ジェイムズ・ハガティ
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(ジェームズ・ハガティから転送)
ジェイムズ・ハガティ | |
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James Hagerty | |
ハガティとピエール・サリンジャー(1960年12月6日) | |
第8代ホワイトハウス報道官 | |
任期 1953年1月20日 – 1961年1月20日 | |
大統領 | ドワイト・D・アイゼンハワー |
前任者 | ロジャー・タビー |
後任者 | ピエール・サリンジャー |
個人情報 | |
生誕 | James Campbell Hagerty 1909年5月9日 アメリカ合衆国 ニューヨーク州プラッツバーグ |
死没 | 1981年4月11日(71歳没) アメリカ合衆国 ニューヨーク州ブロンクスビル |
政党 | 共和党 |
配偶者 | マージョリー・ルーカス |
教育 | コロンビア大学 (BA) |
ジェイムズ・キャンベル・ハガティ(英語: James Campbell Hagerty, 1909年5月9日 - 1981年4月11日)は、ドワイト・D・アイゼンハワー政権期(1953年 - 1961年)における唯一のホワイトハウス報道官である。スティーヴン・アーリーと共に、彼はこれまでで最も長く報道官の職に就いた。
生涯
[編集]ハガティはニューヨーク市ブロンクス区のエヴァンダー・チャイルズ高校に通い、ブレア・アカデミーを卒業した。同アカデミーには、高校での最後の2年間出席した[1]。ハガティは報道官時代の1957年3月、テレビ番組『What's My Line』に出演した。
安保闘争当時の1960年6月10日、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日したものの、安保反対派のデモ隊に迎えの車を包囲されて立往生し、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救出された「ハガチー事件」(当時の日本の報道機関の表記。肩書も「新聞係秘書」[2]、「新聞秘書官」[3]であった)の当事者である。結局アイゼンハワーの来日は中止となった。
ハガティの次の言葉は、よく引合いに出される。「ある日私は、ほとんど絶望し、座り込んで考えていた。誰かの手が私の肩を叩き、励ますような声でこう言った。『元気を出せよ。もっと悪くなる可能性だってあったんだからさ。』 そこで元気を出してみると、なるほど確かに事態はもっと悪くなった。」
脚注
[編集]- ^ McQuiston, John T. "JAMES C. HAGERTY, 71, DIES; EISENHOWER PRESS SECRETARY", The New York Times, April 13, 1981. 「ジェイムズ・ハガティは、家族がプラッツバーグからニューヨーク市へ転居(彼が3歳のとき)したのち、ブロンクスの小学校とエヴァンダー・チャイルズ高校に通い、高校最後の2年間はニュージャージー州ブレアズタウンのブレア・アカデミーに籍を置いた」。
- ^ 秋山頼吉 (2000年7月). “戦後政治の分岐点―60年安保騒動―官邸キャップとして”. 日本記者クラブ. 2018年4月22日閲覧。
- ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、99頁。ISBN 9784309225043。
外部リンク
[編集]- Papers of James C. Hagerty, Dwight D. Eisenhower Presidential Library
- Finding aid for James C. Hagerty Oral History, Dwight D. Eisenhower Presidential Library
- 嵐の中のアイク訪日(中日映画社)
公職 | ||
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先代 ロジャー・タビ |
ホワイトハウス報道官 1953年-1961年 |
次代 ピエール・サリンジャー |