コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

仁礼功太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
印刷用ページはサポート対象外です。表示エラーが発生する可能性があります。ブラウザーのブックマークを更新し、印刷にはブラウザーの印刷機能を使用してください。
にれ こうたろう
仁礼 功太郎
本名 渡辺 銀次郎 (わたなべ ぎんじろう)
別名義 市川 若三郎 (いちかわ じゃくさぶろう)
春日 陽二郎 (かすが ようじろう)
生年月日 (1901-12-05) 1901年12月5日
没年月日 (1998-09-13) 1998年9月13日(96歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市本所区東駒形(現在の東京都墨田区東駒形)
死没地 日本の旗 日本 京都府京都市
職業 歌舞伎俳優映画俳優
ジャンル 歌舞伎劇映画時代劇剣戟映画
活動期間 1919年 - 1970年
配偶者 大町麗子
著名な家族 岸野雄一(大甥)
主な作品
鞍馬天狗 竜攘虎搏の巻
春秋一刀流
宮本武蔵 一乗寺決闘
テンプレートを表示

仁礼 功太郎(にれ こうたろう、1901年12月5日 - 1998年9月13日)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5]。本名渡辺 銀次郎(わたなべ ぎんじろう)。旧芸名市川 若三郎(いちかわ じゃくさぶろう)、春日 陽二郎(かすが ようじろう)[1][3][4]

人物・来歴

1901年(明治34年)12月5日東京府東京市本所区東駒形(現在の東京都墨田区東駒形)の左官業の家の長男(3男1女)として生まれる[1][4]。1914年(大正3年)3月、東京市本所区横川尋常小学校(現在の墨田区立横川小学校)を卒業する。

1919年(大正8年)8月、市川九蔵(のちの九代目市川團蔵[信頼性要検証]門下の市川若猿の内弟子になり、「市川 若三郎」を名乗る[1]。同年、浅草みくに座」で初舞台を踏んでいる[1]。1922年(大正11年)には兵役を務め、除隊後は嵐雛升の旅一座に参加し、地方を巡業する[1]。市川九蔵の一門に復帰するのは、1927年(昭和2年)5月のことであった[1]。同年、奈良県にある市川右太衛門プロダクション(あやめ池撮影所)に入社し、「春日 陽二郎」と改名、同年4月29日に公開された押本七之助監督の『侠骨漢 笑ふな金平』で映画界にデビューした[1][3][6][出典無効]。翌1928年(昭和3年)3月、同社の女優であった大町麗子と結婚した[1][7][出典無効]。1929年(昭和4年)7月5日公開、伊藤大輔監督の『一殺多生剣』にも出演している[3]。同社で、市川芳之助こと沢田清と出逢う。

1931年(昭和6年)、日活太秦撮影所に入社、当初は「春日陽二郎」名で活動し、同年7月14日公開、伊藤大輔監督の『鼠小僧旅枕』が同社での初仕事であった[3]。1935年(昭和10年)には、仁礼 功太郎と改名、同年10月1日公開、稲垣浩監督の『千両礫』が最初の同名義でのクレジットである[2][3]。1941年(昭和16年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活京都撮影所は大映京都撮影所となり、仁礼は同社に継続入社する[2][4][5]。1943年(昭和18年)以降は、沢田清とともに地方を巡業し、実演を行なった[1]

第二次世界大戦後は、1951年(昭和26年)4月1日に設立されたばかりの東映に入社した[1]1963年(昭和38年)には同社を退社してフリーランスとなり、1967年(昭和42年)にはテレビ映画に進出、満69歳を迎える1970年(昭和45年)には引退した[1]。晩年も京都府京都市東山区に居住した。

1998年(平成10年)9月13日、死去した[5]。満96歳没。妻の大町麗子との間に4男1女がいる。ゲイリー芦屋らとの音楽ユニット「ヒゲの未亡人」で知られるスタディスト(勉強家)の岸野雄一は、大甥(兄姉の孫、岸野からみて仁礼が大叔父)にあたる[8]

フィルモグラフィ

すべてクレジットは「出演」である[2][3]。役名のわかるものは公開日の右側に記し[2][3]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9][10]

市川右太衛門プロダクション

特筆以外すべて製作は「市川右太衛門プロダクション」、配給は「松竹キネマ」である[3]。すべて「春日陽二郎」名でクレジットされたもの[3]

日活京都撮影所

すべて製作は「日活京都撮影所」あるいは「日活太秦撮影所」、配給は「日活」である[2][3]

日活太秦撮影所
日活京都撮影所

大映京都撮影所

特筆以外はすべて製作は「大映京都撮影所」、配給は「映画配給社」である[2]

東映京都撮影所

特筆以外はすべて製作は「東映京都撮影所」、配給は「東映」である[2]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 仁礼功太郎jlogos.com, エア、2012年11月16日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 仁礼功太郎日本映画データベース、2012年11月16日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 春日陽二郎、日本映画データベース、2012年11月16日閲覧。
  4. ^ a b c d 仁礼功太郎KINENOTE, 2012年11月16日閲覧。
  5. ^ a b c d 仁礼功太郎allcinema, 2012年11月16日閲覧。
  6. ^ 侠骨漢 笑ふな金平 前篇、日本映画データベース、2012年11月16日閲覧。
  7. ^ 大町麗子 - 日本映画データベース、2012年11月16日閲覧。
  8. ^ 90年代レコード文化反省会”. 美学校. 2012年10月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年11月16日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 仁礼功太郎東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月16日閲覧。
  10. ^ a b c d e f 仁禮功太郎、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月16日閲覧。
  11. ^ プレミア上映 幻の『一殺多生剣』発見!”. 京都映画祭. 2012年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年11月16日閲覧。
  12. ^ 殉教血史 日本二十六聖人、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月16日閲覧。
  13. ^ SFX前史 特撮技術の誕生”. 神戸映画資料館. 2013年5月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年11月16日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク