め寄せて降伏・開城させていった。この謙信の勢いの前に、昌綱はあえなく降伏し、唐澤城は開城した。謙信がこの年の冬から翌年の春に至る関東出兵で降伏・開城させた城は、武蔵の騎西城忍城、下野の唐澤城祇園城下総古河城結城城常陸小田城など多数に上った。

永禄7年2月の戦い

永禄7年(1564年)2月、昌綱は謙信が下野を去った後に、再び反旗を翻した。唐澤城は、上杉軍が上野の厩橋城から関東の中心・古河城(古河御所)へ進軍する際の経路を押さえる拠点であり、昌綱の度重なる反抗は謙信にとって大きな痛手であった。この2月の戦いは、10回近い唐澤城の戦いの中でも最大の激戦となり、上杉軍は激しく攻め立てたが、佐野軍は徹底抗戦した。唐澤城は急峻な山頂にある上、水の手も豊富であり、謙信といえども攻め落とすのは容易ではなかった。

しかし昌綱が頼りとする北条氏は当時、安房里見義堯国府台で戦っており、援軍を送ることはなかった。さすがの唐澤城も孤立無援で謙信に攻められては守り切るのは難しく、上杉軍の猛攻の前に三の丸・二の丸を奪われ本丸にも迫られた。昌綱は、常陸の佐竹義昭と下野の宇都宮広綱の説得に従い、ついに降伏。謙信は、義昭と広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れた。この戦いで斎藤朝信吉江景資色部勝長揚北衆の一人)、が軍功を挙げ、謙信から感状を賜っている。

永禄7年10月の戦い

8月、謙信が信玄と川中島で5度目の戦いに忙殺されている間、信玄と同盟する氏康は再び北関東へ軍勢を送って、唐澤城を脅かした。昌綱は圧力に屈して再び謙信から離反し、上杉軍の再侵攻を招いた。10月、謙信は唐澤城に迫ったため、昌綱は降伏。昌綱から人質を取って越後へ帰国した。

永禄10年2月の戦い

前回の戦いで昌綱から人質を取ったこと及び、北条氏が安房の里見攻めに主力を差し向けていたため、昌綱はしばらく謙信から離反することはなかった。しかし謙信は、西上野・北信濃で武田氏・関東各地で北条氏・越中で一向一揆と、三方面での戦いを強いられており、永禄9年(1566年)に下総の臼井城攻めおよび上野の和田城攻めに失敗したことで、多くの関東諸大名が北条・武田方へ離反してしまった。北条氏の勢力が再び下野に迫るに及んで、昌綱は再び北条氏へ離反した。永禄10年(1567年)2月、謙信は唐澤城へ攻め寄せたが、関東諸大名の援軍もなく苦戦。冬の寒さと雪もあり、雪解けを待つことにして撤退した。

永禄10年3月の戦い

雪解けとともに唐澤城へ殺到した上杉軍の前に、佐野軍は降伏を余儀なくされた。度重なる離反にもかかわらず、謙信は再び昌綱を助命している。唐澤城を取り戻したものの、この年には上杉方の関東における最重要拠点・厩橋城の城代・北条高広が北条方に寝返る事件もあり、謙信の関東管領としての威信が失墜し兼ねない事態となった。しかしその後、共同して謙信と戦っていた信玄と氏康の同盟関係に亀裂が生じ、両者は駿河今川氏を巡って激しく敵対する事態となった。氏康は謙信との和睦を要請し、謙信がこれを受け入れ越相同盟が成立したため、関東における上杉・北条の争いは一旦収束を見た。

元亀元年1月の戦い

元亀元年(1570年)1月、再び背いた昌綱を従わせるため、謙信は唐澤城に迫ったものの、攻略できず兵を引いた。

その後の唐澤城

天正2年(1574年)、昌綱は世を去り、佐野家は嫡男・宗綱が後を継いだ。この頃既に上杉氏と北条氏の同盟関係は破綻していたが、宗綱は佐竹氏と同盟することで上杉氏や北条氏に対抗した。江戸時代に入ると廃城となった。

脚注

  1. ^ 関東古戦録

参考文献

  • 唐澤城老談記『群書類従』巻第六百二十七 合戦部五十七
  • 佐野宗綱記 国会図書館所蔵『栃木県史』史料編中世5 所収
  • 国会図書館所蔵 栃木縣安蘇郡教育会編纂安蘇郡郷土史年表
  • 『佐野記』
  • 西ヶ谷恭弘『定本 日本城郭事典』(秋田書店、 2000年) ISBN 4-253-00375-3
  • 花ヶ前盛明『上杉謙信』(新人物往来社、1991年)
  • 花ヶ前盛明『上杉謙信』(新潟日報事業社、1988年)
  • 花ヶ前盛明編『上杉謙信大事典』(新人物往来社、1997年)
  • 池享・矢田俊文編『定本上杉謙信』(高志書院、2000年)
  • 渡辺慶一編『上杉謙信のすべて』(新人物往来社、1987年)