シュガー・レイ・レナード
1998年ワシントンDCにて | |
基本情報 | |
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本名 |
レイ・チャールズ・レナード (Ray Charles Leonard) |
通称 |
シュガー (Sugar) |
階級 | ウェルター級 - スーパーミドル級 |
身長 | 178cm |
リーチ | 188cm |
国籍 | アメリカ合衆国 |
誕生日 | 1956年5月17日(68歳) |
出身地 | ノースカロライナ州ウィルミントン |
スタイル | オーソドックス |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 40 |
勝ち | 36 |
KO勝ち | 25 |
敗け | 3 |
引き分け | 1 |
獲得メダル | ||
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アメリカ合衆国 | ||
男子 ボクシング | ||
オリンピック | ||
金 | 1976 モントリオール | ライトウェルター級 |
シュガー・レイ・レナード(Sugar Ray Leonard、1956年5月17日 - )は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。ノースカロライナ州ウィルミントン出身。元WBA・WBC世界ウェルター級統一王者。元WBA世界スーパーウェルター級王者。元WBC世界ミドル級王者。元WBC世界スーパーミドル級王者。元WBC世界ライトヘビー級王者。世界5階級制覇王者。モントリオールオリンピックライトウェルター級金メダリスト。
本名は母親がレイ・チャールズのファンだったため命名したもの。のちにボクサーとして活動する際、尊敬するシュガー・レイ・ロビンソンにあやかって、シュガー・レイを名乗った。「ヘビー級が動くが如く、ボクシングは動く」とされたボクシング界の常識を覆して、ロベルト・デュラン、マービン・ハグラー、トーマス・ハーンズらと歴史的なビッグファイトを繰り広げ「黄金のミドル(中量級)」時代を盛り上げた。
来歴
1976年モントリオールオリンピックでアンドレス・アルダマ(キューバ)を3R判定で下し、ライトウェルター級の金メダルを獲得。一時は引退も考えたが、1977年にプロデビューした。
1979年11月30日、無敗のままウィルフレド・ベニテスから15RTKOでWBC世界ウェルター級タイトルを獲得[1][2][3]。
1980年6月20日、ロベルト・デュランに判定負けで王座から陥落するとともに、プロ初黒星を喫した。 1980年11月25日、ロベルト・デュランと再戦し、9回TKO勝ちで王座を奪回。
1981年6月25日、アユブ・カルレからWBC世界ジュニアミドル級タイトルを獲得し2階級制覇を達成するが、タイトル返上。
1981年9月16日、後にレナードと共に5階級制覇を遂げるWBA王者トーマス・ハーンズとのウェルター級王座統一戦で、序盤はハーンズにペースを握られるが14回に逆転TKO勝ち。WBAとWBCの王座を統一する。試合後に網膜剥離が発覚した。
1982年11月、「いったん引退」を発表。
1986年3月10日、マービン・ハグラー対ジョン・ムガビの解説をしていたレナードは当時最強のチャンピオンといわれたハグラーに勝てると確信し、「現役復帰」を決意する。
1987年4月6日、ハグラーに挑戦し僅差の判定勝ちでWBC世界ミドル級タイトルを獲得。3階級制覇を達成した。
1988年11月7日、WBC世界ライトヘビー級王者ドン・ラロンデと168ポンドのキャッチウェイトで対戦、9回TKO勝ちで新設されたWBC世界スーパーミドル級、ライトヘビー級の2階級の王座を同時に獲得。同月4日に達成したハーンズに続く2人目の主要団体での「5階級制覇を達成」した。しかし、これはライトヘビー級王者のラロンデをスーパーミドル級まで体重を落とさせてのスーパーミドル級王座決定戦に、ラロンデの持つライトヘビー級王座も賭けられるという、極めて異例の試合だったため、レナードの5階級制覇には懐疑的な意見もある。
1989年6月12日、WBO世界スーパーミドル級王者トーマス・ハーンズとの王座統一戦で引き分け。 1989年12月7日、ロベルト・デュランに判定勝ちし、WBC世界スーパーミドル級王座を防衛。
1991年2月9日、WBC世界ジュニアミドル級タイトル戦で王者テリー・ノリスに12回判定負けを喫した。試合後のリング上で「2度目の引退」を表明した。
1997年3月1日、IBC世界ミドル級タイトル戦で6年ぶりに「現役復帰」。ヘクター・カマチョに5回TKO負けを喫し、「引退」した。
ウェルター級歴代最速とも言われるスピードで、スーパーエキスプレスと称された。特にパンチの回転力がケタ外れに速く、ここぞという時のレナードの連打は、カメラが捉えきらないほどのスピードを見せた。ハーンズとの第1戦は、特に評価が高く、「20世紀最後のビッグファイト」と称され、ボクシング・マガジン2009年1月号「500号記念特集」において、歴代ベストバウトに挙げている。 ハーンズとはレナード13戦目、ハーンズ12戦目の若手時代に一度対戦が内定したことがある。しかしアンジェロ・ダンディの反対によりこのマッチメイクは成立しなかった。代わりにレナードが対戦したのが、フロイド・メイウェザー・シニアである。ハグラーとの対戦での判定は、未だに論議を呼んでいる。試合後のダメージが、レナードの方がより大きかったためだが、特にブランクの影響で、中盤でのスタミナ切れが苦戦の要因と見られていた。その後、デュランとの第3戦に勝利したレナードが、次の対戦相手として、1990年に再戦を申し入れたが、ハグラーは拒否した。
引退後
1990年、離婚訴訟中だった元妻がレナードが酔っ払うと暴力を振るわれていたこと、レナードがコカインを使用していたことを告発。レナードは会見を開き元妻の告発が事実であることを認め、引退をした1982年から1986年までコカインを使用していたと告白した[4]。
2001年、ボクシングプロモーション「シュガー・レイ・レナード・ボクシング社」の設立と、ESPNと提携し毎月1回フライデーナイトファイトで試合を放送することを発表。しかし2004年、ビヨン・レブニーと経営方針の違いから仲違いをしてプロモーション会社を解散した[5]。
2011年、出版した自伝「The Big Fight: My Life in and out of the Ring」の中でレナードが10代の頃、オリンピックのボクシングトレーナーから性的虐待(オーラルセックス)をされていたことを告白した[6]。
エピソード
- モハメド・アリの後継者と称されるだけあり、デビュー戦から全米ネットワークでTV中継がされるなど、早くからスターとして注目され、高い人気を誇った。その明朗快活なイメージから少年少女にもファンが多く、デビュー当時、WBCウェルター級王者だったカルロス・パロミノの幼い息子も、レナードの大ファンだった。パロミノの友人が坊やのパパは147ポンド級で、世界で一番強いんだよと言ったところ、パパがレナードより強いって。そんなの嘘だという返事があったという。
- 「ケニー・G ライブ」(DVD/BMG JAPANより発売)にMCとして同行、登場する。サックス奏者ケニー・Gとの友人ぶりが見られる。
戦績
- プロボクシング:40戦 36勝 (25KO) 3敗 1分
戦 | 日付 | 勝敗 | 時間 | 内容 | 対戦相手 | 国籍 | 備考 |
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1 | 1977年2月5日 | ☆ | 6R | 判定3-0 | ルイス・ベガ | アメリカ合衆国 | |
2 | 1977年5月14日 | ☆ | 6R | 判定3-0 | ウィリー・ロドリゲス | アメリカ合衆国 | |
3 | 1977年6月10日 | ☆ | 3R 1:59 | TKO | ヴィニー・デバロス | アメリカ合衆国 | |
4 | 1977年9月24日 | ☆ | 5R 2:55 | KO | フランク・サントレ・ジュニア | アメリカ合衆国 | |
5 | 1977年11月5日 | ☆ | 6R 1:54 | KO | オーガスティン・エストラーダ | メキシコ | |
6 | 1977年12月17日 | ☆ | 2R 2:20 | KO | エクトール・ディアス | アメリカ合衆国 | |
7 | 1978年2月4日 | ☆ | 8R | 判定3-0 | ロッキー・ラモン | アメリカ合衆国 | |
8 | 1978年3月1日 | ☆ | 7R 1:52 | TKO | アート・マックナイト | アメリカ合衆国 | |
9 | 1978年3月19日 | ☆ | 1R 2:45 | KO | ハビエル・ムニス | アメリカ合衆国 | |
10 | 1978年4月13日 | ☆ | 3R 終了 | TKO | ボビー・ヘイモン | アメリカ合衆国 | |
11 | 1978年5月13日 | ☆ | 8R 2:55 | TKO | ランディ・ミルトン | アメリカ合衆国 | |
12 | 1978年6月3日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | ラファエル・ロドリゲス | アメリカ合衆国 | |
13 | 1978年7月18日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | ディッキー・エクランド | アメリカ合衆国 | |
14 | 1978年9月9日 | ☆ | 10R 2:16 | TKO | フロイド・メイウェザー | アメリカ合衆国 | |
15 | 1978年10月6日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | ランディ・シールズ | アメリカ合衆国 | |
16 | 1978年11月3日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | ホセ・ベルナルド・プラダ | コロンビア | |
17 | 1978年12月9日 | ☆ | 6R 終了 | TKO | アルマンド・ムニッズ | メキシコ | |
18 | 1979年1月11日 | ☆ | 8R 2:57 | TKO | ジョニー・ガント | アメリカ合衆国 | |
19 | 1979年2月11日 | ☆ | 8R 2:33 | TKO | フェルナンド・マルコッテ | カナダ | |
20 | 1979年3月24日 | ☆ | 1R 2:03 | TKO | ダニエル・アルド・ゴンサレス | アルゼンチン | |
21 | 1979年4月21日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | アドルフォ・ピルエト | アメリカ合衆国 | |
22 | 1979年5月20日 | ☆ | 10R | 判定3-0 | マルコス・ジェラルド | メキシコ | |
23 | 1979年6月24日 | ☆ | 4R 終了 | TKO | トニー・キアヴェリーニ | アメリカ合衆国 | |
24 | 1979年8月12日 | ☆ | 4R 2:41 | TKO | ピート・ランザニー | アメリカ合衆国 | NABF北米ウェルター級タイトルマッチ |
25 | 1979年9月28日 | ☆ | 1R 2:52 | KO | アンディ・プライス | アメリカ合衆国 | NABF防衛1 |
26 | 1979年11月30日 | ☆ | 15R 2:54 | TKO | ウィルフレド・ベニテス | プエルトリコ | WBC世界ウェルター級タイトルマッチ |
27 | 1980年3月31日 | ☆ | 4R 2:27 | KO | デイブ・ボーイ・グリーン | イギリス | WBC防衛1 |
28 | 1980年6月20日 | ★ | 15R | 判定0-3 | ロベルト・デュラン | パナマ | WBC陥落 |
29 | 1980年11月25日 | ☆ | 8R 終了 | TKO | ロベルト・デュラン | パナマ | WBC世界ウェルター級タイトルマッチ |
30 | 1981年3月28日 | ☆ | 10R 2:22 | TKO | ラリー・ボンズ | アメリカ合衆国 | WBC防衛1 |
31 | 1981年6月25日 | ☆ | 9R 3:06 | TKO | アユブ・カルレ | ウガンダ | WBC世界スーパーウェルター級タイトルマッチ |
32 | 1981年9月16日 | ☆ | 14R 1:45 | TKO | トーマス・ハーンズ | アメリカ合衆国 | WBA・WBC世界ウェルター級王座統一戦 WBA獲得・WBC防衛2 |
33 | 1982年2月15日 | ☆ | 3R 1:50 | TKO | ブルース・フィンチ | アメリカ合衆国 | WBA防衛1・WBC防衛3 |
34 | 1984年5月11日 | ☆ | 9R 2:28 | TKO | ケビン・ハワード | アメリカ合衆国 | |
35 | 1987年4月6日 | ☆ | 12R | 判定2-1 | マービン・ハグラー | アメリカ合衆国 | WBC世界ミドル級タイトルマッチ |
36 | 1988年11月7日 | ☆ | 9R 2:30 | TKO | ドニー・ラロンド | カナダ | WBC世界ライトヘビー級タイトルマッチ WBC世界スーパーミドル級王座決定戦 |
37 | 1989年6月12日 | △ | 12R | 判定1-1 | トーマス・ハーンズ | アメリカ合衆国 | WBC・WBO世界スーパーミドル級王座統一戦 WBC防衛1 |
38 | 1989年12月7日 | ☆ | 12R | 判定3-0 | ロベルト・デュラン | パナマ | WBC防衛2 |
39 | 1991年2月9日 | ★ | 12R | 判定0-3 | テリー・ノリス | アメリカ合衆国 | WBC世界スーパーウェルター級タイトルマッチ |
40 | 1997年3月1日 | ★ | 5R 1:08 | TKO | ヘクター・カマチョ | プエルトリコ | IBC世界ミドル級タイトルマッチ |
テンプレート |
獲得タイトル
- 1976年モントリオールオリンピック ライトウェルター級金メダル
- WBC世界ウェルター級王座
- WBA世界ウェルター級王座
- WBA世界スーパーウェルター級王座
- WBC世界ミドル級王座
- WBC世界スーパーミドル級王座
- WBC世界ライトヘビー級王座
出演映画
- ザ・ファイター The Fighter (2010)
脚注
- ^ “The Lineal Boxing World Champions”. Cyber Boxing Zone. 2 February 2023閲覧。
- ^ “Muhammad Ali, Sugar Ray Robinson and Sugar Ray Leonard lead the way”. SkySports.com. 2 February 2023閲覧。
- ^ Ross. “The Fabulous Four – Hagler, Hearns, Duran, and Leonard”. RossBoxing.com. 2 February 2023閲覧。
- ^ “[ https://news.google.com/newspapers?id=2hAbAAAAIBAJ&sjid=FEgEAAAAIBAJ&pg=6730,6962641&dq=sugar+ray+leonard+juanita+divorce&hl=en Daily News1991年3月1日版]”. News.google.com (1991年3月31日). 2013年6月4日閲覧。
- ^ “Leonard's promotion business down for count”. USA TODAY.com (2004年10月19日). 2013年6月4日閲覧。
- ^ “Boxing: Sugar Ray Leonard claims sexual abuse by 'Olympic coach'”. The Independent (2011年5月19日). 2013年6月4日閲覧。
関連項目
- モハメド・アリ
- ジョージ・フォアマン
- 藤猛
- 西城正三
- カシアス内藤
- 世界ボクシング協会(WBA)世界王者一覧
- 世界ボクシング評議会(WBC)世界王者一覧
- 統一世界王者
- 複数階級制覇 (ボクシング)
- 男子ボクサー一覧
- オリンピックのボクシング競技・メダリスト一覧
外部リンク
- 公式サイト
- シュガー・レイ・レナード (@SUGARRAYLEONARD) - X(旧Twitter)
- シュガー・レイ・レナードの戦績 - BoxRec
前王者 ウィルフレド・ベニテス |
WBC世界ウェルター級王者 1979年11月30日 - 1980年6月20日 |
次王者 ロベルト・デュラン |
前王者 ロベルト・デュラン |
WBC世界ウェルター級王者 1980年11月25日 - 1982年(返上) |
空位 次タイトル獲得者 ミルトン・マクローリー |
前王者 アユブ・カルレ |
WBA世界ジュニアミドル級王者 1981年6月25日 - 1981年(返上) |
空位 次タイトル獲得者 三原正 |
前王者 トーマス・ハーンズ |
WBA世界ウェルター級王者 1981年9月16日 - 1982年11月9日(返上) |
空位 次タイトル獲得者 ドナルド・カリー |
前王者 マービン・ハグラー |
WBC世界ミドル級王者 1987年4月6日 - 1987年(返上) |
空位 次タイトル獲得者 トーマス・ハーンズ |
前王者 ドニー・ラロンド |
WBC世界ライトヘビー級王者 1988年11月7日 - 1989年1月10日(返上) |
空位 次タイトル獲得者 デニス・アンドリュース |
前王者 N/A |
WBC世界スーパーミドル級王者 1988年11月7日 - 1990年(返上) |
空位 次タイトル獲得者 マウロ・ガルバノ |