グレアム・ヤング
グレアム・ヤング Graham Young | |
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個人情報 | |
本名 |
グレアム・フレデリック・ヤング (Graham Frederick Young) |
生誕 |
1947年9月7日 イングランド ミドルセックス ウィルズデン市自治区 ニースデン |
死没 |
1990年8月1日 (42歳没) イングランド ワイト州 パークハースト刑務所 |
死因 | 心臓発作(異説あり) |
殺人 | |
犠牲者数 | 3名 |
犯行期間 | 1961年–1971年 |
国 | イギリス |
逮捕日 | 1971年11月21日 |
司法上処分 | |
刑罰 | 終身刑 |
有罪判決 | 1972年6月28日 |
判決 | 終身刑 |
グレアム・フレデリック・ヤング(英語: Graham Frederick Young, 1947年9月7日 - 1990年8月1日)は、イギリスの連続殺人犯。毒物を用いた犯行を重ね、継母と仕事の同僚2名(ボブ・イーグル、フレッド・ビッグス)を毒殺した。
幼少期から最初の犯行
[編集]ロンドン郊外のニースデンという町(当時はミドルセックス州ウィルズデン市自治区。現在はブレント・ロンドン自治区)で生まれる。彼は幼い頃より毒物が人体に与える影響について強い興味を抱いていた。1961年、14歳のときに家族に毒を投与することを試み、重篤な結果を生じさせる。彼はアンチモンやジギタリス製剤を少量ずつ頻繁に購入したが、学校の化学実験で使用するとして大量の毒物を購入することに成功した。
1962年、ヤングを虐待していた継母モリーに致死量の毒を与えたことで殺害した。その後、更には父親、姉妹、学校の友人たちにも毒物を与えた。その一方で彼はどの食物に毒物を混入したかしばしば忘れ、犠牲者と同じように吐き気や病気に苦しむことがあったため、彼に疑いがかかることは無かった。しかしグレアムの叔母ウィニーは彼が科学と毒物に熱中していたことを知っていたため、やがて彼を疑うようになり、グレアムは精神科医を受診させられた。そこで診察に当たった医師は、毒物に対する知識と情熱を熱心に語るグレアムの博識さを褒めそやし帰宅させたが、その後そのまま警察に通報した。かくして、グレアムは1962年5月23日に14歳で逮捕され、彼は父親、姉妹および友人に対する殺人未遂を認めた。彼は所持していた酒石酸アンチモンカリウムを「小さな友達」と呼んでいたという。なお、継母の死については罪に問われなかった。継母を火葬することをあまりにもしつこく主張するグレアムに父親が折れたため、死因が分析できなくなっていたためである。
ヤングにはブロードムア病院(精神的に不安定な犯罪者のための機関)への15年の収監が宣告されたが、「完全に回復した」と認められたため9年後に釈放された。しかし実際には、彼は収監中も院内の図書館で化学書や医学書を読み漁り、そこから得た知識を基に病院敷地内に自生する植物からの有毒成分の抽出や、囚人仲間や病院のスタッフを被験体とした毒物投与の実験さえも行っていた。
第二の犯行
[編集]1971年の退院後、彼はハートフォードシャーのボーヴィンドンで写真店の店員の仕事を見つけた。店主のボブ・イーグルはブロードムア病院からの照会状を受け取ったが、主治医はその中に毒物による殺人で有罪になった過去を記載していなかった。ヤングが仕事を始めてすぐにイーグルは体調不良を訴え、まもなく死亡した。ヤングは仕事仲間に与える茶にアンチモンやタリウムといった毒物を混入した。病気は職場で次々と発生し、未知のウイルスによるものと誤解され「ボーヴィンドン・バグ」と呼ばれるようになった。吐き気や医師の診察を相当とした症状は、ヤングと彼が入れた茶によるものと考えることができた。
ヤングは続く数ヶ月の間に約70人に毒物を与えた。ボブ・イーグルの後任者は、写真店で仕事を始めると間もなく病気になったため、すぐに仕事を辞め命拾いした。ボブの死後、ヤングの同僚フレッド・ビッグスは病気が悪化しロンドン国立病院に入院した。不運にも入院時には手遅れで、フレッドは数週間苦しんだ末、ヤングによる3番目の犠牲者となった。
この時点で病気および死因に関する適切な調査が必要なのは明白だった。ヤングは調査官がタリウム中毒を死因と思わなかったかどうか、経営コンサルタントに尋ねた。彼はまた同僚の1人に自らの趣味が有毒な化学薬品を研究することだと話した。この同僚は直ちにヤングの過去を調べ、彼の犯罪歴を知るや驚いて警察に通報した。
ヤングは1971年11月21日に逮捕された。警察は彼のアパートでタリウムとアコニチン、ポケットの中からアンチモンとタリウムを発見した。さらにヤングの毒物投与とその症状を詳細に綴った日記を発見した。
ヤングの裁判はセント・アルバンス・クラウン法廷で1972年6月19日に始まり、10日間続いた。ヤングは有罪を認めず、日記に関しては彼が計画していた小説に関するメモで単なる空想だと主張した。しかし証拠は明白であり、ヤングは終身刑を宣告された。今回は精神異常者を収監する施設ではなく、通常の刑務所に収監された。彼は「ティーカップ・ポイズナー The Teacup Poisoner 」と呼ばれたが、自身は「ワールズ・ポイズナー World's poisoner 」と呼ばれることを望んだ。
ヤングは1990年にパークハースト刑務所の独房で死去した。公式の死因は心臓発作とされたが、実際は服毒自殺、あるいは他の囚人に殺害されたという推測もある。
影響
[編集]2005年11月、日本で少女がヤングを模倣し[要出典]、タリウムを用いて母を意識不明に追い込む犯罪が起きた[1]。
脚注
[編集]- ^ “タリウム事件決定要旨”. 47NEWS. 共同通信 (全国新聞ネット). (2006年5月1日). オリジナルの2011年12月5日時点におけるアーカイブ。
参考資料
[編集]- グレアムヤング毒殺日記 ISBN 4870312964 - 高橋啓 1997年 (tr.)
- 『The St Albans Poisoner: The Life And Crimes Of Graham Young』 - Anthony Holden 1974年
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Quick overview of Young's career
- Young's entry in the A-Z of Serial Killers
- Article about Young at Murder in the UK
- グレアム・ヤング - Find a Grave