ヨハン・ペーター・エッカーマン
ヨハン・ペーター・エッカーマン(Johann Peter Eckermann, 1792年9月21日 - 1854年12月3日)は、ドイツの詩人・作家である。ゲーテの後半生に深い交流を行い、『ゲーテとの対話』を発表した。
生涯
[編集]ドイツ北西部のハノーファー選帝侯国(現・ニーダーザクセン州)北部のエルベ川河口近くのヴィンゼン(ルーエ)(現・ハールブルク郡ヴィンゼン市)に生まれた。低い身分の家柄で、貧困のうちに育った[1]。ナポレオン戦争に志願兵として従軍した後に、ハノーファーの陸軍省から秘書へ任命された。1817年、25歳ながらハノーファーのギムナジウムへ通うことが可能になり、その後ゲッティンゲン大学に進学したが、1年間法学を学んだ後1822年に当地を去った[1]。
翌23年、ゲーテに「詩に対する寄稿論文」(Beiträge zur Poesie) の草稿を送ったことでゲーテの知遇を得た。その後すぐにヴァイマルへ移り家庭教師として身を立てた。その後数年間、ヴァイマル大公の息子も指導した。1830年4月にはゲーテの息子・アウグストとイタリア旅行をしたが、10月にアウグストはローマで亡くなった[2]。1838年にはザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の評議員の肩書きを与えられ、大公妃の司書に任命された[1]。1854年12月3日にヴァイマルで死去した[3]。
著作
[編集]『ゲーテとの対話』(第1巻・第2巻1836年、第3巻1848年)は、ヨーロッパの主な言語でも翻訳された[4]。英訳版は、マーガレット・フラー版、ボストン、1839年/ジョン・オクセンフォード版、ロンドン、1850年 [3]がある。ゲーテはエッカーマンに彼の『遺作』(Nachgelassene Schriften, 1832年 - 1833年)の刊行を一任した、エッカーマンはフリードリヒ・ヴィルヘルム・リーマーと共に1839年から1840年にかけ刊行された「ゲーテ全集」(全40巻)の共編者でもあった。
『ゲーテとの対話』と「詩に対する寄稿論文」の他には1巻の詩集 (Gedichte) を1838年に刊行している[5]。
- Johann Peter Eckermann: Gespräche mit Goethe in den letzten Jahren seines Lebens. Brockhaus, Leipzig 1836-1848.
- Erster Theil. Brockhaus, Leipzig 1836. (Erster Teil)
- Zweyter Theil. Brockhaus, Leipzig 1836. (Zweiter Teil)
- Dritter Theil. Brockhaus, Leipzig 1848. (Dritter Teil)
- 日本語訳
- 『ゲエテとの対話 第1・2・3』 ヨオハン・ペエテル・エツケルマン、亀尾英四郎訳、春陽堂、1922-27年
- 『ゲエテとの対話 抄』エツケルマン、亀尾英四郎訳、岩波文庫、1927年、完訳版(上中下)、1951年。Amazon Kindle版がある(上妻純一郎 編、現行仮名に改訂)
- 『ゲーテ対話の書』エッカーマン、神保光太郎訳、改造社(上下)、1937年。日本社(全3巻)、1948年
- 『ゲーテとの対話』 神保光太郎訳、角川文庫(上下)、1965年
- 『ゲーテとの対話』 奥津彦重訳、「ゲーテ全集 第59・60巻」丁字屋書店 1948-49年。旧・河出文庫(全4巻)1954-56年
- 『ゲーテ対話録』 ビーダーマン兄弟 編、大野俊一・菊池栄一・国松孝二・高橋義孝ほか訳、白水社(全5巻)、1962-70年。後半部に収録
- 『ゲーテとの対話』エッカーマン、山下肇訳、岩波文庫(上中下)、1968-69年(ワイド版2001年)、改版2012年(現行版、電子書籍あり)
引用した著作・コミック
[編集]- 水木しげる『ゲゲゲのゲーテ』 双葉新書、2015年、のち電子書籍版:双葉文庫
- ※ 水木は戦地に『ゲエテとの対話』を持ち出すほど、愛読していた。
- 『ゲーテとの対話』バラエティ・アートワークス企画・画/まんがで読破:イースト・プレス、2010年
脚注
[編集]- ^ a b c Chisholm 1911, p. 885.
- ^ 『もう一人のゲーテ アウグストの旅日記』に詳しい。エッカーマン自身の書簡・手記も収録(藤代幸一・石川康子訳、法政大学出版局、2001年)
- ^ a b Chisholm 1911, pp. 885–886.
- ^ Rines 1920.
- ^ Chisholm 1911, p. 886.