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グエン・ヴァン・レムの処刑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サイゴンでの処刑から転送)
グエン・ヴァン・レムの処刑
エディ・アダムズ(AP通信)撮影「サイゴンでの処刑」。発砲しているのがグエン・ゴク・ロアン中佐、撃たれているのがグエン・ヴァン・レム大尉。
場所 ベトナム共和国の旗 ベトナム共和国・サイゴン 10区ゴ・ザ・トー通り252番地
座標
北緯10度45分49.68秒 東経106度40分15.6秒 / 北緯10.7638000度 東経106.671000度 / 10.7638000; 106.671000座標: 北緯10度45分49.68秒 東経106度40分15.6秒 / 北緯10.7638000度 東経106.671000度 / 10.7638000; 106.671000
日付 1968年2月1日
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グエン・ヴァン・レムの処刑(Execution of Nguyễn Văn Lém)は、ベトナム戦争中の1968年2月1日、サイゴン(現在のホーチミン市)にて、ベトナム共和国(南ベトナム)の軍人グエン・ゴク・ロアンが、捕虜にした南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の士官グエン・ヴァン・レムを処刑したという出来事である。この一件は写真と映像で記録されて全世界に報道され、南ベトナムを支援していたアメリカ合衆国をはじめとする各国の人々に衝撃を与え、ベトナム戦争における反戦運動に大きな影響を及ぼした。

経緯

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1968年1月30日から2月にかけて、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)とベトナム民主共和国(北ベトナム)の軍隊による南ベトナム各都市への奇襲攻撃であるテト攻勢が敢行され、南ベトナムの首都であるサイゴンも攻撃を受けた[W 1]。テト攻勢が始まった2日後の2月1日、南ベトナム軍は、サイゴンにおける市街戦の最中、ベトコンの分隊リーダーだったグエン・ヴァン・レム大尉を逮捕した[W 2][W 1]

レムは、南ベトナム軍のグエン・トゥアン中佐(Nguyễn Tuân)とその妻、彼らの6人の子供、80歳の老母を殺害した嫌疑により拘束された[注釈 1]。レムは、南ベトナム軍中佐[注釈 2]南ベトナム警察英語版の長官の任にあったグエン・ゴク・ロアンの下へと連行され、略式の手続きにより、その場で銃殺刑が確定した[W 6]

ロアンは処刑を自らの手で即時執行し、小型拳銃のスミス&ウェッソン・ボディーガード英語版.38スペシャル弾を使用し[W 3]、サイゴンの路上で、後ろ手で縛られた状態のレムの頭を撃ち抜いた[W 2]

もしここで撃つことを躊躇し、義務を果たさなければ、兵士たちは私に従わなくなっていただろう。[W 5][W 2] — レムを射殺した後にロアンが述べたとされる言葉

この時の様子はNBCニュースの映像カメラマンであるボー・スー(Võ Sửu)と、アメリカ合衆国(米国)の報道写真家で、AP通信の写真記者をしていたエディ・アダムズによって撮影され、映像と写真として残された。それらは撮影の同日中に全世界に配信され、特にアダムズが撮影した写真はベトナム戦争への介入について米国内の世論に後述する大きな影響を及ぼした(→#写真『サイゴンでの処刑』とその影響)。

この処刑について、「もしも取材カメラマンがその場にいなければ、ロアンは処刑を実行していなかったのではないだろうか」とはしばしば指摘されている[2][3][W 5]

その後の論争

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ロアンへの糾弾

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写真と映像で広く知れ渡った結果、処刑を行ったロアンは悪名を伴って世界中に知られることとなった。この出来事の3ヶ月後の5月5日、ロアンはサイゴンにおけるベトコンとの戦闘で右足を切断することになる重傷を負った[W 5]。治療のためオーストラリアに運ばれたが、現地でロアンに対する激しい抗議運動が起きたことから、米国・ワシントンD.C.ウォルター・リード陸軍医療センター英語版への転院を余儀なくされた[W 5]。しかし、米国においても同様の抗議活動が起き、銃殺したことについての非難を受けた[W 5]

治療を終えてサイゴンに戻ったロアンは不具により指揮官としての任を解かれたため、以降は孤児たちへの支援に尽力した[W 5]。1975年のサイゴン陥落(ベトナム戦争の終結)で敗残の身となったロアンは南ベトナムから退避して米国に移民した[W 2]。米国に居を移したロアンはバージニア州フェアファックス郡バーク英語版の郊外で静かに隠れて暮らし、小さな食堂を営んで生活を築こうとした[4][W 7][W 6]

しかし、1978年に、米国議会の議員から、ロアンによるレムの略式処刑は当時の南ベトナムの法律に照らして違法であるという主張が行われ、調査が行われることになった[W 6]。同年、移民帰化局英語版(INS)は、ロアンが戦争犯罪を犯したことを理由として、彼に与えられていた永住権を取り消して国外追放しようとした[W 7][W 8]。当時の米国大統領であるジミー・カーター(在:1977年 - 1981年)は、この一件を報道で知り、「そのような歴史修正主義は愚かだ」(such historical revisionism is folly[W 8])と述べ、INSを管轄する司法省に直接命じ、INSが進めていたロアンへの国外追放の手続きを中止させた[W 6][W 8]

この一件は、INSの判断を支持する意見もあれば、それを中止させたカーターを支持する意見もある[W 8]

ロアン自身は、国外追放こそ免れたものの、この一件でバージニア州に住んでいることは知れ渡り[W 7]、ロアンの店にも脅迫まがいの言葉が落書きされるようになるなど、生活は困難を伴うようになった[W 2]。居場所を嗅ぎつけたジャーナリストの取材に対してロアンはベトナム戦争については口を閉ざし、「戦争は戦争だし、妥協はあり得ない」と述べたのみだったという[5]

略式処刑の合法性

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ロアンによる略式処刑について、戦後は上記のように違法性を問われることになるが、1949年のジュネーヴ諸条約の第3条約(捕虜の待遇に関する条約)に基づけば、この中で定義されている「捕虜」としての要件(第4条[W 9])をレムは欠いた状態で戦闘を行っていたことから、フラン=ティレール英語版(非正規兵士。この場合は「便衣兵」)とみなすことが可能で、レムは条約に基づく捕虜としての保護を要求できる立場にはなかった[W 3][注釈 3]。そのため、略式処罰は当時の時点でも合法という見解もあり[W 3]、実際、ロアンに対する軍法会議などは開かれておらず[W 10]、ベトナム戦争中はこの一件でロアンは法的責任を問われてはいない。

処刑された人物についての異説

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処刑された人物がベトコンに所属する軍人だったことについては異論は出ていない。

一方で、レムが処刑される理由となった大量殺人については、レムが死体の山のところにいたことを根拠としたもので、本当に犯人だったのかはわからないとも言われている。

また、処刑された人物が本当にグエン・ヴァン・レム(軍のコードネームは「ベイ・ロップ」{Bay Lop})という人物だったのか、ということにも疑義があり、別人だった可能性も指摘されている。

写真『サイゴンでの処刑』とその影響

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1968年の世界報道写真大賞を授与された際のアダムズ(右の人物)
1968年の世界報道写真大賞を授与された際のアダムズ(右の人物)

サイゴンでの処刑』(Saigon Execution)は、AP通信の報道写真記者であるエディ・アダムズがこの時の様子を撮影した写真に付けられた作品名である。この写真は、射殺の瞬間(銃弾が頭部に入る瞬間)を捉えたものになっている[2][W 11][W 2]

撮影の状況

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アダムズはベトナム戦争取材への派遣は3回目で、2月1日はNBCニュースのボー・スーと行動を共にし、サイゴンのチャイナタウンであるチョロン地区における戦闘を取材していた[1]。チョロンでの戦闘が終わった頃、1、2区画離れた地区から銃声が聞こえたため、現場へと向かったところ、南ベトナム軍の兵士がレムを連行しようとしているところだった[1][W 12]。アダムズは、それを見せしめのための引き回し(パープ・ウォーク英語版)だと考えて取材を始めた[1][W 12]。この写真を撮影するに至るまでの状況と撮影直後の様子について、アダムズは以下の述懐を残している。

近づいてくる3人にレンズを向け、何度かシャッターを切った。かなり近くまで、たぶん1.5メートルくらいまで来たとき、兵士たちが立ち止まり、後ろに下がった。すると左から1人の男がファインダーの中に入ってくると、ホルスターからピストルを抜いて、持ち上げた(中略)まさか撃つとは思わなかった。捕虜を尋問する時にピストルを頭に突きつけるのは普通のことだった。だから私はそのつもりで──捕虜を脅かして尋問する様子を撮ろうとカメラを構えた。ところが違った。[1][W 12](中略)
血が1メートル以上の高さまで飛びはねた。私は顔をそむけた、見ていられなかった、撮影などしていられなかった。あとになってようやく遺体の写真を1枚撮った。彼(ロアン)は、発射のあと私を見て、きっと弁明の必要があると思ったのだろう、こう言った。『こいつは私の部下を大勢殺したんだ。それに大勢の国民もな』、そして振り向いて、去っていった。[6][1][W 12] — アダムズの述懐[注釈 4]

アダムズは、この写真を撮影する際にカメラを向けていた時点では、ロアンはレムを脅して恐怖を与えるためだけに銃口を向けている(発砲するつもりはなかった)と考えており、そのため、自然にカメラを構えていたのだと後に述べている[1][W 2]。また、この時点では、アダムズはロアンが何者なのか(警察組織の高官であるということ)を具体的には把握していなかった[1][W 12]

この写真は上記の経緯で撮影されたもので、アダムズが射殺の瞬間を撮影したのは偶然で、撮影したアダムズ自身も自分が弾が発射された正にその瞬間を撮影していたということを撮影時点では気づいていなかった[6]

撮影に使用した機材はニコンニコンF)と35mm単焦点レンズの組み合わせで[1]、フィルムはコダック・トライX英語版シャッタースピード「1/500秒」、露出F11」の設定だったとされる[1]

世界への配信と反響

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背景

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ベトコンの攻撃により損傷したサイゴンの米国大使館(英語版)
ベトコンの攻撃により損傷したサイゴンの米国大使館英語版

ベトナム戦争は1950年代に始まり、南ベトナムに「軍事援助顧問団」を駐留させていた米国はその初期から軍次介入を行い、1962年に同団を改組して南ベトナム軍事援助司令部(MACV)を組織して、米軍による介入の度合いを強めていた。1968年初めの時点で、米国大統領のリンドン・ジョンソンと、MACV司令官のウィリアム・ウェストモーランドは、「ベトナムにおける戦争は最終段階にある」と言明しており、米国民の多くもそれを信じていた[W 1][注釈 5]

そのため、1968年1月末のテト攻勢により、南ベトナムの各都市が攻撃されたばかりか、首都のサイゴンで厳重な警備が敷かれていたはずの米国大使館英語版の敷地にまでベトコンの侵入を許し、一時的とはいえ失陥させた事態は、米国民に多大な衝撃を与えた[8][9][W 1]。それまでのベトナム戦争の戦闘は大部分が農村部や山岳地帯で展開されていたため、米国のテレビ局はそれらを十分に追うことはできていなかったが、テト攻勢は都市部が狙われた性質上、首都サイゴンに詰めていたテレビ局の取材記者や映像カメラマンの目の前で戦闘が展開されることになり、米国民もカラー映像による生々しい戦闘の様子を衛星中継を通してリアルタイムでテレビ視聴することになった[10][8]。米国大使館が攻撃を受ける様子も中継され、眼前まで「敵」が迫る様子や米兵が逃げ惑う様子を画面の中で目の当たりにしたことで、米国の一般民衆も政治家たちも軍の指導者たちに対して不信感を覚えるようになり、この期間に「この戦争はもはや負けだ」と考える米国民の割合は27%から44%に急上昇した[10][8]

こうした状況において、この写真は決定的な役割を果たすことになる[10]

配信された写真が与えた影響

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2期目の大統領選に出馬しないことを声明するジョンソン(1968年3月31日)
2期目の大統領選に出馬しないことを声明するジョンソン(1968年3月31日)

アダムズが撮影した写真は、撮影したその日の内にAP通信によって無線伝送で全世界に配信され、時差のため、米国では事件が起きたのと同日の2月1日朝の新聞各紙に掲載された[11][1]

NBCニュースのボー・スーが撮影した「映像」もまた世界中に配信されテレビ放送で使用され[注釈 6]、写真と映像のどちらも世界に大きな衝撃を与えたが、より大きな衝撃を与えたのはアダムズの写真だった[W 1](その理由についての分析は「#評価」を参照)。

「後ろ手で縛られた私服の男を路上で射殺した」様子を写したこの写真はセンセーションを巻き起こし、その背景など知らない者たちに戦争の残虐性と無秩序さを印象付けることになった[10][W 6][W 2][注釈 7]。それと同時に、「米国が不正義の南ベトナム政府に組して戦っている」ことの証拠とみなされ[W 4]、反戦を訴える政治的主張に利用されるようになる[1]。この写真は、変化しつつあった世論の流れを促進し[W 1]、特に米国内においては、戦いの無益さや、戦争に勝ってなどいなかったという(テト攻勢により生じた)思いを刺激することになり[W 2]、米国民の厭戦気分を増大させるとともに、反戦運動を一気に活性化させた[12][W 6]

テト攻勢が起き、この出来事が起きた1968年2月、CBSのニュース番組の司会者で「米国の良心」と呼ばれていたジャーナリストのウォルター・クロンカイトも米軍のベトナムへの介入を厳しく批判し、ベトナム戦争への世論に大きな影響を与えた[13]。ベトナム戦争への介入を指導していた米国大統領リンドン・ジョンソンは、こうした逆風の中で行われた民主党内の大統領選予備選挙で反戦を訴えるユージーン・マッカーシー(それまで泡沫候補でしかなかった)に肉薄される事態となり[10]、同年3月31日に同年の大統領選挙(2期目)への出馬を断念する旨を声明するに至った[10][14][W 11]

結果として、アダムズの写真はベトナム戦争において最も有名かつ影響力のある写真のひとつとなった[W 2]。この写真は、1968年に世界報道写真大賞、1969年5月にピューリッツァー賞ニュース速報写真部門)を受賞した[W 2]

当事者たちのその後

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撮影したアダムズにとって、この写真は大きな栄誉をもたらした一方、撮影したこと自体に非難を受けることもあった。世界報道写真大賞の授賞式では、「なぜ、射殺するのを止めなかったのか?」という質問を受け[15][3][W 11]、その場で反論こそしたものの[15]、それ以来2年ほど、アダムズはこの写真を見返すことができなくなったという[W 11]。ピュリッツァー賞を受賞した直後にも、「私はある男が別の男を射殺する様を撮影して金をもらった」、「二人の人生を破壊したことで、私はその報酬を得た。私はヒーローだった」と自嘲混じりに述べている[W 11]

この写真はアダムズの残りの写真家人生において、この写真に匹敵する写真を撮らなければならないというプレッシャーを与えもしたが[W 11]、その後のアダムズは写真家として大成し、戦場カメラマンとしても肖像写真家としても活躍を続けた。

被写体となったロアンは後に米国に移民するが、上述した糾弾を受けたほか、この写真によって印象付けられた「冷酷、無慈悲な殺人者」という汚名は彼を生涯に渡って苛み続けた[W 2]。戦後にロアンと親交を結んだアダムズもまた、この写真を撮ったことを後悔し、1998年にロアンが死去した際に、以下の弁を残している[W 2]

私はある人物が別の人物を撃った写真で1969年にピューリッツァー賞を受賞した。その写真の中では、銃弾を受けた男と、グエン・ゴク・ロアン将軍の二人が亡くなった。将軍はベトコンを殺し、私は私自身のカメラで将軍を殺してしまった。写真はこの世で最も強力な武器なのだ。人々は写真を信じるが、改竄を伴わない場合でさえ、写真は嘘をつく。写真とは真実の半分でしかないのだ。あの暑い日、将軍の前に連れて来られたあの男が、何人ものアメリカ兵を吹き飛ばした悪党としか呼べないような人物だったということを、あの写真は語っていない。ロアン将軍は、軍から称賛されるべき、真の戦士だった。彼のしたことが正しかったとは言わないが、彼の置かれた立場を考える必要がある[注釈 8]。将軍が戦争犠牲者のためにベトナムで病院建設に尽力していたということも、(写真には)書かれていない。あの写真は彼の人生をただただ台無しにしてしまった。にもかかわらず、彼は私のことを決して責めず、「君が写真を撮らなくても、他の誰かが撮っていただろう」と言っていた。私は長い間、彼と彼の家族に申し訳ないと思い続けていた。私は彼と連絡を取り続け、最後に話したのは、およそ半年前、彼は既に重篤な状態だった。彼の訃報を聞いた時、私は「申し訳ない。私の目には涙があふれている」と書いて花を贈った。[W 13] — アダムズが公表したロアンへの追悼文(1998年)

アダムズの弁の内、「写真は真実の半分に過ぎない」(They {Photographs} are only half-truths)という言葉は、フォトジャーナリズムの危うさについて撮影者と受け手に警鐘を鳴らすものとしてしばしば引用されている。

評価

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AP通信の写真編集部長を務めていたハル・ビュエル英語版は、この写真について「1枚のフレームの中で戦争の残虐性全てを象徴している」と2010年代に評し、撮影されてから半世紀経った後もこの写真が影響力を持ち続けているのはそのためだと述べている[W 2]

  • 写真そのものについての評価
頭蓋骨に銃弾を撃ち込まれた衝撃で、撃たれた男の顔は歪み、銃弾を発射したピストルは撃った男が伸ばした腕の中で反動を始めている。その様子を見ている写真左端の兵士は、ショックで顔をしかめているように見える。(この写真を見ている我々も)まさに死の瞬間を見せられているということに、彼と同じ嫌悪感や罪悪感を抱かずにはいられない。[W 2] — BBCによる評
写真というものには、それを見る者に深い影響を与え、心に留めさせる何かがある。この銃殺の様子を撮影したビデオ映像は、出来事の凄惨さを伝えるものではあるものの、この写真が伝えているような緊迫感、背筋の凍るような惨事(stark tragedy)といった感慨を呼び起こすものではない。[W 2] — ベン・ライト(アダムズの写真をアーカイブしているドルフ・ブリスコー・アメリカ史センター英語版の研究員)による評
アダムズの写真は弾丸が発射された瞬間を見せている。死んだ捕虜は顔をしかめてまだ倒れてはいない。写真を見る者はと言えば、この写真が撮られてから何年も経過したあとでさえ、私はこれらの顔を見て、自分が見物人の一人であることの不可解さ、いかがわしさを感じる。その気持ちが薄らぐことはない。[2] — スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』
  • 影響についての評価
この写真を公表したら2つの反応があるだろうということはわかっていた。ハト派は「南ベトナムにいるのがどんな連中なのか見るがいい」と言うだろうし、タカ派は「この写真は使われるべきではなかった。君たちも(国の)味方になるべきだ」と言うだろう、とね。しかし(それだけに留まらず)、この写真がもたらした衝撃はそれまでどっちつかずのスタンスを取っていた人々にまで及び、反応を呼び起こすものとなった。[W 4] — ハル・ビュエル英語版(当時のAP通信の写真編集部長。ニューヨーク本社に送られてきた写真を配信することを決めた)の述懐
わたしはそれ(AP通信により配信されたアダムズの写真)をすぐ編集会議に提出し、問題はこの写真を使うか否かではなく、どのサイズで載せるかだ、と主張した。[11](中略)この写真は他のいかなるベトナム戦争の映像にも増して、「はたしてこの戦争は勝利をめざすほどの価値があるのだろうか」という疑問を、人々に抱かせた。[16] — ジョン・G・モリス英語版(当時の『ニューヨーク・タイムズ』紙の写真編集部長。同紙は2月1日付紙面の1面に写真を掲載)
テレビ映像がいかに心を揺すぶられる内容であり、いかに恐怖の場面を写していても──深みはなく、心に食い込むこともない。一瞬にして消えてしまう。だが写真はわれわれの頭から離れない。[6](中略)この写真はその後、戦争の残酷さをショッキングに示すシンボルとなり、ベトナム戦争終結に向けて、数個師団にもまさる働きをした。この写真を見て以降アメリカ人は、こういう戦争で「自由のために」命をかける価値があるのかと、自問するようになったのである。[6][3] — グイド・クノップ『戦後50年 決定的瞬間の真実』
  • 倫理面についての評価
自分が救助できる立場にいて、ほかに救助できる人がいなくて、つまり撮影の後では手遅れになる場合、当然人命救助が優先される。もちろんこれにはしばしば誤算も伴う。(中略)「飢餓で死んでいくもっと多くの人間を助けるためにも、撮影を優先するべきだ」という声(『ハゲワシと少女』を撮影したカーターを擁護する意見)は、ベトナム戦争で「処刑の写真を撮るよりも助けるべきだった」という意見に対して、「事実を知らせることで死者の数が減った」という意見が勝ったことから導き出されている。しかし目の前の命を助けずにシャッターを切って、そのタイム・ラグのために命が消えたとしたら、そのフォト・ジャーナリストもメディアも強烈な批判にさらされ、社会的に抹殺されるだろう。助けることができたのに助けなかったことになるからだ。そうした批判を行う理性はまだこの世界では生きている。[17] — ケビン・カーターの『ハゲワシと少女』についての考察中の引用

受賞

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脚注

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注釈

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  1. ^ レムはベトコンの中でも南ベトナム要人たちを暗殺する部隊に所属していたと考えられている[W 3]
  2. ^ 処刑を行ったロアンのこの時点の階級は「中佐」(Lt. Col.)[W 4]、もしくは「大佐」(Colonel)で[W 5]、後に准将(少将)に昇進した[1]。そのため、資料によっては、ロアンの階級は最終階級の「少将」や「准将」で記載されていることもある。
  3. ^ 捕虜としての権利を主張するには、軍服や軍の標章など、戦闘員だと示した状態でいる必要があるなど、いくつかの要件があった[W 9]。写真と映像から明らかなように、レムは一般人と見分けのつかない服装をしており、そうした要件を満たしていない。
  4. ^ ほぼ同じ内容の述懐を1990年頃と[6]、1998年のAP通信による企画の時[W 12]など数度行っている。
  5. ^ 反戦運動は1960年代半ばから行われていたが、1967年(この写真が撮られる前年)の時点でも『ニューヨーク・タイムズ』、『ワシントン・ポスト』といった有力紙は戦争を支持する立場を採っていた[7]
  6. ^ ただし、様々な意味でセンシティブな映像だったため、NBCはこの映像を放映するにあたって処刑の残虐性を最小限に留めるよう編集を行った[12]
  7. ^ 一見すると不当な蛮行に見えたことから即座の嫌悪感を呼ぶ写真であり、不当な戦争を象徴するようなものに見えた[W 5]。そうした印象を与えた一因として、処刑されたレムは実際には30代だったが、欧米の人々の目には「少年か少し上」くらいの若者に見えていたという点も指摘されている[W 1]
  8. ^ この時点でテト攻勢に対する防衛戦を戦っている最中であり、前掲したコメントのように、ここで処刑を躊躇していたら、兵士たちからの信頼を失っていただろうとロアンは考えていた[W 2]

出典

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出版物
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m ピュリツァー賞受賞写真全記録(ビュエル2011)、「1969年[ニュース速報部門] サイゴンでの処刑」 pp.78–80
  2. ^ a b c 他者の苦痛へのまなざし(ソンダク/北條2003)、p.57
  3. ^ a b c 戦争とフォト・ジャーナリズム(広河2004)、「ベトナムでの処刑」 pp.38–40
  4. ^ 戦後50年 決定的瞬間の真実(クノップ/畔1995)、「処刑 1968年 サイゴン」 pp.160–171中のp.162
  5. ^ 戦後50年 決定的瞬間の真実(クノップ/畔1995)、「処刑 1968年 サイゴン」 pp.160–171中のp.169
  6. ^ a b c d e 戦後50年 決定的瞬間の真実(クノップ/畔1995)、「処刑 1968年 サイゴン」 pp.160–171中のp.164
  7. ^ ベトナム戦争に抗した人々(油井2017)p.40
  8. ^ a b c アメリカ 1968(土田2012)p.22
  9. ^ ベトナム戦争に抗した人々(油井2017)p.78
  10. ^ a b c d e f ベトナム戦争 誤算と誤解の戦場(松岡2001)、「テレビ戦争の威力」 pp.270–272
  11. ^ a b 20世紀の瞬間(モリス/柴田1999)、「第26章 1968年の銃声」 pp.324–335中のp.325
  12. ^ a b アメリカ 1968(土田2012)p.25
  13. ^ ベトナム戦争に抗した人々(油井2017)p.80
  14. ^ ベトナム戦争に抗した人々(油井2017)p.82
  15. ^ a b 新版 写真のワナ(新藤1994)、p.66
  16. ^ 20世紀の瞬間(モリス/柴田1999)、「第26章 1968年の銃声」 pp.324–335中のp.328
  17. ^ 戦争とフォト・ジャーナリズム(広河2004)、「少女とハゲワシ」 pp.46–49
ウェブサイト
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参考資料

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書籍
配信動画