エマヌエル・アミラン
エマヌエル・アミランとして知られるエマヌエル・アミラン・プガチョフ(Emanuel Amiran-Pougatchov、ヘブライ語: עמנואל עמירן-פוגצ'וב、 1909年8月8日 - 1993年12月18日)は、エマヌエル・プガチョフ (Emmanuel Pugatschov) としてポーランド(当時はロシア帝国領)のワルシャワに生まれ、イスラエルのキブツ・ヤクムに没した作曲家、教師[1][2][3]。
経歴
[編集]アミランは、ワルシャワで10歳から、ヨーゼフ・エンゲル (Joseph Engel)、ダヴィト・ショレ (David Shore)、エンゲル・ワインベルク (Engel Weinberg) の下で音楽を学んだ。後にはベルリンに赴き、さらに3年間音楽を学んだ。1928年から2年間は、エルサレムでソロモン・ロソウスキーの下で学んだ。
アミランの音楽と、それに結びついた教育についての研究は[4]、その後も続き、1934年以降は、イギリスのトリニティ音楽院で、サー・グランヴィル・バントックやアレックス・ロウリー (Alex Rowley) の下で学び続けた。1936年に再びイスラエルに戻ると、教育に従事し、後にはレオ・ケステンベルク (Leo Kestenberg) とともにテルアビブに音楽教師セミナー (the Music Teachers' Seminary) を立ち上げて、主宰者としても、教育担当者としても活動した。1948年、軍隊用の音楽を手がける士官となり、砲兵隊の指揮官であったサムエル・エドモンド (Samuel Edmond) と協力することとなった。さらにヤコブ・プレザント大尉 (Captain Jacob Pleasant) とともに、イスラエル陸軍軍楽隊を創設した。彼らが組んだ軍楽隊は、オットー・グロニッチ (Otto Gronich) が率いていたアレクサンドリアのオーケストラとともに、後にイスラエル国防軍オーケストラが創設される際に中核を成すこととなった。
1948年、イスラエルの建国に際し、アミランは、初代の音楽視学官 (Inspector of Music (Minister for Music Education)) に任じられ[5]、1975年に引退するまでその地位にあった[6]。
アミランは、リクリエーション活動用の歌などで最もよく知られているが、その作曲作品には、交響曲や合唱曲、音楽教育用の曲のほか、600曲以上のフォークソングが含まれていた[1][5][7]。日本では、世俗的な合唱曲とされる「マイム・マイム」[8]が、もっぱらフォークダンスの楽曲として広く知られている[9]。
おもな著書
[編集]- Mi barechev; (New Horizon choral series)(Unknown Binding - 1973)
脚注
[編集]- ^ a b Biographies – Amiran (Pougatchov) Emanuel (1909-1993) - ウェイバックマシン(2012年3月18日アーカイブ分)
- ^ Copyright © 2005 maplandia.com comparison map location Yakum with location of Yaqum - Retrieved 2011-09-02
- ^ http://www.zemereshet.co.il/artist.asp?id=109 Retrieved 2011-09-02
- ^ IMI Archived 2011-08-22 at the Wayback Machine. Retrieved 2011-09-02
- ^ a b Jewish World Life Online 2011年9月2日閲覧。
- ^ © 2011 DeepDyve, Inc Retrieved 2011-09-02
- ^ “IMI”. 2011年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年9月2日閲覧。
- ^ “エマヌエル・アミラン - Emanuel Amiran (1909-1993)”. NAXOS. 2020年11月21日閲覧。
- ^ “ユダヤ人が驚愕する”ニッポンの不思議” 「マイム・マイム」の「マイム」って何?”. 講談社 (2018年3月1日). 2020年11月21日閲覧。
関連項目
[編集]- en:List of Israeli classical composers
- en:Secular Jewish music
- en:Contemporary Jewish religious music