野村茂久馬
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野村茂久馬(のむらもくま、明治2年(1869年12月28日)~昭和35年(1960年2月11日))は、「土佐の交通王」と呼ばれた実業家。
人物
近代交通黎明期に高知県の海運・陸運の発展に貢献し、土佐湾岸航路、バス、鉄道等多くの交通事業に携わった。 現・高知県交通の前身である野村組自動車部、現・新高知重工の前身である野村組工作所の創設者である。 また、私鉄高知鉄道手結-安芸線(後の土佐電気鉄道安芸線:1974年(昭和49年)廃止)の建設なども手掛けた。 昭和初期、独自に本四連絡橋神戸・鳴門ルートの構想を持つなど先見の明を持っていた。 坂本龍馬・中岡慎太郎・板垣退助らの銅像を建てるため奔走する青年達に、乗合自動車の無料乗車券を発行する等の支援をした。 ライオン宰相、濱口雄幸(高知市出身)とは同級生であった。
来歴
- 1869年(明治2年)安芸郡奈半利村に生まれる
- 1878年(明治11年)高知尋常中学校に入学
- 1890年(明治23年)上京
- 1891年(明治24年)学業を断念して帰農
- 1897年(明治30年)高知市に出、内国通運高知取引所を預かる
- 1918年(大正7年)野村組自動車部設立
- 1920年(大正9年)土佐沿岸汽船株式会社を設立
- 1921年(大正10年)高知工作所を買収
- 1928年(昭和3年)野村組自動車部を野村自動車株式会杜と変更
- 1932年(昭和7年)貴族院議員に当選する
- 1933年(昭和8年)高知商工会議所会頭となる
- 1939年(昭和14年)貴族院に再選
- 1944年(昭和19年)野村自動車株式会杜が高知県交通株式会杜となる
- 1946年(昭和21年)GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指示により公職追放され、奈半利町に引退
- 1951年(昭和26年)公職追放解除
- 1960年(昭和35年)2月11日没、満90才
関連項目
- 魚梁瀬森林鉄道:野村組工作所製機関車