エドワード・プランタジネット (第17代ウォリック伯爵)
エドワード・プランタジネット Edward Plantagenet, Earl of Warwick | |
---|---|
第17代ウォリック伯 第7代ソールズベリー伯 | |
ウォリック伯エドワード・プランタジネット | |
在位 |
ウォリック伯:1478年 - 1499年 ソールズベリー伯:1485年 - 1499年 |
出生 |
1475年2月25日 イングランド王国、ウォリック |
死去 |
1499年11月28日(24歳没) イングランド王国、ロンドン塔 |
家名 | ヨーク家 |
父親 | クラレンス公ジョージ |
母親 | イザベル・ネヴィル |
ウォリック伯エドワード・プランタジネット(Edward Plantagenet, Earl of Warwick, 1475年2月25日 - 1499年11月28日)は、クラレンス公ジョージの息子。クラレンス公の弟イングランド王リチャード3世(1483年 - 1485年)、代わって王位についたヘンリー7世(1485年 - 1509年)の統治下では王位継承権も持っていた。ソールズベリー伯爵夫人マーガレット・ポールの末弟でもある。その名が示す通り、プランタジネット家の男系男子の最後の生き残りであった。
生涯
[編集]1475年2月25日、エドワードは母イザベル・ネヴィル(「キング・メーカー」とも呼ばれたウォリック伯リチャード・ネヴィルの上の娘)の実家で生まれた。彼は父クラレンス公が反逆によって私権を剥奪され、処刑されたすぐ後の1478年にウォリック伯に叙された。
1483年に従兄エドワード5世が即位した。本来であればウォリックにはエドワード5世の弟ヨーク公リチャードに次ぐ王位継承権があったはずであったが、クラレンス公が私権剥奪状態であったことを根拠に(議会制定法によって覆すことは可能だったはずであるが)、継承者から除外された。
エドワード5世を廃して即位したリチャード3世の一人息子エドワード・オブ・ミドルハムが1484年に急死すると、10歳のウォリックは叔父リチャードの王位継承者に指名された。これは王妃アン・ネヴィル(ウォリックの母方の叔母であり、両親の死後ウォリックと姉マーガレットを養子にしていた)の影響のおかげと言われている。
しかし1485年にアン王妃が死ぬとすぐに、リチャード3世は姉エリザベス・オブ・ヨークの息子で既に成人に達しているリンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポールを、ウォリックに代えて王位継承者に指名した。恐らくリチャードは、息子を亡くして1年も経っていない失意の王妃を喜ばせるために、あくまで一時的な処置としてエドワードを王位継承者に指名したものと思われる。
多くの歴史家がウォリックは知恵遅れであったと記している。しかしそれらの論拠は、歴史家エドワード・ホールが「ウォリックは長いこと牢に入れられて、人や動物と切り離されたため、ガチョウと鶏を区別することもできない」と書いたことに基づいている。
1485年にリチャード3世を倒してテューダー家のヘンリー7世が即位すると、ウォリックはロンドン塔に投獄された。この時点ではまだヘンリー7世の王権は確固たるものではなく、ヨーク派の後継者として王位継承権を持つウォリックは厳しくマークされたのである。特に、1487年にランバート・シムネルがウォリックの名を騙って反逆を企てると、より厳しく監禁されることとなった。
1490年には父親の私権剥奪にもかかわらず、ウォリック伯の称号を許された。ただし、相変わらずロンドン塔に収監された状態である。この状態は1499年に、ヘンリー7世に反旗を翻したパーキン・ウォーベックがロンドン塔に投獄されるまで続く。ウォリックとパーキンは脱獄を企てるが失敗し、両名とも反逆罪として絞首刑に処された。ここに、プランタジネット家の男子は絶え、女子の方も姉のマーガレットが1541年に処刑されたことで完全に断絶した。
イングランドの爵位 | ||
---|---|---|
先代 ジョージ・プランタジネット |
ウォリック伯 1478年 - 1499年 |
次代 消滅 |
先代 リチャード・ネヴィル |
ソールズベリー伯 1485年 - 1499年(消滅) |
次代 マーガレット・プランタジネット (1513年 復興) |