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カトワーンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カトヴァーンの戦いから転送)
カトワーンの戦い
1141年9月9日
場所サマルカンドの北
結果 西遼の勝利
衝突した勢力
西遼 セルジューク朝
西カラハン朝
指揮官
耶律大石
蕭斡里剌
蕭剌阿不
アフマド・サンジャル
マフムード2世
戦力
20,000[1] - 300,000(イスラームの歴史家によって誇張されたと思われる数)[2] 50,000[3] - 100,000[4]
被害者数
不明 50,000[3] - 100,0000[4]

カトワーンの戦い(カトワーンのたたかい)は、1141年9月9日に起きた、西遼セルジューク朝西カラハン朝連合軍の戦闘である。この戦いでセルジューク朝は大敗を喫し、この時からセルジューク朝の衰退が始まる[5]

背景

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916年より、中国北部には契丹人の国家であるが存在していたが、1125年女真族の国家であるによって滅ぼされた。皇族の耶律大石は遼の遺民の一部を率いて中央アジアに移動し、東カラハン朝の本拠地であるベラサグンを制圧した。

1137年に西遼の軍はホジェンド近郊で西カラハン朝を破り、西カラ・ハン朝の君主マフムード2世を臣従させる。敗れたマフムード2世は叔父にあたるセルジューク朝のスルターンアフマド・サンジャルに助けを求めた[6][7]1141年、要請に応えたサンジャルは自ら軍隊を指揮し、西カラハン朝の首都サマルカンドに入城した。セルジューク朝の臣従国であったホラズム・シャー朝の手引きによって西遼はセルジューク領に侵入し、セルジューク朝・西カラハン朝と対立していたカルルク族も西遼を頼った[8]

戦闘

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両軍の兵数は史料によって異なるが、西遼は20,000から300,000人、セルジューク軍は70,000から100,000人の兵士を率いていた。また、西遼軍には30,000から50,000人のカルルクの遊牧民も加わっていた[9]

サマルカンド北のカトワーン草原で、西遼軍とセルジューク軍は交戦した。耶律大石は部隊を3つに分け、蕭斡里剌と耶律松山らが率いる右翼、蕭剌阿不と耶律術薛らが率いる左翼にそれぞれ2,500人の兵士を配置した[10]。西遼軍はセルジューク軍を包囲して攻撃をかけ、セルジューク軍の本隊はサマルカンドから12km離れたDarghamというワジへと追いやられる。退路を断たれたセルジューク軍は壊滅し、サンジャル自身ははかろうじて戦場からの脱出に成功するが、セルジューク軍の司令官らのほかに、サンジャルの后も捕虜となった。[11]

影響

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戦後、耶律大石はサマルカンドに90日間留まり、現地のイスラム教徒の貴族から臣従の誓いを受け、マフムード2世の兄弟イブラーヒームを新たな西カラハン朝の君主とした。また、ホラズム・シャー朝も西遼の従属国となる。1142年に西遼の将軍エルブズはホラズム地方に侵入し、ホラズム・シャー朝の君主アトスズは西遼に対して年30,000ディナールの貢納を支払うことに同意した[11][12]

また、この戦闘の情報がシリア十字軍を通してヨーロッパに誤りを含んだ形で伝えられ、キリスト教国の君主プレスター・ジョンの伝説を生むことになったとも言われる[7]

脚注

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  1. ^ Asimov, M. S., The Historical, Social and Economic setting, (Motilal Banarsidass, 1999), 238頁
  2. ^ "The Historical Prester John", Charles E. Nowell, Speculum, Vol. 28, No. 3 (Jul., 1953), 442頁
  3. ^ a b "Dailamīs in Central Iran: The Kākūyids of Jibāl and Yazd", C. E. Bosworth, Iran, Vol. 8, (1970), 90頁
  4. ^ a b Sykes, Percy, A History of Persia, Vol. 2, (Routledge and Kegan Paul, 1969), 50頁
  5. ^ Journal of Central Asia", Vol. 16, (Centre for the Study of the Civilizations of Central Asia, 1993), 19頁
  6. ^ Biran, Michal. (2005), 42頁
  7. ^ a b 井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112-113頁
  8. ^ Biran, Michal. (2005), 41-43頁
  9. ^ Biran, Michal. (2005), 43-44頁
  10. ^ 『遼史』巻30,耶律大石
  11. ^ a b Biran, Michal. (2005), 44頁
  12. ^ C.M.ドーソンモンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注、東洋文庫平凡社、1968年3月)、332-333頁

参考文献

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  • 井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編、新版世界各国史、山川出版社、2002年8月)
  • Biran, Michal. (2005). The Empire of the Qara Khitai in Eurasian History: Between China and the Islamic World. Cambridge University Press.
  • 『遼史』巻30