ジョスリン・パーシー (第11代ノーサンバランド伯)
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ジョスリン・パーシー Josceline Percy | |
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第11代ノーサンバランド伯 | |
第11代ノーサンバランド伯ジョスリン・パーシー、 ゴドフリー・ネラー画(1670年/1673年) | |
在位 | 1668年 - 1670年 |
出生 |
1644年7月4日 |
死去 |
1670年5月31日(25歳没) |
配偶者 | エリザベス・リズリー |
子女 |
エリザベス ヘンリー |
家名 | パーシー家 |
父親 | 第10代ノーサンバランド伯アルジャーノン・パーシー |
母親 | エリザベス・ハワード |
第11代ノーサンバランド伯ジョスリン・パーシー(Josceline Percy, 11th Earl of Northumberland, 1644年7月4日 - 1670年5月31日)は、イングランドの貴族。第10代ノーサンバランド伯アルジャーノン・パーシーと第2代サフォーク伯セオフィラス・ハワードの娘エリザベスの子。
生涯
[編集]1668年に父が亡くなると爵位を継承したが、わずか2年後の1670年、妻と共にイタリアのトリノ滞在中に熱病にかかり25歳の若さで死亡。1669年に息子ヘンリーに先立たれていたため爵位とパーシー家男系は断絶した。イングランド王チャールズ2世は空位となったノーサンバランド伯位を狙い、1674年に自分の庶子ジョージ・フィッツロイに与えた。更に1683年にはノーサンバランド公に昇叙させたが、1716年にジョージが子供の無いまま死亡したため爵位は消滅した[1][2]。
一方、ジョスリン亡き後は一人娘エリザベスが残されたが、広大な遺領を狙う貴族たちに3回政略結婚させられ、最終的にエリザベスの3度目の結婚相手である第6代サマセット公チャールズ・シーモアがパーシー家の遺領を獲得した。しかし1750年にエリザベスとサマセット公の息子の第7代サマセット公アルジャーノン・シーモアが死亡してシーモア家も男系が断絶すると、彼の娘エリザベスと結婚したヒュー・スミソンがパーシー家に復姓してノーサンバランド伯位とパーシー家は復活、ヒューの代で公爵に昇格してノーサンバランド公家として現在も続いている[1][3]。
子女
[編集]1662年にサウサンプトン伯爵トマス・リズリーの娘エリザベスと結婚、1男1女を儲けた。
- エリザベス(1667年 - 1722年) - 1679年にオグル伯ヘンリー・キャヴェンディッシュと結婚したが1680年に死別、1681年にトマス・シンと再婚したが1682年に暗殺。同年に第6代サマセット公チャールズ・シーモアと再々婚。
- ヘンリー(1668年 - 1669年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]名誉職 | ||
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空位時代 | ノーサンバーランド統監 共同:ノーサンバランド伯 1660年 - 1668年 1660年 - 1670年 |
次代 ニューカッスル公 |
先代 サウサンプトン伯 |
ハンプシャー首席治安判事 1667年 - 1670年 |
次代 ウィンチェスター侯 |
先代 ノーサンバランド伯 |
サセックス統監 1668年 - 1670年 |
次代 ドーセット伯 バックハースト男爵 |
サセックス首席治安判事 1668年 - 1670年 |
次代 ドーセット伯 | |
イングランドの爵位 | ||
先代 アルジャーノン・パーシー |
ノーサンバランド伯 1668年 - 1670年 |
次代 消滅 |