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ケーレシ・チョマ・シャーンドル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ケーレシ・チョマから転送)
ケーレシ・チョマ・シャーンドル(シェフト・アゴストン (Schöfft Ágoston) によるリトグラフ画)

ケーレシ・チョマ・シャーンドルハンガリー語: Kőrösi Csoma Sándor, 1784年4月4日[1] - 1842年4月11日)またはアレクサンダー・チョーマ・ド・ケーレス(Alexander Csoma de Kőrös, 出版物では印刷上の制約により Körös または Koros と書かれることが多い)は、ハンガリー東洋学者で、西洋のチベット学の祖。

ケーレシは出身地、チョマが姓、シャーンドルが名である。

生涯

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チョマの旅の経路

トランシルヴァニアのハーロムセーク(Háromszék, 現在のルーマニアコヴァスナ県)にあるケーレシ村(Kőrös, ルーマニア語:キュルシ/Chiuruș)で生まれた。この村の名は後にチョマにちなんでチョマケーレシ村(ハンガリー語: Csomakőrös)と改められた。

1816年から1818年までゲッティンゲン大学で学んだのち、1819年から1822年にかけて、インドスリナガルまで陸路を旅した。チョマはマジャル人の故地と信ずる中央アジアにインドから入ろうと試み、1822年にラダック地方レーに到達した。中央アジアに入ることはできなかったが、ザンスカールのザンラとプクタル、およびカナム(現ヒマーチャル・プラデーシュ州)の僧院でチベット語チベット仏教を学んだ。

1831年以降、カルカッタベンガル・アジア協会で図書館員として働きながら、チベット語・英語辞典[2]およびチベット語文法書[3]などを編纂した。

1842年にラサ入りをめざしたが、途中でマラリアに罹患して、ダージリンで病死した。

没後

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1933年には、ハンガリーの東洋学会よりチョーマ像が大正大学に寄贈された[4]

ハンガリー科学アカデミーのチョマ文書は2009年にユネスコ記憶遺産に指定された[5]

参考文献

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邦訳 T.デゥーカ 著、前田崇 訳『ヨーロッパ最初のチベット学者 チョーマ ド ケーレスの生涯』山喜房仏書林、1998年。 

脚注

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  1. ^ Duka (1885) p.3 による。一島 (1984) では1789年生まれ、外部リンクのハンガリー科学アカデミーのウェブサイトでは1787年または1788年生まれとしている。
  2. ^ A Dictionary, Tibetan and English. Culcatta: Baptist Mission Press. (1834). https://archive.org/details/essaytowardsadi00tshgoog 
  3. ^ A Grammar of the Tibetan language, in English. Calcutta: Baptist Mission Press. (1834). http://www.archivum.kcst.hu/grammar.html 
  4. ^ 「大正大学 資産 13回 チョーマ像」(『鴨台』96号、2014年、大正大学)
  5. ^ Csoma Archive of the Library of the Hungarian Academy of Sciences”. UNESCO. 2015年4月8日閲覧。

外部リンク

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ハンガリー科学アカデミーによる電子版チョマ文書。伝記を含む。
チョマの著作の多くをPDF形式で収める。