ドメニコ・バルバイア
ドメニコ・バルバイア(Domenico Barbaia(またはBarbaja)、1778年? - 1841年10月19日)は、イタリアのインプレサリオ。ナポリのサン・カルロ劇場をはじめとする多数の劇場の支配人であり、ロッシーニをはじめとする19世紀初頭のオペラの多くがバルバイアのもとで上演された。
生涯
[編集]バルバイアはミラノの貧しい家に生まれ、最初はカフェで働いていた[1][2]。この時代にコーヒーとチョコレート、クリームを混ぜたバルバヤーダという飲料を考案して成功をおさめた[2]。
1806年にはスカラ座に附属する賭博場の経営権を得た[1]。1809年以降、ナポリでサン・カルロ劇場、ヌオーヴォ劇場、さらにフォンド劇場とフィオレンティーニ劇場の支配人になった[1][2]。1816年にサン・カルロ劇場は焼失したが、わずか9か月で元よりはるかに立派な劇場が再建された[1][2]。
1815年にバルバイアはロッシーニをナポリに招き、ロッシーニが毎年2作の新作オペラを提供し、サン・カルロ劇場およびフォンド劇場の監督に就任する契約をかわした[2][3]。ロッシーニがこの契約のために1815年から1822年にかけて作曲したオペラ作品には以下のものがある。これらはすべてオペラ・セリアまたはセミセリア作品であった。
- イングランドの女王エリザベッタ(初演1815年、サン・カルロ劇場)
- オテッロ(1816年、フォンド劇場)
- アルミーダ(1817年、サン・カルロ劇場)
- エジプトのモーゼ(1818年、サン・カルロ劇場)
- リッチャルドとゾライーデ(1818年、サン・カルロ劇場)
- エルミオーネ(1819年、サン・カルロ劇場)
- 湖上の美人(1819年、サン・カルロ劇場)
- マオメット2世(1820年、サン・カルロ劇場)
- ゼルミーラ(1822年、サン・カルロ劇場)
バルバイアはさらにウィーンにも進出し、1821年以降にケルントナートーア劇場とアン・デア・ウィーン劇場の支配人を兼ねた[1][2]。1826年からしばらくはミラノのスカラ座およびカノビアーナ劇場の支配人でもあった[1]。 ウィーンに進出したバルバイアはまず1822年3月のウェーバー『魔弾の射手』のウィーン初演で人気を得た後、4月にロッシーニ『ゼルミーラ』のウィーン初演によって大成功をおさめ、ウィーンにロッシーニ旋風を吹かせた[3]。
バルバイアの愛人だったソプラノ歌手のイザベッラ・コルブランとロッシーニは懇意になり、1822年に結婚した[3]。このことからバルバイアとロッシーニの関係は一時期冷えたというが、その後もバルバイアがイタリアおよびウィーンの劇場を経営する上でロッシーニ作品は主要なレパートリーであり続けた[2]。
ロッシーニ以外にバルバイアはメルカダンテ、パチーニ、ドニゼッティ、ベッリーニらのイタリア人オペラ作曲家の作品をプロデュースした[2]。ドニゼッティの作品の大部分はバルバイアのもとで上演されたし、ベッリーニをデビューさせたのもバルバイアだった[2]。
バルバイアの関係するそれ以外の主な作品に以下のものがある[2]。
- スポンティーニ『ヴェスタの巫女』のイタリア初演(1811年、サン・カルロ劇場)
- グルック『オーリードのイフィジェニー』のイタリア初演(1812年、サン・カルロ劇場)
- ウェーバー『オイリアンテ』の初演(1823年、ケルントナートーア劇場)
バルバイアはナポリ郊外のポジッリポ (Posillipo) に邸宅を建てた。脳卒中のために1841年に没した[2]。