グラスゴー市銀行
グラスゴー市銀行(グラスゴーしぎんこう)、ないし、シティ・オブ・グラスゴー銀行(シティ・オブ・グラスゴーぎんこう、英語: The City of Glasgow Bank)は、かつて19世紀半ばに、スコットランドのグラスゴーに存在していた銀行。今日では、もっぱら1878年10月の極めて大規模な破綻によって知られている。無限責任を負っていた当時の株主1200人のうち、巻き込まれて破産せずに済んだ者は 254人しかいなかった。
概要
[編集]この銀行が設立されたのは1839年で[1]、設立時の資本金は 656,250ポンド(2005年時点に価値に換算すると4600万ポンド)であった。おもに小規模な投資家を顧客とすることを目的としており、夜間にも入金ができるよう、視点の窓口が営業していた。名称はシティ・バンク・オブ・ニューヨークを連想させることを狙ったものであったとも言われる。
本店は、1842年にグラスゴーのバージニア・ストリート (Virginia Street) に開設されたが、1851年にはグラスフォオード・ストリート (Glassford Street) に移転した。1857年恐慌の際、グラスゴー市銀行は一時営業を停止していたが、その後、営業を再開し、事業を継続することができた[2]。破綻に至るまでの長い間、株主たちは 9% から 12% の配当を受けていた。
破綻
[編集]1877年、グラスゴー市銀行は 7,000ポンド(2005年時点の換算で50万ポンド)の債務超過が発覚し、その処理についてスコットランドの他の銀行との合意が形成されるまでの間、11月から12月にかけて営業が停止し、ニューヨークの支店が廃止された[要出典]。その後、事業は順調に推移しているものと見受けられており、1878年6月には、133支店を構え、800万ポンド(2005年時点の換算で6億ポンド)の預金量があり、12%の配当を実施すると公表していた[1]。
しかし、10月2日に、取締役会は銀行の閉鎖を発表した[3]。破綻後の調査によれば、正味の負債は600万ポンド(2005年時点の換算で5億ポンド)を超え、不良債権も多く、オーストラリアにおける農場や鉱業、アメリカ合衆国の鉄道会社の株式など、投機的投資も多かったとされる[4]。さらに、金の保有高について虚偽の報告が当局に対してなされていた上、貸借対照表や損益計算書も偽装されており、銀行の株価も、秘密裏に行われていた銀行自身による自社株買いによって買い支えられていた[5]。こうした偽装工作が巧みであったため、銀行の株式が取引された最後の日における株価は、額面100ポンドに対して、236ポンドで売買が成立していた[5]。
取締役たちは逮捕され、1879年1月に、エディンバラの刑事上級裁判所 (High Court) で裁かれた。取締役たちは全員が有罪となり、8か月から18か月の懲役刑が科された[5]。
銀行の破産に巻き込まれる形で、損失の肩代わりを求められた数多くのグラスゴーの企業や株主たちが破綻を強いられた。ある株主は、銀行のエージェントによる詐欺行為によって自分は騙されて株主になっただけだとし、負債の減額を求めて当時は最高裁判所としての機能をもっていた貴族院に上訴したが、主張は認められなかった ("Houldsworth's case", 1880, 7 R. (H.L.) 53)[6]。
この一件を契機とした、より広範な影響は、有限責任制度の普及や、一時的な金融流動性の問題[7]、さらにイギリス全国における長期的な預金量の減少傾向などにも及んだ[8]。
この銀行の破綻の清算を管財人として監督したのは、アレクサンダー・ベネット・マグリガーであった[9]。
アーカイブ
[編集]この銀行のアーカイブは、グラスゴー大学文書館が保有している[10][11][12]。
文学
[編集]この銀行の破綻は、1948年にガイ・マクローンが発表した3部作『The Wax Fruit』に生々しく描写された[13]。2010年には BBC Radio 4 がこの作品をラジオドラマ化した[14]。
また、ジョージ・ド・ホーン・ヴェイジー夫人の1910年の小説『A Question of Marriage』も、この一件を取り上げている[15]。
脚注
[編集]- ^ a b “City of Glasgow Bank”. British Banking History Society. 2014年6月5日閲覧。
- ^ Grossman, Richard (2010). Unsettled Account: The Evolution of Banking in the Industrialized World since 1800. Princeton University Press. p. 96. ISBN 978-1400835256
- ^ “Bank must restore confidence”. The Scotsman. (2007年9月14日) 2014年6月5日閲覧。
- ^ Lloyd Pritchard, Muriel F. (1970). An Economic History of New Zealand to 1939. Auckland: Collins. p. 155
- ^ a b c Rosenblum, Leo (December 1933). “The Failure of the City of Glasgow Bank”. The Accounting Review (要購読契約) 8 (4): 285–291. JSTOR 238146.
- ^ “Houldsworth: An Obsolete Piece in the Legislative Puzzle”. University of Western Sydney Law Review (2008年). 2016年3月22日閲覧。
- ^ Manfred Pohl, Sabine Freitag, ed (1994). Handbook on the History of European Banks. European Association for Banking History. p. 1145. ISBN 9781781954218
- ^ Cottrell, P. J. (2004). Roderick Floud, Paul A. Johnson. ed. Cambridge Economic History of Modern Britain. 2. p. 274. ISBN 9780521527378
- ^ “Alexander Bennett McGrigor”. TheGlasgowStory. 2019年12月23日閲覧。
- ^ “RECENT HEAVY FAILURES.; THE BREAKING OF THE CITY OF GLASGOW BANK. ITS CREDIT KNOWN TO HAVE BEEN SHAKEN TEN YEARS GREAT DIVIDENDS PAID RECKLESS SYSTEM OF BUSINESS FAILURE OF A LONDON FIRM OF EAST INDIA MERCHANTS. Oct. 4, 1878”. The New York Times. 2019年12月23日閲覧。
- ^ “Bank of Scotland (1695- )”. 2008年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年12月23日閲覧。
- ^ Scotland’s ghost of banking meltdown pastwww.sundayherald.com, retrieved 2008-12-23 Archived 2008-12-24 at the Wayback Machine.
- ^ McCrone, Guy (2012). The Wax Fruit Trilogy. Black & White Publishing - Google books
- ^ “Episode 10 / 15 Minute Drama / Wax Fruit: Antimacassar City Episode 10 of 10”. BBC. 2019年12月23日閲覧。
- ^ Mrs George de Horne Vaizey. “A Question of Marriage by Mrs. George de Horne Vaizey”. Project Gutenberg. 2019年12月23日閲覧。
参考文献
[編集]- 福光寛「シティ・オブ・グラスゴー銀行の倒産:無限責任株式銀行の終焉-上-」『金融経済』第194号、金融経済研究所、1982年6月、35-68頁、ISSN 04519760、NAID 40000791931、CRID 1523388080863486976。
- 福光寛「シティ・オブ・グラスゴー銀行の倒産:無限責任株式銀行の終焉-下-」『金融経済』第195号、金融経済研究所、1982年8月、67-87頁、ISSN 04519760、NAID 40000791934、CRID 1521417756026948096。
外部リンク
[編集]- Report of the Trial of the Directors of the City of Glasgow Bank, 1879
- “Stockholders of City of Glasgow Bank”. Otago Daily Times (5236): pp. 2–3. (1878年11月28日) 2015年8月17日閲覧。