スタニスラフ・レフチェンコ
スタニスラフ・アレクサンドロヴィチ・レフチェンコ(ロシア語: Станислав Александрович Левченко、1941年7月28日 - )は、1979年にソ連からアメリカ合衆国へ亡命した元ソ連国家保安委員会(KGB)少佐である。1989年にアメリカ国籍を取得。
経歴
[編集]KGB
[編集]レフチェンコは、第二次世界大戦中の1941年にモスクワで生まれ、1964年にモスクワ大学東洋学部を卒業する。
漁業研究所に勤務していたが、大学で日本語と英語を身につけたことを買われ、1968年にKGB入り。KGB大学校で情報工作課程と日本語課程を受け、KGB第1本部第7部に配属された。この間、日本万国博覧会の際などにKGB高官の日本語通訳として、東京や大阪に何回か出張している。
1975年、KGB東京代表部に赴任。カバーの役職は、ソ連大使館広報部内に置かれた「ノーボスチ通信社」(その後改組され、RIAノーボスチを経て、現在ロシアの今日)[1]東京支局の特派員であった。
KGB東京代表部ではPR班に所属し、積極工作に従事していた。積極工作とは、ジャーナリストや政治家などと接触し、その国の世論が親ソ的なものになるよう謀略をしかけることである。レフチェンコは、渋谷区宇田川町のマンションに住居を構え、日本の政財界、官僚やジャーナリストなどの人物を情報提供者としたスパイ網を構築した。
亡命
[編集]1979年10月に、東京都内にあるアメリカ軍関係者用ホテルである山王ホテルへ駆け込み、亡命を申請しアメリカへ亡命した。ソ連の法廷は1981年にレフチェンコを徹底的に非難した他、ソ連共産党国際部日本課長のイワン・コワレンコはその著書内でレフチェンコを「性格に問題がある嘘つき」と非難した。
さらにKGBエージェントのスヴェトラーナ(Svetlana Ogorodnikova)とニコライ(Nikolai Ogorodnikov)はアメリカでレフチェンコを探し出そうとしたが、これらの試みは「リチャード・ミラー・スパイ事件(Richard Miller spy case)」で露見することとなった。
レフチェンコ事件
[編集]1982年12月にはアメリカ議会などで、KGBによる日本のスパイ組織網に関する証言を行い、さらにKGBの日本人協力者およそ200人の名前を供述した。
協力者リストには、自由民主党の石田博英労働大臣や日本社会党の勝間田清一委員長などの政治家、テレビ朝日専務の三浦甲子二、産経新聞編集局長の山根卓二など、ジャーナリスト、外交官、内閣調査室など情報機関員の名前が記載されていた。
1983年8月に『レフチェンコは証言する』(週刊文春編集部編、文藝春秋)が出版された。
自伝
[編集]- 1988年にレフチェンコは、自叙伝 On the Wrong Side : My Life in the KGB を出版した。
- 『KGBの見た日本 : レフチェンコ回想録』リーダーズ・ダイジェスト社、1984年。NDLJP:11931357。(日本語訳、抜粋版)
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ ソ連の週刊誌『Новое Время』(新時代)発行元