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ズビグニェフ (ポーランド公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ズビグニェフ
Zbigniew
ポーランド大公
在位 1102年 - 1107年

出生 1070年?
死去 1112年
家名 ピャスト家
王朝 ピャスト朝
父親 ヴワディスワフ1世ヘルマン
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ズビグニェフZbigniew1070年? - 1112年)は、ポーランド大公ポーランド王に列せられている)。

生涯

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1070年頃、ヴワディスワフ1世ヘルマンの第一子として生まれた。母親は氏名不詳の愛妾であり、ズビグニェフは宮廷から遠ざけられ、12年あまりをドイツクヴェードリンブルク修道院で過ごした。1093年、彼は父と敵対する強力なヴォイヴォド、シエチェクによってポーランドへ連れてこられた。1098年、ズビグニェフと異母弟ボレスワフは、シエチェクを流刑にした父親より優勢となり、父からそれぞれ領土を分割して与えられた。1102年から1106年(または1107年)の間、ズビグニェフはポーランド大公であった。

1107年、ズビグニェフは異母弟ボレスワフ3世によって国から追放され、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の支援を求めてドイツへ逃げた。1109年に行われた皇帝のポーランド遠征にズビグニェフも加わるが、フントシュベルトの戦いでボレスワフ3世に退けられた。

1112年、ズビグニェフは罠だと知らずにポーランドへおびき寄せられた。彼は両目を潰されてのち死んだという。