聖金口イオアン聖体礼儀 (チャイコフスキー)
『聖金口イオアン聖体礼儀』作品41(せいきんこういおあんせいたいれいぎ、教会スラヴ語: Литургия Святаго Иоанна Златоуста)はロシアの作曲家、ピョートル・チャイコフスキーが1878年に作曲した正教会の奉神礼音楽。金口イオアンの定めた聖金口イオアン聖体礼儀に曲づけを行った、無伴奏の混声合唱による聖歌である。ロシア正教会、ウクライナ正教会をはじめとして、日本正教会を含めた世界中の正教会の奉神礼で実際に一部が用いられる事もある。ただし基本的には演奏会等で歌われる事が多い。
歌唱は教会スラヴ語による。
なお、一般に見受けられる『聖ヨハネ・クリュソストモスの典礼』『聖ヨハネス・クリソストムスの典礼』等といった表記は誤訳である[1]。
作曲の経緯
19世紀ロシアの教会音楽
18世紀にピョートル大帝がモスクワ総主教を廃して聖務会院を設置して以降の期間は、ロシア正教の奉神礼にとっては儀式の形骸化が進んだ「退廃の時代」という評価がある[2]。それに伴う教会音楽も同様で、ボルトニャンスキーがサンクトペテルブルク帝室カペーラの音楽監督だった1816年から、帝室カペーラの許可無く新たな正教会聖歌を歌うことは禁じらた。これにより、教会に古くから伝わっていた伝統的な旋律は排除され、帝室カペーラが認める単純な和声合唱曲一辺倒になった[2][3][4]。
同時代のロシア人たちもこの状況への問題意識があった。例えば、セローフはボルトニャンスキーの合唱曲を「イタリアの山彦」とこき下ろしている[5]。ラローシは、現状の教会音楽がサルティやガルッピ(それぞれピョートル・トゥルチャニノフとボルトニャンスキーの師にあたるイタリア・オペラの作曲家)の物真似に過ぎず、ロシア正教会を軽視していて検討の価値がないとして、 デュファイやオケゲムらからモーツァルトやケルビーニらに至るまで、カトリック教会には誇れる作曲者が幾人もいるのに、ロシア正教会にはひとりもおらず、「ボルトニャンスキーやトゥルチャニノフらの素人作品は正教会的でもなければ音楽的でもない」と評した[4]。
ドミトリー・ラズモフスキーはズナメニ聖歌など、ロシアの古い聖歌を研究して西欧化している教会音楽の界隈に一石を投じ、後に『ロシアの教会歌唱』を著してその後の復古運動の切っ掛けになった[6]。
チャイコフスキーと教会音楽
1874年にチャイコフスキーはロシア古美術愛好会の委託により「和声の手引き、ロシアの教会音楽学習に合わせて(露: Краткий учебник гармоний. Приспособленный к чтению духовно-музыкальных сочинений в Россий)」[7][8]を執筆しており、当時主流だったボルトニャンスキーとリヴォフの聖歌を大量に引用して和声を解説している。
チャイコフスキーは、奉神礼の聖金口イオアン聖体礼儀について、後援者のナジェジダ・フォン・メックへの手紙にこう書いている[3]。
教会には多くの偉大なる詩的な美があります。私は奉神礼によく参祷しましたが、私の考えでは聖金口イオアン聖体礼儀は藝術の中でも最も偉大なものの一つです。かの奉神礼に加わる者は誰でも、精神を揺り動かされずにはいられないでしょう。—チャイコフスキー、フォン・メックへの手紙、[3]
そして、当時使われていたベレゾフスキーやボルトニャンスキーの曲には不満があったことも書いている[4]。
—チャイコフスキー、フォン・メックへの手紙(1878年4月30日)、[9]
フォン・メックへの手紙には、帝室カペーラの問題とその対応策についても書いている。
教会音楽の作曲を帝室カペーラが独占しているのを知っていますか?帝室カペーラの出版部門が印刷するもの以外は、いかなる曲であっても印刷したり教会で歌ったりすることはできません。帝室カペーラはこの独占を守ることに執着しており、聖なるテクストに対する新たな作曲が試みられることを決して許さないのです。私の楽譜を出版しているユルゲンソンは、このおかしな法律を搔い潜る方法を見つけました。もし私が教会に関する何かを書くならば、外国で出版するつもりです。ほぼ確実に、私は聖金口イオアン聖体礼儀の全曲を作ると決心するでしょう。—チャイコフスキー、フォン・メックへの手紙(1878年4月30日)、[9]
ウクライナ旅行での執筆
チャイコフスキーは、エフゲニー・オネーギンと交響曲第4番を完成させてすぐ、1878年の5月から7月という僅か3ヶ月で、『聖金口イオアン聖体礼儀』を完成させた[3]。
出版訴訟事件
前述の通り、聖歌に関する権限はサンクトペテルブルクの帝室カペーラに委ねられていたが、他方で、出版物全般を検閲する権限はロシア正教会が持っていた[10]。そこで、チャイコフスキーの楽譜出版を一手に引き受けていたユルゲンソンは、あえてこの曲の認可を帝室カペーラから得ようとはせず、楽譜をロシア正教会のモスクワ事務所に送って検閲を通した上で出版した[4][11][12]。
1879年に楽譜が出回り始めると、これに気付いた帝室カペーラの音楽監督ニコライ・バフメチェフは無許可販売を理由に出版差し止めを命じ、店舗と購入者から楽譜を没収した。
さらに、バフメチェフは「もし事前に審査していたとしても、これらの聖歌はオペラ形式風に作られており、正教会の信仰における真の魂を反映していないという見地から却下していたであろう」と表明した[11]。そもそも帝室カペーラの選曲が60年前からイタリア・オペラ風であることへの反発が作曲の動機となっていたことを考えると、皮肉な話である[4]。
ここに至ってユルゲンソンは司法界の大物でロシア音楽協会のドミトリー・スターソフを弁護士に立てて、バフメチェフらを訴えた。ユルゲンソン側は「世俗の演奏会のための出版物である」という主張で裁判を有利に進め、1880年に「帝室カペーラもモスクワの出版検閲委員会も音楽性を理由に出版を妨げてはならない」という判決になった。
法的勝利と宗教的敗北
なお、初演は訴訟の決着が着く前に、キーウの大学構内の教会で1879年6月に行われており[13]、ユルゲンソン側が法廷で言った「世俗のコンサート」という主張は建前に過ぎなかった[4]。その後も訴訟中の秘密裡にではあるが、モスクワでアマチュアの合唱団によって教会の儀式として演奏されている[4]。
また、訴訟後の1880年12月にはモスクワ音楽院で演奏され、好評を博した。ただし、この成功は批判者たちの注目も集めることにもなり、当時の臨時モスクワ府主教だったアンブロシーは、そもそも聖歌が演奏会で歌われること自体を問題視し、聖体礼儀にまつわる宗教的・伝統的な諸々が「チャイコフスキー氏の聖なるオペラのためのリブレット」に成り下がったと評した[14]。
こうして、この作品は教会での演奏を禁じられた。この点について、チャイコフスキーはフォン・メックへの手紙で次のように書いている。
私の教会音楽を良くしようとする試みは迫害をもたらしました。私の聖体礼儀はまだ禁止されています。2ヶ月前のニコライ・ルビンシテインの追悼で、私の聖体儀礼を使うという話がありました。しかし、残念ながら、それを教会で聞くことはできませんでした。モスクワ司教区の当局が杓子定規に反対したからです。私は無力なので、野蛮で無分別な迫害には立ち向かえません。—チャイコフスキー、フォン・メックへの手紙(1881年)、[4]
この「禁止」がチャイコフスキーが生きている間に解けることはなく、初めて公的にロシアの教会で演奏されたのは1893年のチャイコフスキー自身の埋葬式においてであった。
他方で、コンサートの演目としては成功しており、例えば、1891年のカーネギーホールのこけら落としでは、チャイコフスキー自身の指揮で本作品の天主経が演奏された。
特徴
この作品は15曲からなる無伴奏の混声合唱である。厳格な和声に縛られる一方で、装飾(color)や抑揚(expression)といった過剰な表現は意図的に避けられている。狭義のポリフォニーが使われている箇所(「ヘルヴィムの歌」と「常に福にして」)も少しだけある[3]。
もともと、正教の聖歌にはコールアンドレスポンス形式の歌(会衆唱)があったが、19世紀のロシアではほぼ失われていた[2]。この作品ではいくつかの曲で、独唱が先行して合唱が後を追うコールアンドレスポンスが使われている[4]。コンサート会場向きの構成ではなく、教会での演奏を前提としていたと考えられる[14]。
影響
出版訴訟事件により、実質的に聖歌の作曲・演奏が一般に開放された[12]。また、それまではこのような単独の作者による全曲作曲の前例はなく[14]、ロシア正教の教会音楽に「宗教的大作」というジャンルを作り出した。
チャイコフスキーは1881年から1882年にかけて再び大作の徹夜祷 (チャイコフスキー)を書き、その後もアレクサンドル3世に依頼されて聖歌を書いている。
また、バフメチェフは事件後の1883年に帝室カペーラ音楽監督を辞任した。これで西欧派による独占は終わり、後任は国民楽派のバラキレフとなった。バラキレフは、彼が帝室カペーラに招聘したリムスキー=コルサコフとともに聖歌を作った。
バラキレフやリムスキー=コルサコフは大作を書かなかったが、アルハンゲルスキーが1891年に聖体礼儀を全曲書いたのを皮切りに、19世紀末から20世紀にかけて、様々な作曲家が復古的な大作をいくつも手掛けた。ラフマニノフが1910年に聖体礼儀を作曲したときは、チャイコフスキーの楽譜を取り寄せており、チャイコフスキーが生み出したフォーマットに則って作っている[4]。
一方、日本における正教の基礎を築いたニコライはリヴォフ・バフメチェフ期にサンクトペテルブルクで教育を受け、出版訴訟事件やその影響を経験することなく来日している。その結果、21世紀でも日本正教会ではバフメチェフらの定めた聖歌集や彼らの時代に特有の習慣の影響が随所に見られる[2]。
構成
以下の聖歌(数え方・区切り方は演奏者によって異なる場合がある)により構成される。実際の聖体礼儀に用いられる聖歌全てに作曲が行われている訳では無く、作曲されていない部分については伝統的旋律、もしくは他の作曲家が作曲したものを用いて適宜補われる。
四声の混声合唱により無伴奏で歌われる。伴奏楽器を用いないのは、奉神礼の聖歌においては人声以外の楽器を使用しないという正教会の伝統による。
正教会聖歌は西方教会の教会音楽と同様に、歌詞の始まりを以てその歌・部分の呼称とする事が多い。しかし、語順の異なる言語である、教会スラヴ語祈祷文冒頭と日本語祈祷文冒頭とは一致しない事が多く、以下に挙げた日本語のタイトルと教会スラヴ語のタイトルも、それぞれがそのまま逐語的に対応する訳とはなっていない。
- 大聯禱:Великая Ектения
- 小聯禱:Малая ектения
- 「神の獨生の子(かみのどくせいのこ)」:Единородный
- 小聯禱:Малая ектения
- 小聖入「来たれ、ハリストスの前に伏し拝まん」:Приидите, поклонимся
- 「主や敬虔なる者を救い」と「聖三祝文」:Господи, спаси благочествыя и Святый Боже
- アリルイヤ~福音経の読みの前後:Аллилуйя
- 重聯禱:Сугубая и последующия Ектении
- 信者の聯禱
- ヘルヴィムの歌:Иже херувимы
- 増聯禱:Просительная Ектения и Отца и Сына
- 信經:Верую
- 「平和の憐み」(アナフォラ):Милость мира
- 「主や爾を崇め歌い」(エピクレーシス):Тебе поем
- 「常に福にして(つねにさいわいにして)」と「万民をも」:Достойно есть и Всех и вся
- 「並に我等に、口を一つにし心を一つにして」:И даждь нам единеми усты и единем сердцем
- 天主經:Отче наш
- 「聖なるは唯一人」:Един Свят
- 「天より主を讃め揚げよ」:Хвалите Господа с небес
- 「主の名によって来たる者は崇め讃めらる」と「既に真の光を見」:Благославен Грядый и Видехом свет истинный
- 「主や爾の光榮を歌はんに」:Да исполнятся уста наша
- 「願わくは主の名は崇め讃められ」:Буди имя Господне
- 「光榮は父と子と聖神に帰す」:Слава Отцу
脚注
- ^ “「聖体礼儀」「奉神礼」等の正教会の語彙II&誤訳例”. 御茶ノ水の泉通信. 2019年3月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ a b c d ウラディミル・モロザンMorosan, Vladimir (31 July 2005). "正教会聖歌――祈りの音楽". 大阪ハリストス正教会. 2023年10月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月23日閲覧。
- ^ a b c d e Lydia Korniy. “About This Recording Pyotr Il'yich Tchaikovsky (1840-1893) Liturgy of Saint John Chrysostom, Op. 41” (英語). ナクソス (レコードレーベル). 2024年3月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j Zebulon M. Highben. “Defining Russian Sacred Music: Tchaikovsky s Liturgy of St. John Chrysostom (Op. 41) and Its Historical Impact”. 2024年3月20日閲覧。
Highben, Zebulon M. (2011). "Defining Russian Sacred Music: Tchaikovsky's 'Liturgy of St. John Chrysostom' (Op. 41) and Its Historical Impact". The Choral Journal. 52 (4). JSTOR 23560599。 - ^ Marika C. Kuzma. "Dmitry Bortniansky at 250 His Leg~cy as a Choral Symphonist" (PDF). JSTOR 23553880. 2024年3月27日閲覧。
- ^ Morosan, Vladimir. “The Emergence of a National Choral Style” (pdf). Choral Performance in Pre-Revolutionary Russia. Musica Russica. p. 86. ISBN 0-9629460-2-8 2024年3月28日閲覧。
- ^ Tchaikovsky, Piotr Illyich. Shamazov, Liliya (ed.). "Concise Manual of Harmony, Intended for the Reading of Spiritual Music in Russia (1874)". Gamut: Online Journal of the Music Theory Society of the Mid-Atlantic. テネシー大学. 2024年3月27日閲覧。
- ^ 自筆原稿“Краткий учебник гармонии, приспособленный к чтению духовно-музыкальных сочинений в России / Чайковский: Открытый мир”. www.culture.ru. 2024年3月27日閲覧。
- ^ a b ローランド・ジョン・ワイリー, Tchaikovsky, p. 200, - Google ブックス
- ^ 霜田, 美樹雄 (1969). "帝政ロシア末期の宗教政策" (PDF). 早稲田社會科學研究. 6・7: 16. ISSN 0286-1283. NCID AN00258346. 2024年3月20日閲覧。
- ^ a b Ritchie, Carolyn Cairns (1994). "The Russian Court Chapel Choir, 1796-1917" (PDF). グラスゴー大学 (published 27 September 2019). 2024年3月27日閲覧。
Russian Court Chapel Choir 1796-1917, p. 99, - Google ブックス - ^ a b “Из сокровищницы русских музыкальных издательств конца XIX начала XX века”. Российский государственный музыкальный телерадиоцентр(ロシア国立放送音楽センター)/オルフェウス・ラジオ. 2024年2月21日閲覧。
- ^ The Life and Letters of Peter Ilich Tchaikovsky, p. 348, - Google ブックス
- ^ a b c ローランド・ジョン・ワイリー、Tchaikovsky, p. 202, - Google ブックス
参考文献
- "Pyotor Il'yichi Tchaikovsky (1840 - 1893) Liturgy of Saint John Chrysostom Op.41"(ウクライナ・キエフ国立音楽大学教授:リディア・コルニア博士による) - CD:『TCHAIKOVSKY Liturgy of St. John Chrysostom』NAXOS 8.553854 の解説