申宜孫
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名前 | ||||||
本名 |
ヴァレリー・コンスタンチノーヴィチ・サリチェフ Valeri Konstantinovich Sarychev Валерий Константинович Сарычев | |||||
愛称 | 神の手、蜘蛛の手[1] | |||||
カタカナ | シン・ウィソン | |||||
ラテン文字 | Shin Eui-son | |||||
ハングル | 신의손 | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
韓国 タジキスタン | |||||
生年月日 | 1960年1月12日(64歳) | |||||
出身地 | ソビエト連邦 ドゥシャンベ | |||||
身長 | 192cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
ユース | ||||||
パミール・ドゥシャンベ | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1978-1981 | パミール・ドゥシャンベ | 93 | (0) | |||
1981 | CSKAモスクワ | 4 | (0) | |||
1982-1991 | トルペド・モスクワ | 161 | (0) | |||
1992-1998 | 一和天馬 | 157 | (0) | |||
2000-2004 | 安養LGチータース | 95 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
1997 | タジキスタン | 1 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
申 宜孫(シン・ウィソン, Shin Eui-son, 朝鮮語: 신의손、1960年1月12日 - )は、ソビエト連邦・タジク・ソビエト社会主義共和国出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー。帰化前の名前はヴァレリー・コンスタンチノーヴィチ・サリチェフ(Valeri Konstantinovich Sarychev, ロシア語: Валерий Константинович Сарычев)。
Kリーグ時代の2000年までの登録名はシャリチェフ(ハングル: 샤리체프)[2]。
1992年から韓国のクラブでプレーし、2000年に韓国に帰化した。Kリーグ史上最高の外国籍選手の一人といわれる[3][4]。
経歴
[編集]選手時代
[編集]1978年、ソビエト連邦2部リーグに所属する地元のクラブ、CSKAパミール・ドゥシャンベのテストに合格し、そのキャリアをスタートさせた[3]。1981年は兵役で1部リーグのPFC CSKAモスクワに所属したが、5試合の出場に留まった[3]。1982年からはFCトルペド・モスクワに在籍[3]。トルペドでは何年もリザーブチームでのプレーが続いたが、1987年のシーズン終盤、4年ぶりにトップチームに起用された試合で活躍し、チームも最終的にUEFAカップ出場権を獲得した[3]。1991年にはソビエト連邦リーグの最優秀GKに選ばれた[3]。
1992年に韓国・Kリーグの一和天馬に移籍した。一和は1989年のKリーグ加盟初年度以来、毎年リーグ最多失点を喫していたチームだったが[3][5]、サリチェフが加入した1992年はリーグ最小の失点数(30試合21失点)で、優勝争いにも参加[3][5]、続く3シーズン(1993年、1994年、1995年)に一和はリーグを3連覇した。1995年にはアジアクラブ選手権に優勝した。サリチェフは1992年から4年連続でKリーグベストイレブンに選出された。
サリチェフの活躍の影響によって、Kリーグでは他のクラブもこぞって外国籍GKを獲得するようになったが、韓国人GKに出場機会を与えるために韓国プロサッカー連盟は外国籍GKに対する制限を1996年より設け始め、1999年には全面的に禁止された[6]。
1999年、安養LGチータースに選手兼コーチとして移籍した[6]。2000年に韓国に帰化し、名前を申宜孫(シン・ウィソン)とした。この名前は、彼のニックネームとしてファンに親しまれていた「神の手」を意味する韓国語と同じ発音である[6]。帰化の際、九里申氏の始祖となった。彼は韓国に帰化した最初の外国籍サッカー選手だった[4][6]。韓国人になったことで再び試合にも出場可能となると、申宜孫はそのブランクと40歳という年齢を物ともしない活躍を見せ、安養はリーグ最少失点で2000年のKリーグチャンピオンに輝いた[6]。2001年にもリーグ準優勝を収め、2000年と2001年は再びベストイレブンに選出された。2004年8月31日の浦項スティーラース戦で引退した[6]。
タジキスタン代表
[編集]1997年8月24日に韓国で行われた韓国対タジキスタンの親善試合で、タジキスタン代表として1試合に出場した[7]。タジキスタンはパスポートの不備によりメンバーが足りず、急遽、韓国国内でプレーしていたサリチェフとビタリー・パラクヘネビッチの2人のソビエト連邦出身者が招集された[7]。試合は4-1で韓国が勝利した[7]。
指導者時代
[編集]引退後はFCソウル、慶南FCのコーチを歴任。女子サッカークラブの高陽大教WFCを指導する傍ら、2009年にはFIFA U-20ワールドカップで準々決勝に進んだ韓国U-20代表のGKコーチを務めた[1]。
タイトル
[編集]チームタイトル
[編集]- トルペド・モスクワ
- USSRカップ
- 準優勝:1988、1989、1991
- USSRカップ
- 一和天馬、天安一和天馬
- Kリーグ
- 優勝:1993、1994、1995
- 準優勝:1992
- FAカップ
- 優勝:1999
- 準優勝:1997
- Kリーグカップ
- 優勝:1992
- 準優勝 1995
- アジアクラブ選手権
- 優勝:1995-96
- 準優勝:1996-97
- アジアスーパーカップ
- 優勝:1996
- アフロ・アジアクラブ選手権
- 優勝:1996
- Kリーグ
- 安養LGチータース、FCソウル
個人タイトル
[編集]- ソビエト連邦トップリーグ最優秀GK:1991
- Kリーグベストイレブン:1992、1993、1994、1995、2000、2001
脚注
[編集]- ^ a b “[U-20 WC 개막 ② 한국 코치진, 4강 신화 재현할 'F4'가 뜬다]” (韓国語). 스포츠서울닷컴 (2009年9月24日). 2011年9月2日閲覧。
- ^ “신의손(샤리체프)”. K League. 2023年11月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 김정현 (2009年2月26日). “K리그 역사의 한 페이지 장식 - 신의손 ①” (韓国語). KBS NEWS. 2011年9月2日閲覧。
- ^ a b http://www.rsssf.com/tabless/skorhist.html
- ^ a b c d e f 김정현 (2009年2月26日). “K리그 역사의 한 페이지 장식 - 신의손 ②” (韓国語). KBS NEWS. 2011年9月2日閲覧。
- ^ a b c http://www.rsssf.com/tabless/skor-intres1995.html
外部リンク
[編集]- 申宜孫 - National-Football-Teams.com
- 申宜孫 - FootballDatabase.eu
- 申宜孫 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 申宜孫 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 申宜孫 - K League