ジルセウ・ジョゼ・ギマランイス
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名前 | ||||||
本名 |
ジルセウ・ジョゼ・ギマランイス Dirceu José Guimarães | |||||
ラテン文字 | Dirceu | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブラジル | |||||
生年月日 | 1952年6月15日 | |||||
出身地 | リオデジャネイロ | |||||
没年月日 | 1995年9月15日(43歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | 引退 | |||||
ポジション | MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1970-1972 | コリチーバ | 26 | (1) | |||
1973-1976 | ボタフォゴ | 52 | (9) | |||
1976 | フルミネンセ | 22 | (2) | |||
1977-1978 | ヴァスコ・ダ・ガマ | 25 | (2) | |||
1978-1979 | クラブ・アメリカ | 30 | (10) | |||
1979-1982 | アトレティコ・マドリード | 84 | (18) | |||
1982-1983 | ヴェローナ | 29 | (2) | |||
1983-1984 | ナポリ | 30 | (5) | |||
1984-1985 | アスコリ | 27 | (5) | |||
1985-1986 | コモ | 25 | (2) | |||
1986-1987 | アヴェッリーノ | 23 | (6) | |||
1988 | ヴァスコ・ダ・ガマ | |||||
1988 | マイアミ・シャークス | |||||
1989-1991 | エボリターナ | |||||
1991 | ハーヴィー・ボローニャ (フットサル) | |||||
1992 | ベネヴェント | |||||
1992-1993 | ジャンパオリ・アンコーナ (フットサル) | |||||
1993 | アトレティコ・ユカタン | |||||
代表歴 | ||||||
1973-1986 | ブラジル [1] | 26 | (4) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ジルセウ(Dirceu)ことジルセウ・ジョゼ・ギマランイス(Dirceu José Guimarães、1952年6月15日 - 1995年9月15日)は、ブラジル出身の元同国代表サッカー選手。ディルセウとも表記される。
国内外で成功を収め、FIFAワールドカップに3大会連続で出場した。
経歴
[編集]ブラジル時代
[編集]コリチーバFCでデビューすると、1973年からブラジルの強豪ボタフォゴFRに移籍、52試合に出場した。その後、フルミネンセFCとCRヴァスコ・ダ・ガマに1年ずつ在籍し、それぞれ20試合前後の出番を得た。
メキシコ・スペイン時代
[編集]1978年にメキシコのクラブ・アメリカへ移籍した。そこでの活躍が認められ、1979年からはスペインのアトレティコ・マドリードへ移籍した。アトレティコでは3年間で84試合に出場し、18得点を記録するなど、攻撃的なサイドバックとして成功を収めた。
イタリア時代
[編集]1982年からは、イタリアのエラス・ヴェローナFCへ移籍し、以降はSSCナポリ、アスコリ・カルチョ1898、コモ・カルチョ、USアヴェッリーノ1912とイタリアのクラブを渡り歩き、結果を残した。
晩年
[編集]晩年には古巣のCRヴァスコ・ダ・ガマや、アメリカのマイアミ・シャークスなどに在籍し、イタリアのフットサルチームなどでもプレーした。1993年、メキシコのアトレティコ・ユカタンで現役を引退した。
1995年、交通事故により43歳で死去。
代表歴
[編集]代表では、キャリアを通じて26試合に出場した。また、1974 FIFAワールドカップ、1978 FIFAワールドカップ、1982 FIFAワールドカップと、ワールドカップに3大会連続で出場した。78年大会では、イタリアとの3位決定戦で、ディノ・ゾフを破る決勝点を決めた。
タイトル
[編集]- カンピオナート・パラナエンセ - 1971、1972
- カンピオナート・カリオカ - 1976、1977、1988