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クイテンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クイテンの戦い
戦争:チンギス・カンのモンゴル統一戦争
年月日壬戌(1202年)
場所ケルレン河オノン河の間
結果:キヤト・ケレイト連合軍の勝利
交戦勢力
指導者・指揮官
テムジン(モンゴル部)
オン・カン(ケレイト部)
ブイルク・カン(ナイマン部)
クドカ・ベキ(オイラト部)
クドゥ(メルキト部)
アウチュ(タイチウト氏)
戦力
不明 不明
損害
不明 不明
Template:Campaignbox チンギス・カンのモンゴル統一戦争

クイテンの戦いとは、1202年にキヤト・ケレイト連合軍と、反キヤト・ケレイト同盟軍(ナイマン部、メルキト部、ドルベン氏、タタル部カタギン氏、サルジウト氏)との間で行われた戦闘。コイテンの戦いとも表記される。モンゴル高原東方において急速に勢力を拡大しつつあったキヤト・モンゴル部族を警戒した諸部族が同盟を組んで仕掛けた戦いであるが、最終的にはキヤト・ケレイト連合軍の勝利に終わり、これ以後周辺諸部族はキヤト・ケレイト連合の拡大を押しとどめることができなくなった。

後述するように、『元朝秘史』ではこの戦いが1201年に行われたとし、この戦いでタイチウト氏が滅亡したことを強調するが、これらは『元朝秘史』の脚色で史実ではない。

背景

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タイチウト氏の弱体化

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12世紀末、モンゴル高原東方のモンゴル部族内ではジャジラト氏(ジャダラン氏)のジャムカキヤト氏のテムジン(後のチンギス・カン)との間での主導権争いが激しくなり、やがて両者はダラン・バルジュトの地で激突した(十三翼の戦い)。この戦いの勝敗については諸説あるが、いずれにせよこの戦いを経てジャムカは人望を失ったようで、1190年代にはジャムカ陣営からテムジン陣営に寝返る者が多数現れた。この中には後に四駿四狗に数えられるスルドス氏チラウンベスト氏ジェベ千人隊長に任じられたニチュグト・バアリン氏アラクナヤア兄弟、ジャライル部トランギト氏ジョチ・チャウルカンらがいた[1]

1200年(庚申)、ジャムカ勢力の弱体化を好機と見たテムジンは同盟勢力ケレイト部のオン・カンと合流し、オノン河においてジャムカ陣営最大の勢力を有するタイチウト氏を急襲した。タイチウト氏の首領タルグタイ・キリルトク、アンクゥ・アクチュウ(アウチュ・バアトル)、クリル、クドダル(クドウダル)らがこれを迎撃したが敗れ、ウレン・トラスの地にてタルグタイ・キリルトクらは捕虜となり、アンクとアウチュらはバルグジン・トクムに、クリルはナイマン部にそれぞれ逃れた[2][3]

このような状況に危機感を懐いたのがモンゴル部のカタギン氏、サルジウト氏、ドルベン氏、コンギラト部といった未だテムジンに服属していないモンゴル高原東方の諸部族で、上記4部族にタタル部族を加えた5部族はアルクイ泉で会盟し、雌雄の馬を斬ってキヤト・ケレイト連合を打倒することを誓った。これらアルクイ泉同盟軍の動きは、コンギラト部(ボスクル氏)の人間であるがテムジンの義父でもあるデイ・セチェンによってテムジンに知らされ、キヤト・ケレイト連合軍は急ぎ軍を興してブイル湖附近でアルクイ泉同盟軍を撃ち破った[4][5]

ジャムカの推戴

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アルクイ泉同盟を撃破した同じ年の冬、更にテムジンは単独でモンゴル高原東方の有力部族、タタル部族をダラン・ネムルゲスの戦いで撃ち破り、テムジンの勢力はモンゴル高原東方において名実共に最も強大なものとなった。そこで翌1201年(辛酉)、「アルクイ泉同盟」のモンゴル部のカタギン氏、サルジウト氏、ドルベン氏、コンギラト部のコンギラト本氏、コルラス氏、イキレス氏、タタル部のアルチ氏の諸部族を加えたモンゴル高原東方の諸部族はアルグン河の支流ケン河に結集してジャダラン氏出身のジャムカを「グル・カン」に推戴した。このジャムカ推戴は金朝と同盟して勢力を拡大するキヤト・ケレイト連合に対する、「西遼派」諸部族の巻き返しという側面があったものと考えられている[6]

この「ジャムカの推戴」の参加者にタガイカという人物がおり、テムジンに仕えるジュウレイト部のチョウルとは以前から親しかったためこの推戴について密かに知らせた。驚いたチョウルは急ぎ戻り、偶然出会ったコルラス部のイェスゲイに相談し、イェスゲイは家人のコリダイを使者としてテムジンの下に派遣することとした。コリダイの報告によってテムジンは先手を打って軍を動かすことに成功し、ハイラル河流域のイディ・クルカンの戦いでジャムカの軍勢を撃退した[7]

クイテンの戦い

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1202年(壬戌)秋、モンゴル高原東方において名実共に最大の勢力となったキヤト・ケレイト連合に対抗するため、ジャムカ一派はナイマン部のブイルク・カン、メルキト部のトクトア・ベキ、オイラト部のクドカ・ベキらとも同盟を組み、キヤト・ケレイト連合に決戦を挑んだ。この報せを聞いたテムジンとオン・カンは迎撃のためにケルレン河を下り、テムジンは自らの叔父のアルタン・オッチギン、従兄弟のクチャル・ベキ、叔父のダアリタイ・オッチギンを、オン・カンは自らの息子イルカ・セングンと弟のジャカ・ガンボ、重臣のビルゲ・ベキらをそれぞれ斥候として派遣した。斥候はエネゲン・グイレトゥ、チェクチェル、チクルグゥ方面に放たれたが、やがてチクルグゥ山から敵軍が接近中との報告が入った。

反キヤト・ケレイト同盟軍の先鋒はタイチウト氏のアウチュ・バアトル(アンクゥ・アクチュウ)とメルキト部のクドゥで、両軍の先鋒の間で早くも戦端が開かれたが、本格的な戦闘には至らず両軍は一度撤収して決戦は翌日に持ち越された。なお、『元朝秘史』はキヤト・ケレイト連合側の先鋒が「夕暮れになったから、明朝、決戦しようぞ」と申し入れて、敵軍の先鋒もそれを受け容れたという逸話を伝えている。この時、諸史料が一致して伝えるところによるとキヤト・ケレイト連合軍はアラル河畔に拠ったという[8]

翌日、両軍はキヤト・ケレイト連合軍が拠ったアラル塞からほど近いクイテンの地で激突したが、天候がキヤト・ケレイト連合軍に味方し、悪天候の中進軍できなかったナイマン軍らは潰走してしまった[9]。なお、『元朝秘史』はこの時ナイマンのブイルク・カンとオイラトのクドカ・ベキが「ジャダ(風雨を起こす呪法)」でキヤト・ケレイト連合軍を阻もうとしたが失敗して自軍に風雨を起こしてしまい、「天神のご加護を得られなかったぞ」と叫んで退却したという伝承を記録している[10]

『元朝秘史』の記述

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『元朝秘史』は『集史』や『聖武親征録』といった他の史料に比べて物語色が強いと屡々評されるが、「クイテンの戦い」についての記述はとりわけ史実と乖離していることが指摘されている。「クイテンの戦い」に至る流れは上述したように「(1)チラウンらのテムジン派への投降(2)タイチウト氏・タタル部の撃破によるモンゴルの勢力拡大に対し、(3)危機感を強めたコンギラトら東方諸部族がジャムカを推戴して結集したがそれでも敵わず、(4)ナイマン・メルキト・オイラトといった遠方の諸部族も味方に引き入れて決戦を挑んだ」結果生じたものである。しかし、『元朝秘史』は(1)(2)と(3)(4)の順番を入れ替えて「クイテンの戦いの結果、タイチウト氏の撃滅とチラウンらの投降が生じた」と記し、また(3)と(4)を混同してナイマン・メルキト・オイラトを含むモンゴル高原一円の諸部族からジャムカが推戴されてテムジンに戦いを挑んだかのように記している[11]

『元朝秘史』がこのように史実を改変して「クイテンの戦い」について記述するのは、編者がテムジンにとって幼少期以来の宿敵であるタイチウト氏の撃滅を最も重要であると見なす故に、「タイチウト氏の撃滅」がクイテンの戦いの主題であると読者が認識するよう務めたためであると考えられている[12]

脚注

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  1. ^ 『聖武親征録』「族人忽敦忽児章怨塔海答魯反側、遂殺之。照烈部已亡矣、泰赤烏部衆苦其長非法、相告曰『太子衣人以己衣、乗人以己馬、安民定国、必此人也』。因悉来帰。赤剌温抜都・哲別二人実泰赤烏族脱脱哥家人、亦来帰。初、上嘗為塔児忽台所執、赤剌温抜都父梭魯罕失剌密釈之、是以帰我。哲別之来、実以力窮故也。失力哥也不干手執阿忽赤抜都・塔児忽台二人来至忽都渾野、復縦之去、止将己子乃牙・阿剌二人来帰。後搠只・魯鈔罕二人率朶郎吉札剌児部、及委葉勝和率忙兀部亦来帰」
  2. ^ 『モンゴル帝国史1』p52
  3. ^ 『聖武親征録』「上会汪可汗於薩里河不魯古崖、発兵征泰赤烏部、与其長沆忽・阿忽出・忽憐・忽都答児別吉等大戦於斡難河上、敗之。襲帖泥忽都・徒思月哥察児別吉・塔児忽台希憐禿・忽都答児、至月良兀禿剌思之野擒之、沆忽・阿忽出・忽敦忽児章走巴児忽真隘、忽憐奔乃蛮部」
  4. ^ 『モンゴル秘史1』p312-316
  5. ^ 『聖武親征録』「後哈答斤・散只兀・朶児班・塔塔児・弘吉剌諸部会盟爾阿雷泉上、腰斬白馬為誓、欲襲我軍及汪可汗。於是弘吉剌部長畳夷遣人来告。上聞之、遂与汪可汗発兵自虎図沢逆戦於杯亦烈川、大敗之」
  6. ^ 松田2016,59-60頁
  7. ^ 『聖武親征録』「於是弘吉剌遂附札木合、与亦乞剌思・火羅剌思・朶魯班・塔塔児・哈答斤・散只兀諸部、会於犍河、共立札木合為局児可汗、謀欲侵我、盟於禿律別児河岸、為誓曰『凡我同盟、於泄此謀者如岸之摧・如林之伐』。言畢、同挙足蹋岸、揮刀斫林、馳衆駆馬悉赴我軍。有塔海哈者時在衆中、上麾下照烈氏抄吾児与之親、往視之、偶並駆、実不知有是謀。塔海哈以馬鞭築其肋、抄吾児顧塔海哈目之、抄吾児悟、下馬佯旋。塔海哈因告之河上之盟曰『事急矣、汝何往』。抄吾児驚、即還遇火魯剌氏也速該言其事、将赴上告之。也速該曰『我長婦之子、与忽郎不花往来無旦夕、我左右只有幼子及家人火力台耳』。因命与火力台誓而往、乗以蒼驢白馬、属之曰『汝至彼、惟見上及太后兼我婿哈撒児則言之。荀泄於他人、願断汝腰、裂汝背』。誓訖乃行、中道遇忽蘭抜都・哈剌蔑力吉台軍囲、為其巡兵所執、以旧識得解。因贈以獺色全馬、謂曰『此馬遁可脱身、追可及人、可乗而去』。既又遇氊車白帳之隊往札木合所者、隊中人出追抄兀児。抄兀児乗馬絶馳而脱、至上前、悉告前謀。上即起兵迎之、戦於海剌児帖尼火羅罕之野、破之。札木合遁走、弘吉剌部来降」
  8. ^ 村上1970,314-315頁
  9. ^ 『聖武親征録』「壬戌……是秋、乃蛮杯禄可汗会蔑児乞部長脱脱別吉・朶魯班・塔塔児・哈答斤・散只兀諸部曁阿忽出抜都・忽都花別吉等、来犯我軍及汪可汗。上先遣騎乗高覘望於捏干貴因都・徹徹児・赤忽児黑諸山、有騎自赤忽児黒山来告乃蛮漸至、上与汪可汗自兀魯回失連真河時阿忽出・火都二部兵従乃蛮来、与前鋒合。将戦、遙望亦剌合軍勢不可動、遂還。亦剌合尋亦入塞、会我兵擬戦、置輜重他所。上与汪可汗倚阿蘭塞為壁、大戦於闕亦壇之野。彼祭風、風忽反、為雪所迷、軍乱填溝墜塹而還。時札木合従杯禄可汗来、中道札木合引兵還、遇立己為可汗者、諸部悉討掠之」
  10. ^ 村上1970,312-315頁
  11. ^ 吉田2019,216-226頁
  12. ^ 吉田2019,228-229頁

参考文献

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  • 松田孝一「西遼と金の対立とチンギス・カンの勃興」『13-14世紀モンゴル史研究』第1号、2016年
  • 安田公男「『金史』に現れる人物「障葛」について」『13-14世紀モンゴル史研究』第2号、2017年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 1巻』平凡社、1970年
  • 吉田順一『モンゴルの歴史と社会』風間書房、2019年