岩橋小弥太
人物情報 | |
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生誕 |
1885年10月11日 日本大阪府大阪市東区 |
死没 |
1978年12月9日 (93歳没) 日本 |
出身校 | 國學院大學 |
学問 | |
研究分野 | 日本史・国文学 |
研究機関 | 京都帝国大学、東京帝国大学、 國學院大學 |
学位 | 文学博士 |
岩橋 小弥太(いわはし こやた、明治18年(1885年)10月11日 - 昭和53年(1978年)12月9日)は、日本の歴史学者。國學院大學名誉教授。
経歴
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
1885年(明治18年)、大阪府大阪市東区に生れた。1904年3月、大阪府立天王寺中学校を卒業。同級には西田直二郎、折口信夫、武田祐吉らがいた。私立國學院大學師範部国語漢文科に進学し、1907年(明治40年)7月に卒業。
卒業後は、1097年8月より大阪市史編纂事務嘱託に就いた。1909年3月、大阪市を辞めて三省堂編修所に勤務し、『辞林』の増補に従事。1911年4月からは国書刊行会に勤務した。 1914年(大正3年)9月、三井家史編纂事務を嘱託される、1916年12月まで従事。1917年4月、八代国治等の推薦により京都帝国大学文科大学助手に採用された。当時国史研究室には内田銀蔵、三浦周行両教授がいた。なお、三浦が國學院大學で日本法制史を講義していた時に、岩橋はこれを受講していた。1919年10月、東京帝国大学より史料謄写事務を嘱託され兼任。1924年10月、京都帝国大学文科大学を退官。その後は、堺市史資料蒐集事務嘱託となった(1926年10月まで)。
1925年5月、東京帝国大学史料編纂官に就任。『大日本史料』第7編を担当。1926年5月には、國學院大學教授に就いた。1933年(昭和8年)4月、明治大学文科専門部教授を兼任。1939年3月からは國學院大學附属神道部教授。1941年3月、帝国学士院より宸翰集成編纂事務を嘱託された。太平洋戦争下の1944年には紀元二千六百年奉祝会会務を嘱託され、『宸翰英華』の編纂に従事した。
- 戦後
1946年4月、國學院大學学部教授。1947年2月、東京帝国大学史料編纂官を退官。1949年4月、明治大学文学部兼任教授(昭和33年3月まで)。同年10月、学位論文『中世の謡物に関する研究』を國學院大學に提出して文学博士の学位を取得[1]。1959年2月、文化財専門審議会専門委員・書跡部会長を委嘱された。1968年3月、國學院大學を退官し、名誉教授となった。1978年12月、老衰のため死去、正四位を追贈された。墓所は多磨霊園にある[2]。
受賞・栄典
研究内容・業績
主に古文書の調査・研究に業績をあげたほか、上代から近世におよぶ日本史全般、さらには中世芸能史、神道史・国文学など幅広い分野で活躍した。
著書
- 『日本舞踏史』国史講習会 1922
- 『京畿社寺考』雄山閣 1926
- 『史料採訪』峯文荘 1944
- 『日本芸能史 中世歌舞の研究』芸苑社 1951
- 『上代史籍の研究』第1集 吉川弘文館、1956
- 『上代史籍の研究』第2集 吉川弘文館 1958
- 『上代官職制度の研究』吉川弘文館 1962
- 『花園天皇』(人物叢書) 吉川弘文館 1962
- 『上代官吏制度の研究』吉川弘文館 1964
- 『上代食貨制度の研究』第1集 吉川弘文館 1968
- 『上代食貨制度の研究』第1集 吉川弘文館 1969
- 『日本の国号』吉川弘文館 1970
- 『神道史叢説』吉川弘文館 1971
- 『律令叢説』吉川弘文館 1972
- 『増補上代史籍の研究』吉川弘文館 1973
- 『芸能史叢説』吉川弘文館 1975
- 『上田秋成』有精堂 1975
- 『翰墨史話』木耳社 1978
参考文献
- 『國史学』第108号〈岩橋小弥太博士追悼号〉、國史学会、昭和54年3月
- 岩橋小彌太の芸能史研究・学問の道(國學院大學メディア)