ウォルター・モンタギュー・ダグラス・スコット (第5代バクルー公爵)
第5代バクルー公爵ウォルター・モンタギュー・ダグラス・スコット Walter Montagu Douglas Scott, 5th Duke of Buccleuch | |
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5代バクルー公 | |
生年月日 | 1806年11月25日 |
出生地 | イギリス、ミッドロージアン、ダルキース・ハウス |
没年月日 | 1884年4月16日 (77歳没) |
死没地 | イギリス、セルカークシャー、ボウヒル |
出身校 | ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ |
所属政党 | 保守党 |
称号 |
ガーター勲章勲爵士 (KG) アザミ勲章勲爵士 (KT) 枢密顧問官 (PC) |
配偶者 | レディ・シャーロット・シン |
内閣 | 第2次ピール内閣 |
在任期間 | 1842年2月2日 - 1846年1月21日 |
国王 | ヴィクトリア |
内閣 | 第2次ピール内閣 |
在任期間 | 1846年1月21日 - 1846年7月6日 |
国王 | ヴィクトリア |
第5代バクルー公爵および第7代クイーンズベリー公爵ウォルター・フランシス・モンタギュー・ダグラス・スコット(英: Walter Francis Montagu Douglas Scott, 5th Duke of Buccleuch, 7th Duke of Queensberry,KG PC FRS FRSE、1806年11月25日 - 1884年4月16日)は、イギリスの貴族、政治家。ガーター勲章勲爵士、アザミ勲章勲爵士(後に返上)、枢密顧問官。
保守党に所属し、サー・ロバート・ピールの下で王璽尚書や枢密院議長を務めた。
経歴
[編集]ダルキース伯爵チャールズ・モンタギュー=スコット(後の第4代バクルー公爵・第6代クイーンズベリー公爵)の二男として、スコットランド・ミッドロージアン州ダルキースのダルキース・ハウスで生まれる[1][2][3][4][5][6]。母親のハリエット・キャサリンは内務大臣や商務大臣(President of the Committee on Trade and Foreign Plantations)[訳語疑問点]などを歴任した初代シドニー子爵トマス・タウンゼンドの娘[1][2][3][4][5][6]。1808年に兄のスコット卿(ホイットチェスター卿)ジョージ・ヘンリー・スコットが死去したため公爵位の法定推定相続人となる。1819年に父親の死去により13歳で襲爵[1][4][5][6]。
1822年に行われたジョージ4世のスコットランド行幸の際には国王をダルキース・ハウスに招いた[1][2][3][4]。20年後、1842年のヴィクトリア女王のスコットランド行幸においても女王夫妻はダルキース・ハウスを訪問した[1][2][3][4]。また1838年にロイヤル・カンパニー・オブ・アーチャーズの総司令官(Captain general)[訳語疑問点]に任じられた。
イートン・カレッジを経てケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジで学び、1827年に修士号(M.A.)を取得[7]。1834年にオックスフォード大学から名誉民法学博士号(D.C.L.)を、1842年にケンブリッジ大学から名誉法学博士号(LL.D.)を、1874年に総長を務めていたエディンバラ大学から同じく名誉法学博士号(LL.D.)を授与された[1][2][3][4]。1833年には王立協会フェローに選出された[8]。
1828年にミッドロージアンの統監(Lord Lieutenant of Midlothian; 知事)に任じられ[9]、1841年からロックスバラシャー統監(Lord Lieutenant of Roxburghshire)も兼ねた[10]。1830年にアザミ勲章[11]を受勲するが、1835年にガーター勲章[12]を受勲したときにアザミ勲章騎士団からは退団している。
1842年に王璽尚書として入閣、同時に枢密顧問官に列せられる[13]。1846年に枢密院議長に転任[14]。
1835年から1842年にかけて、バクルーは50万ポンド以上の私財を投入してエディンバラのフォース湾に面したグラントン地区に港を建設した[1][2][3][4]。これによってグラントンは石炭の輸出とアフリカハネガヤ(エスパルト; 製紙原料)の輸入で大きく発展した。
1884年4月16日、スコットランド・セルカークシャー州ボウヒルで死去し、ミッドロージアン州ダルキースの聖メアリ礼拝堂に葬られた[1][2][3][4]。爵位は長男のダルキース伯爵ウィリアム・モンタギュー・ダグラス・スコットが相続した[1][2][3]。
家族
[編集]妻は第2代バース侯爵トマス・シンの娘シャーロット・アンで、1829年8月13日にロンドンの聖ジョージ教会で結婚した[1][2][3]。シャーロットは女官長(Mistress of the Robes; 衣装係女官)となった[15]。彼女との間に以下の子供をもうけた。
- ダルキース伯爵ウィリアム・ヘンリー・ウォルター・モンタギュー・ダグラス・スコット (1831年 - 1914年) - 第6代バクルー公爵・第8代クイーンズベリー公爵(1884年襲爵)
- ヘンリー・ジョン・ダグラス・スコット・モンタギュー卿 (1832年 - 1905年) - 初代ビューリューのモンタギュー男爵(1885年叙爵)
- ウォルター・チャールズ・モンタギュー・ダグラス・スコット卿 (1834年 - 1895年) - 陸軍大佐
- フランシス・ロバート・モンタギュー・ダグラス・スコット卿 (1837年 - 1839年)
- チャールズ・トマス・モンタギュー・ダグラス・スコット卿 (1839年 - 1911年) - 海軍大将
- レディ・ヴィクトリア・アレグザンドリナ・モンタギュー・ダグラス・スコット (1844年 - 1938年) - ションバーグ・ケアー卿(後の第9代ロージアン侯爵)夫人、後にバートラム・タルボット夫人
- レディ・マーガレット・エリザベス・モンタギュー・ダグラス・スコット (1846年 - 1918年) - ドナルド・キャメロン夫人
- レディ・メアリ・シャーロット・モンタギュー・ダグラス・スコット (1851年 - 1908年) - ウォルター・ロドルフ・トレフューシス夫人
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j Lundy, Darryl. “Walter Francis Montagu Douglas Scott, 5th Duke of Buccleuch” (英語). thepeerage.com. 2012年1月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward [in 英語], ed. (1912). "BUCCLEUCH". The Complete Peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain, and the United Kingdom Extant, Extinct, or Dormant (英語). Vol. 1 (1 ed.). London: The St. Catherine Press, ltd. pp. 371–372. 2012年1月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Paul, James Balfour, Sir [in 英語], ed. (1905). "SCOTT, DUKE OF BCCLEUCH". The Scots peerage (英語). Vol. 2. Edinburgh: David Douglas. pp. 245–247. 2012年1月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Paton, Henry (1897). "Scott, Henry (1746-1812)". In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 51. London: Smith, Elder & Co. pp. 25–26.
- ^ a b c Doyle, James William Edmund [in 英語], ed. (1886). "DONCASTER.". The Official Baronage of England: Showing the Succession, Dignities, and Offices of Every Peer from 1066 to 1885 (英語). Vol. 1. London: Longmans. pp. 605–606. 2012年1月8日閲覧。
- ^ a b c Burke, Bernard, Sir [in 英語], ed. (1869). "BUCCLEUCH.". A genealogical and heraldic dictionary of the peerage and baronetage of the British Empire (英語) (31 ed.). London: Harrison. pp. 147–148. 2012年1月8日閲覧。
- ^ "Douglas, Montague Scott Walter Francis, 5th Duke of Buccleugh and Queensbury. (DGLS806MS)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ "Scott; Walter Francis (1806 - 1884); 5th Duke of Buccleuch and 7th Duke of Queensberry". Record (英語). The Royal Society. 2012年1月8日閲覧。
- ^ "No. 18429". The London Gazette (英語). 4 January 1828. p. 26. 2012年1月8日閲覧。
- ^ "No. 20048". The London Gazette (英語). 3 December 1841. p. 3135. 2012年1月8日閲覧。
- ^ "No. 18743". The London Gazette (英語). 9 November 1830. p. 2345. 2012年1月8日閲覧。
- ^ "No. 19243". The London Gazette (英語). 24 February 1835. pp. 334–335. 2012年1月8日閲覧。
- ^ "No. 20067". The London Gazette (英語). 4 February 1842. p. 285. 2011年12月18日閲覧。
- ^ "No. 20567". The London Gazette (英語). 3 February 1846. p. 364. 2011年12月18日閲覧。
- ^ "No. 20017". The London Gazette (英語). 10 September 1841. p. 2273. 2011年12月18日閲覧。
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Walter Scott
- Cricinfo: Lord Drumlanrig
公職 | ||
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先代 第2代バッキンガム公爵 |
王璽尚書 1842–1846 |
次代 第9代ハディントン伯爵 |
先代 初代ウォーンクリフ男爵 |
枢密院議長 1846 |
次代 第3代ランズダウン侯爵 |
名誉職 | ||
先代 第16代モートン伯爵 |
ミッドロージアン統監 1828–1884 |
次代 第5代ローズベリー伯爵 |
先代 第7代ロジアン侯爵 |
ロクスバラシャー統監 1841–1884 |
次代 第7代ロクスバラ公爵 |
学職 | ||
先代 サー・ウィリアム・ スターリング=マクスウェル |
グラスゴー大学総長 1878–1884 |
次代 第10代ステア伯爵 |
スコットランドの爵位 | ||
先代 チャールズ・ モンタギュー=スコット |
バクルー公爵 第2期 1819–1884 |
次代 ウィリアム・ モンタギュー=ダグラス=スコット |
クイーンズベリー公爵 1819–1884 | ||
職能団体・学会職 | ||
先代 協会設立 |
サーティーズ文書刊行会会長 1834–37 |
次代 エドワード・モルトビー |
職能団体・学会職 | ||
先代 第4代ノーサンバーランド公爵 |
サーティーズ文書刊行会会長 1865–84 |
次代 ウィリアム・スタブス |