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アポクシュオメノス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バチカン美術館のアポクシュオメノス(1849年、ローマのトラステヴェレ区で発見)

アポクシュオメノス(Apoxyomenos)は古代ギリシア彫刻によく見られる主題で、古代ローマなどでも使われた肌かき器を使って汗や汚れを落としているアスリートを表している。拭う者(Scraper)とも。

古典古代期の最も有名なアポクシュオメノスは、アレクサンドロス3世のお抱え彫刻家だったシキオンリュシッポスが紀元前330年ごろ制作したものである。もともとのブロンズ像は失われたが、大プリニウスの『博物誌』の記述で知られており、さらに紀元前20年ごろローマの将軍マルクス・ウィプサニウス・アグリッパローマに建設したアグリッパ浴場にリュシッポスの傑作を設置した。後の皇帝ティベリウスはこの像に夢中になり、それを自分の寝室に移させた[1]。しかしこれが「我々のアポクシュオメノスを取り戻せ」という騒動に発展し、皇帝は恥をかいた。

ローマのバチカン美術館にある大理石製の複製は、1849年にローマのトラステヴェレ区で発見されたもので、この像の複製とされている(右図)。その石膏模型がすぐに各国のコレクションに入れられ、教科書にもよく掲載されるようになった。この像は等身大よりやや大きく、ポリュクレイトスの7頭身ではなく、リュシッポスの特徴である8頭身で、手足が長く薄い。大プリニウスによれば、リュシッポスはいつも、他の芸術家は人間をありのままに描くが、自分は人をそうあるべき姿に描くと言っていたと注記している。リュシッポスの彫像は真のコントラポストとなっており、外に伸ばした腕が動きを与え、見る角度によって違った表情を見せる。

大プリニウスはまた、同じ主題をポリュクレイトスやその弟子であるシキオンのダイダロスが制作していることにも言及している[2]。ポリュクレイトス派の断片的な[3]ブロンズ像[4]は、腕を低く構え、左腕から汗と汚れを落とそうとしている[5]。この像は1896年、トルコエフェソスの遺跡で出土した。現在はウィーン美術史美術館で保管している。保存状態が非常によいため、紀元前4世紀のオリジナルなのか、ヘレニズム時代の複製なのかは学者の間でも議論になった[6]ウフィツィ美術館メディチ家コレクションにはクラシック期のneo-Attic様式の像があり、エフェソスのブロンズ像が発掘される以前は紀元前5世紀のオリジナルと見られていた[7]

クロアチアのアポクシュオメノス

1999年、クロアチアロシニ島近海でほぼ完全なアポクシュオメノスのブロンズ像が見つかった。これは今のところ、紀元前2世紀から紀元前1世紀のヘレニズム期の複製と見られている。現在はザグレブの美術館に Croatian Apoxyomenos として収蔵されている(左図)。ふくよかで短いあごや整っていない頭髪などの特徴がエフェソスのブロンズ像と共通している[8]

エルミタージュ美術館には頭部の素晴らしい複製がある[9]。別のアポクシュオメノスのブロンズ像頭部が18世紀初頭にヴェネツィアで Bernardo Nani のコレクションに入っていた(現在は Kimball Art Museum にある)。Naniのコレクションには他にもペロポネソス半島で見つかったものが含まれていた。Kimball Art Museum はこの頭部もギリシア本土で見つかったものではないかとしている。この頭部もクロアチアのアポクシュオメノスと同様、唇に銅が化粧張りされていて[10]、目にはガラスや銅が象嵌されていた。このようにクロアチアのアポクシュオメノスを代表とする特徴が共通な像の断片は6個ほど見つかっており、古代にはよくあるアポクシュオメノスだったとも示唆されている。一方、バチカンのアポクシュオメノスはポーズが逆向きであり[11]、リュシッポスのオリジナルからの派生と見られている。

ギャラリー

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脚注・出典

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  1. ^ と、大プリニウスは記している。ピュグマリオーンの神話とプラクシテレスクニドスのアプロディーテー像の賛美者に関してローマで流布していた逸話を参照。ティベリウスは少なくともその像を自分の宮殿に移させた。
  2. ^ Pliny: pueros duos destringentes se (Natural History 34.76); リュシッポスの息子 Daippos もアポクシュオメノスを制作したと言われている。
  3. ^ 234の破片から再構成された像で元々は7つの部分からできていた。出典: Steven Lattimore, "The Bronze Apoxyomenos from Ephesos" American Journal of Archaeology 76.1 (January 1972:13-16) p. 13.
  4. ^ エフェソスの台座にダイダロスのサインが見つかり、そのアポクシュオメノスが彼のものだという憶測がなされた。 (Lattimore 1972:14 note 21 に文献情報がある)
  5. ^ 最初の復元は Kunstgewerbe Museum が1953年に行った。ボストン美術館にあるローマ時代の大理石製の小型の複製 (acc. no. 00.304) には手と肌かき器も残っている (Cornelius C. Vermeule, "Greek Sculpture and Roman Taste", Boston Museum Bulletin 65 No. 342 (1967:175-192, illus. p. 178)。Zagreb Apoxyomenos が見つかる前は、Lattimore 1972 で左手の指で肌かき器を掃除しているのではないかという示唆もされていた。
  6. ^ この議論についての書誌情報は Lattimore 1972:13 note 7 にある。
  7. ^ L. Bloch, "Eine Athletenstatue der Uffiziengallerie" Römische Mitteilungen 7 (1892:81-105) and Uffizi guidebooks, noted by Lattimore 1972:13 note 5.
  8. ^ Lattimore 1972:15.
  9. ^ O. Waldhauer, Die Antiken Skulpturen der Hermitage, vol. II (1913) cat. no. 140, noted in Lattimore 1972.
  10. ^ クロアチアのアポクシュオメノスでは、乳首も銅が象嵌されている。
  11. ^ ポーズが逆であることを最初に指摘したのは H. Lauter, "Ein seitenverkehrte Kopie des Apoxyomenos", Bonn Jahrebuch 167 (1967:119-28).

参考文献

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