コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

トゥルチャ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トゥルチャ市から転送)
トゥルチャ
Tulcea
トゥルチャの市章
市章
位置
トゥルチャの位置の位置図
トゥルチャの位置
位置
トゥルチャの位置(ルーマニア内)
トゥルチャ
トゥルチャ
トゥルチャ (ルーマニア)
トゥルチャの位置(ヨーロッパ内)
トゥルチャ
トゥルチャ
トゥルチャ (ヨーロッパ)
座標 : 北緯45度11分24秒 東経28度48分0秒 / 北緯45.19000度 東経28.80000度 / 45.19000; 28.80000
行政
 ルーマニア
  トゥルチャ県
 市 トゥルチャ
市長 Constantin Hogea
地理
面積  
  市域 115 km2
標高 30 m
人口
人口 (2002年現在)
  市域 91,875人
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
公式ウェブサイト : http://www.primaria-tulcea.ro/

トゥルチャルーマニア語: Tulceaウクライナ語ロシア語ブルガリア語Тулча/Tulchaトルコ語:Hora-TepéまたはTolçu[要出典])は、ルーマニア東部の都市。トゥルチャ県の県都。

歴史

[編集]

トゥルチャは紀元前にアエギッスス(Aegyssus)の名でシケリアのディオドロスの文書において言及された。オウィディウスは町を自著『エクス・ポント』(en:Ex Ponto)でふれ、「町の名は創建者であるダキア人にちなみカルピウス・アエギッスス(Carpynus Aegyssus)と名付けられた」と書いた。

紀元前15年から12年まで続いた戦いの後、ローマ帝国が町を支配した。ローマ人は自らの設計図にそって再建し、彼らの技術と建築的視野から町を再編した。現存する市壁の廃墟と防御用塔は、ローマ人の痕跡を物語るものである。考古学的な出土品はトゥルチャ考古学博物館に収められている。アエギッススの要塞化された町は10世紀まで、他の文書にも記載が残されていた。

5世紀から7世紀にかけ、東ローマ帝国の支配を受け、その後ブルガリア帝国(681年 - 1000年頃、1185年 - 14世紀)の支配下に入った[1] [2] [3] [4]。10世紀から13世紀にはジェノヴァ共和国に支配され、その後ドブルジャのブルガリア貴族ドブロティツァ(en:Dobrotitsa)が事実上の支配者となり、1390年以降、ワラキアミルチャ1世が支配した。

1416年、オスマン帝国に侵攻され、その支配はその後460年にも及んだ。トゥルチャがドブルジャ地方とともにルーマニアに併合されるのは1878年である(ベルリン会議 (1878年))。1848年頃、トゥルチャは小さな造船所のある都市のままで、1860年には都市特権を授かり、県の中心都市となっていった。

統計

[編集]

2002年調査によると、トゥルチャ人口は91,875人で、92.3%がルーマニア人である。目を引く少数民族は、3.4%のリポヴァン人中世ロシア正教会の改革を拒み、ロシアを追われた)、1.4%のトルコ人である。元々の土着民族であったブルガリア人は、1941年のクラヨーヴァ条約締結により南ドブルジャがブルガリアへ返還されたため、トゥルチャを含む北ドブルジャを離れた。

姉妹都市

[編集]

参照

[編集]
  1. ^ Theophanes, ibid., p.357-358
  2. ^ Nicephorus, ibid., p.34
  3. ^ Laiou, A. E. Constantinople and the Latins (Foreign Policy of Andronicus II, 1282-1328). Cambridge, Mass., 1972.
  4. ^ Brâtianu, G. I. à Cetatea Albă (Akkerman) au debut du XIVeme siècle-Byz, 2, 1926, 153-168

参考文献

[編集]
  • Theophanes, ibid., p.357-358
  • Nicephorus, ibid., p.34
  • Laiou, A. E. Constantinople and the Latins (Foreign Policy of Andronicus II, 1282-1328). Cambridge, Mass., 1972.
  • Brâtianu, G. I. Les Bulgares à Cetatea Albă (Akkerman) au debut du XIVeme siècle-Byz, 2, 1926, 153-168

外部リンク

[編集]