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アウグスト・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公アウグスト・ヴィルヘルム
August Wilhelm von Braunschweig-Wolfenbüttel-Bevern
ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家
アウグスト・ヴィルヘルムの肖像画、1760年以前の作品。

称号 ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公
出生 1715年10月10日
ブラウンシュヴァイク
死去 (1781-08-02) 1781年8月2日(65歳没)
シュテッティン
父親 ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公エルンスト・フェルディナント
母親 エレオノーレ・シャルロッテ・フォン・ケトラー
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ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公アウグスト・ヴィルヘルムドイツ語: August Wilhelm von Braunschweig-Wolfenbüttel-Bevern1715年10月10日 - 1781年8月2日)は、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公の一人、ベーヴェルン公。

生涯

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1715年、ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公エルンスト・フェルディナントとエレオノーレ・シャルロッテ・フォン・ケトラーの間の長男として、ブラウンシュヴァイクで生まれる。1731年にプロイセン王国軍に入隊した後、1739年に歩兵連隊の大佐に昇進。少将としてホーエンフリートベルクの戦いで頭角を現し、1750年に中将に昇進した[1]。ちなみに、プロイセン王フリードリヒ2世の王妃エリーザベト・クリスティーネは同年生まれの従姉妹にあたる。

アウグスト・ヴィルヘルムはフリードリヒ2世配下の士官のうち最も老練で精確に行動する者であった。彼は1756年のロボジッツの戦いでプロイセン軍の一翼を率い、1757年4月21日のライヒェンベルクの戦いクリスティアン・モーリッツ・フォン・ケーニヒスエッグ=ローテンフェルス英語版率いるオーストリア軍に勝利した。続くプラハの戦いコリンの戦い、およびその後のゲルリッツへの撤退でも参戦、同年秋にフリードリヒ2世がフランス軍を迎撃するために移動すると、アウグスト・ヴィルヘルムは残ったプロイセン軍を率いた[1]

アウグスト・ヴィルヘルムは圧倒的な人数を有する敵軍に対し防御戦をよく戦ったが、モイスの戦いハンス・カール・フォン・ヴィンターフェルト将軍を失ったことは大きな痛手となった。彼はやがて11月22日のブレスラウの戦いで会戦に持ち込まれて大敗した。翌朝にオーストリア軍の捕虜にされ、1年間囚われた。1759年に歩兵将軍に任命され、1762年8月11日にシュヴァイトニッツ英語版を救援しようとするオーストリア軍をライヒェンバッハの戦いで撃破した。フベルトゥスブルク条約の後、アウグスト・ヴィルヘルムは引退してシュテッティンに戻り、1781年に死去した[1]

脚注

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  1. ^ a b c  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Brunswick-Bevern, August Wilhelm". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
アウグスト・ヴィルヘルム
ヴェルフ家分家

1715年10月10日 - 1781年8月2日

先代
エルンスト・フェルディナント
ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公
1746年 - 1781年
次代
フリードリヒ・カール・フェルディナント