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申宜孫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シン・ウィソンから転送)
申宜孫
名前
本名 ヴァレリー・コンスタンチノーヴィチ・サリチェフ
Valeri Konstantinovich Sarychev
Валерий Константинович Сарычев
愛称 神の手、蜘蛛の手[1]
カタカナ シン・ウィソン
ラテン文字 Shin Eui-son
ハングル 신의손
基本情報
国籍 大韓民国の旗 韓国
タジキスタンの旗 タジキスタン
生年月日 (1960-01-12) 1960年1月12日(64歳)
出身地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 ドゥシャンベ
身長 192cm
選手情報
ポジション GK
ユース
ソビエト連邦の旗 パミール・ドゥシャンベ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1978-1981 ソビエト連邦の旗 パミール・ドゥシャンベ 93 (0)
1981 ソビエト連邦の旗 CSKAモスクワ 4 (0)
1982-1991 ソビエト連邦の旗 トルペド・モスクワ 161 (0)
1992-1998 大韓民国の旗 一和天馬 157 (0)
2000-2004 大韓民国の旗 安養LGチータース 95 (0)
代表歴
1997 タジキスタンの旗 タジキスタン 1 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

申 宜孫(シン・ウィソン, Shin Eui-son, 朝鮮語: 신의손1960年1月12日 - )は、ソビエト連邦タジク・ソビエト社会主義共和国出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー。帰化前の名前はヴァレリー・コンスタンチノーヴィチ・サリチェフ(Valeri Konstantinovich Sarychev, ロシア語: Валерий Константинович Сарычев)。

Kリーグ時代の2000年までの登録名はシャリチェフハングル: 샤리체프)[2]

1992年から韓国のクラブでプレーし、2000年に韓国に帰化した。Kリーグ史上最高の外国籍選手の一人といわれる[3][4]

経歴

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選手時代

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1978年、ソビエト連邦2部リーグに所属する地元のクラブ、CSKAパミール・ドゥシャンベのテストに合格し、そのキャリアをスタートさせた[3]。1981年は兵役で1部リーグPFC CSKAモスクワに所属したが、5試合の出場に留まった[3]。1982年からはFCトルペド・モスクワに在籍[3]。トルペドでは何年もリザーブチームでのプレーが続いたが、1987年のシーズン終盤、4年ぶりにトップチームに起用された試合で活躍し、チームも最終的にUEFAカップ出場権を獲得した[3]。1991年にはソビエト連邦リーグの最優秀GKに選ばれた[3]

1992年に韓国・Kリーグ一和天馬に移籍した。一和は1989年のKリーグ加盟初年度以来、毎年リーグ最多失点を喫していたチームだったが[3][5]、サリチェフが加入した1992年はリーグ最小の失点数(30試合21失点)で、優勝争いにも参加[3][5]、続く3シーズン(1993年、1994年、1995年)に一和はリーグを3連覇した。1995年にはアジアクラブ選手権に優勝した。サリチェフは1992年から4年連続でKリーグベストイレブンに選出された。

サリチェフの活躍の影響によって、Kリーグでは他のクラブもこぞって外国籍GKを獲得するようになったが、韓国人GKに出場機会を与えるために韓国プロサッカー連盟は外国籍GKに対する制限を1996年より設け始め、1999年には全面的に禁止された[6]

1999年、安養LGチータースに選手兼コーチとして移籍した[6]。2000年に韓国に帰化し、名前を申宜孫(シン・ウィソン)とした。この名前は、彼のニックネームとしてファンに親しまれていた「神の手」を意味する韓国語と同じ発音である[6]。帰化の際、九里申氏の始祖となった。彼は韓国に帰化した最初の外国籍サッカー選手だった[4][6]。韓国人になったことで再び試合にも出場可能となると、申宜孫はそのブランクと40歳という年齢を物ともしない活躍を見せ、安養はリーグ最少失点で2000年のKリーグチャンピオンに輝いた[6]。2001年にもリーグ準優勝を収め、2000年と2001年は再びベストイレブンに選出された。2004年8月31日の浦項スティーラース戦で引退した[6]

タジキスタン代表

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1997年8月24日に韓国で行われた韓国タジキスタンの親善試合で、タジキスタン代表として1試合に出場した[7]。タジキスタンはパスポートの不備によりメンバーが足りず、急遽、韓国国内でプレーしていたサリチェフとビタリー・パラクヘネビッチの2人のソビエト連邦出身者が招集された[7]。試合は4-1で韓国が勝利した[7]

指導者時代

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引退後はFCソウル慶南FCのコーチを歴任。女子サッカークラブの高陽大教WFCを指導する傍ら、2009年にはFIFA U-20ワールドカップで準々決勝に進んだ韓国U-20代表のGKコーチを務めた[1]

タイトル

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チームタイトル

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個人タイトル

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脚注

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  1. ^ a b [U-20 WC 개막 ② 한국 코치진, 4강 신화 재현할 'F4'가 뜬다]” (韓国語). 스포츠서울닷컴 (2009年9月24日). 2011年9月2日閲覧。
  2. ^ 신의손(샤리체프)”. K League. 2023年11月4日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 김정현 (2009年2月26日). “K리그 역사의 한 페이지 장식 - 신의손 ①” (韓国語). KBS NEWS. 2011年9月2日閲覧。
  4. ^ a b 귀화 축구선수 '신의손' 그라운드를 떠나며...” (韓国語). NAVER News (2005年5月9日). 2011年9月2日閲覧。
  5. ^ a b http://www.rsssf.com/tabless/skorhist.html
  6. ^ a b c d e f 김정현 (2009年2月26日). “K리그 역사의 한 페이지 장식 - 신의손 ②” (韓国語). KBS NEWS. 2011年9月2日閲覧。
  7. ^ a b c http://www.rsssf.com/tabless/skor-intres1995.html

外部リンク

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