ノート:白江権左衛門
この記事は2012年2月1日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、存続となりました。 |
白江権左衛門は直井太郎左衛門なのか? 真屋新助と一騎打ちをしたのか?
その前に、この記事名は「白江護権左衛門」になっていますが、「白江権左衛門」が正しいのではないでしょうか?
もしそうなら、いずれ改名提案でもするとして、『富加町史 下巻』247頁を見ると、「白江権左衛門(喜左衛門又は庄右衛門ともあり)」とあって、この三つの名前があるのはいいのですが、では直井太郎左衛門は本当に別名なのでしょうか?
『富加町史 上巻』所載の『永禄美濃軍記』を見ると、直井太郎右衛門と中屋新助が組み合い、新助が太郎右衛門の首を取ろうとしたが、加治田勢の攻撃を受け負傷し、下人に追われて退くところを、白江庄右衛門に追い詰められて首を取られたとあります。長井太郎右衛門(たぶん左衛門と同一人物)と白江庄右衛門は明らかに別人で、しかも庄右衛門と新助の戦いはとても一騎打ちとは言えません。
次に『堂洞軍記』を見ると、加治田城守備隊の中に白江喜左衛門がいます。で、それとは別に直井太郎左衛門がいて真屋新助と一騎打ちをし、新助を討ち取ります。白江喜左衛門と直井太郎左衛門は別人で、一騎打ちをしたのは太郎左衛門です。
最後に『南北山城軍記』を見ると、真屋新助と直井太郎右衛門が組み合っているところへ、白江庄右衛門が来合わせ、二人掛りで新助を討ち取ります。長井太郎右衛門と白江庄右衛門は別人で、真屋新助を一騎打ちで倒してはいません。
上記のどれが正しいのかというより、どれも軍記物なので信頼がおけないと言った方がいいのかもしれませんが、少なくとも白江権左衛門と直井太郎左衛門は別人であり、直井太郎左衛門は真屋新助を一騎打ちで倒したかもしれないが、白江権左衛門は一騎打ちで倒してはいないとは言えるのではないでしょうか。
この記事にはまだ問題が多々あると思われるのですが、さしあたり以上の点を指摘させていただきます。--立花左近 2012年1月31日 (火) 18:49 (UTC)
上記により、人物・逸話の節で「一軍の将であり、各合戦に従軍し、勇敢で一対一の戦いが得意であり、好んでいた」とあるのは不正確です。また、加治田兼山合戦で加治田清水口の一部隊の将を務めたことはありますが、一軍の将というのは言い過ぎだと思います。「加治田・兼山合戦において、一騎打ちの勝負を挑み、森氏の豪の者・真屋新助の首を討ち取り、森勢は退却した」も、同様に不正確です。
なお、「討死後、遺骸は富加町の齢峯寺に持ち込み、天猷和尚を導師として葬儀を行った」とあるのは出典が不明で、『富加町史』にはなく、外部リンクの白江庄右衛門(サイト「板津介次郎成景」内の澤潟四郎氏による)を参考にしたものと思われます。「豊臣秀吉に仕えた林悦は子孫とも言われている。坂津氏とは分家である」も出典が「澤潟四郎」としてあるので同様と思われます。しかし、澤潟四郎氏は同サイトの自己紹介によれば一般人の方であり、大変恐縮ながら同サイトはWikipedia:外部リンクの選び方#掲載してよい外部リンクには当たらないと思います。--立花左近 2012年2月1日 (水) 03:04 (UTC)
改名提案
Wikipedia:削除依頼/白江護権左衛門が存続になりましたので、本記事の白江権左衛門への改名を提案いたします。『富加町史』に載っているこの人物の表記は白江権左衛門であり、護権左衛門ではなく、今のところ『富加町史』以外の信頼できる情報源でこの人物に言及したものが見つからないためです。--立花左近(会話) 2012年3月23日 (金) 09:12 (UTC)